一年前にJBSAのことを話してきました!① | ブリスの自己主張(盲導犬ブリスと犬の気持ちがわからないユーザーとのユニット)

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2023年123日に、シェラトン都ホテル東京で行われた東京白金ロータリークラブ1月の例会にて、NPO法人「日本視覚障害者セーリング協会」JBSAについての卓話をさせていただきました。

これはJBSA創立者の竹脇氏の友人で白金ロータリークラブの会員であるブラインドのo氏からいただいたお話でした。



すでに一年前のことになりますが、その時の様子を今回のブログにアップいたします。

もちろんブリスもスピーチをしているユーザーの足もとでお利口さんにしておりました。もしかしたら、会場の皆さんの視線はこちらにだけ注がれていたのかもしれませんね。



最初に東京白金ロータリークラブの紹介です。

 東京白金ロータリークラブは、創立以来、活動のひとつに「視覚障がい者に明るい未来を!」をスローガンに、<日本盲導犬協会への募金活動><むつき会への支援><パラリンピック高田千明選手の支援>等々、視覚障害に関わる多くの奉仕活動行なってきました。

また、クラブ合同国際奉仕活動では、海外への支援活動も積極的に行なっております。


 そんな白金ロータリークラブの皆さんが、「風は誰にも見えない」を合言葉に創立したJBSAに興味を持って下さったことを嬉しく思いました。

当日は竹脇氏と奥様が応援に来てくださいました。

ロビーでは、集まった関係者の方々がご挨拶に来てくださって、ブリスが場を和ませてくれました。ただ私は迫ってくる卓話のことで頭はいっぱいで、挨拶もそこそこだったような気がします。

例会のタイムテーブルではお食事の後が卓話です。ただ、私としてはお料理を口にするたびに、暗記したスピーチ原稿を忘れてしまうのではという恐怖にも似た緊張感に襲われながらの食事でした。なにせ点字のできないブラインドは原稿を読みながらができないのですから。食後のデザートをゆっくり味わいたかったと、それだけが心残りでした(笑)。


当日の持ち時間は30分でしたが、そのスピーチ原稿にかなり加筆いたしましたので、ここでは長文になっております。


 この日の卓話ではJBSAのこれまでを5つに分けて説明いたしました。

1 ブラインドセーリングについて

2JBSAの誕生

3 JBSAワールドでの成績&エピソード

4 世界へ船出した仲間

5これからのブラインドセーリング



1 ブラインドセーリングについて


私たちが使用しているヨットはJ24という長さ24フィート、約7.3メートルの小さめのクルーザーヨットです。

世界選手権大会のような公的レースではこのようなヨットをブラインド2名と晴眼者(サイテッド)2名の4名ひとチームで操船いたします。

ブラインドは舵をとるヘルムスマン、大きな帆(メインセール)を風に合わせて操るメイントリマーを担当します。

海面を見ながら風を予測してコースを決めたり、風に対する艇の角度や他の艇の重要な状況を伝えてくれるのがサイテッドスキッパー。小さな帆(ジブセール)を操り、船と目的のマークとの角度や細かな状況説明をしたりその場に応じた作業をこなしてくれるのがサイテッドジブトリマーです。

ここでは責任ある役割分担がしっかりと決まっております。各自どれだけミスを少なくこなせるかが、勝負になってきます。私達ブラインドは目が見えないだけで動きは自由なので、ヨットに乗るスタイルは健常者とかわりません。ただワールドでは見え方に差が出ないように視覚をカテゴライズして、3つのクラスに分けています。

B1は全盲、B2は光を感じたり手の動きがわかる程度、B3は弱視

それぞれのクラスでフリートレースが行われます。


ここまで説明を準備していたのですが、卓話の前に上映してもらった「視覚障害者スポーツ紹介のDVDの中のブラインドセーリングの説明が分かりやすかったので、このスピーチは省略いたしました。

このDVDは筑波技術大学が視覚障害者のスポーツの紹介として作成したもので、「ブラインドセーリング」に関してはJBSAが協力しています。



2 JBSAの誕生

青山学院在学中にヨット部を発足させた竹脇氏は、卒業後はラジオ局のアナウンサーをしておりましたが、緑内障のために原稿を読むのが困難になり、仕事を途中で断念いたしました。

 所有していたクルーザーでのセーリングも、さらに続く視力低下によりままならなくなりました。

ヨットを手放し、海から離れて久しい頃です。たまたま見ていたテレビのニュース番組で、ニュージーランドで行われたブラインドセーリング世界選手権のことが紹介されると、思わずテレビ局に電話をしていたそうです。

それがきっかけになり、テレビ局のスタッフさん、青学ヨット部OBたち、さらにはヨット関係者たちが日本でのブラインドセーリングをと色めきだちましたが、それでも竹脇氏は慎重でした。“どうする竹脇”時代です。

多くの関係者に背中を押されながらニュージーランドで行われたブラインドセーリングキャンプに参加した竹脇氏は、そこでBSI(ブラインド セーリング インターナショナル)の会長から、翌年予定されている「第三回イギリスウェマス世界選手権」(以下、ワールド)へ出場しないかと誘われるのです。

 ウェマスといえばヨットマンには憧れの聖地。それまでずっと慎重だった竹脇氏ですが、ワールド参戦を決断すると、早速その年にJBSAを創立したのです。1996年のことでした。


JBSAは幻のモスクワオリンピックヨット選手だった故日高氏をサイテッドに迎えての竹脇チームの他に、公募で集まった若手のチームでワールドに参戦したのです。

ただ、初めての東洋人に欧米選手達は塩対応。上から目線で声もかけてくれなかったそうです。でもレースは初戦から4レースまで続けて2位。

 アウェイの中での好成績に、さすがの欧米選手達も親しく話しかけてきたというエピソードがあります。

 サポーターの中には、溜飲が下がる思いをした人もいたのではないでしょうか。

ただ、ここまでは順調にきたレースでしたが、次第に風が強風へと変わります。

日本人はここで欧米人との体重の差がでてしまうのです。

風が強くなるとヨットは傾きを増します。それを体重で抑えるのですが、このウェイト差がレースの成績に反映されるのです。

強風が続いて順位を落としてしまったジャパンでしたが、風が落ち着いてくると再びチャンスは巡ってきました。

 このワールドで日本は総合3位、銅メダル獲得です。華やかなデビュー戦でした。

(ここでは、竹脇氏のことが書かれた「ブラインドセーリング 失明からの復活戦! ヨットに賭ける」軍司貞則著を参考にさせていただきました)


②につづく