日本人とダイバーシティとインクルージョン | しあわせになりたかったのに

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すみませんでした。

 多様性を認め合い、共に生きる社会を作る。ダイバーシティ、インクルージョン、そんな言葉で語られる概念は、まだ実現に至らない。
 多様性はグラデーションを描き、スペクトラム状に広がっている。個々の特性について、他者が枠にはめようとしても無理がある。特性は、それを持つ本人が発信するしかないのだ。
 しかし、その言語化は容易ではない。他者に伝えることに抵抗があるケースだってあるだろう。そのなかで、体験を通して違いを理解し合い、双方が話し合う必要がある。取り組み、感じ、発信して、認め合う、という順番である。
 日本人は、互いに配慮し合い、気をつかい合い、黙して察しあう、集団的自我とでもいうべき人格を有する。皆のために耐え忍ぶことを美徳とする。その風潮が、個々人の特性を発信する妨げとなっている。マイノリティの発信を、黙ってろ、我慢しろ、という暗黙の要請、不文律の同調圧力となって、排除してしまう。
 黙りがちな国民性、気をつかい、我慢しがちな個々人によって構成される社会で、各々が理解しあうには工夫が必要だろう。相手の話を聴き、自分なりの理解を伝える。その機会を増やす必要がある。

 障害特性と就労について考える。
 就労において、人事考課が行われることがある。業務内容のチェックシートを用い、従業員の能力を明確にしようとする。出来ていることを評価し、できていないことは達成するよう努力を促される。
 雇用主、あるいは人事の担当者が、従業員に教育を行う、パターナリズムの性質を持ったこの仕組みを、特性の理解に役立てることはできないだろうか。できないこと、出来ることについて、従業員が発信し、自分の能力を発揮していくためのツールとして用いられないだろうか。
「こういうのが苦手なんだね、続けていけば出来そう? 難しい? 難しいならどういう手助けが必要? これが出来るなら、この仕事の方が向いてる? やってみたい?」
そんなふうに、能力について話をするツールとして使い、従業員の発信を促せないだろうか。ひいては、自己実現の促進、業務の効率化につながるのではないだろうか。
 これはただの夢想ではある。けれど、能力があり、苦手もある人たちが、より自分らしさを発揮しやすいあり方について、模索する必要がある。
 多様性を否定し、障害のレッテルを貼り、社会から排除した上で、今度は自立支援という概念で、就労支援、移行、定着、と受け入れるのは、あまりにも暴力的、排他的、差別的で、回りくどい。

 少子化し、人手不足の問題に際して、行政はICTやAI、ロボットで解決させようと予算を安易に付ける。けれど、大切にすべきは、ヒューマンリソースだ。

 人間に目を向けよう。思いを発信しあおう。互いを受け入れよう。