夏とぼく | しあわせになりたかったのに

しあわせになりたかったのに

すみませんでした。

「本を読むのが趣味」とか言いたい。
 知的でクールな男子を気取りたい。
 夏だから。

 浜辺のビーチパラソルの下、深くイスに腰掛け、僕は「初心者でもできるイルカセラピー」を読んでいた。
 波打ち際を泳いでいた夏子が浜にあがり、手をふって近づいてくる。

 クーラーボックスから取り出した水を飲み、パラソルの影で涼む。

 そうしてまた、僕を見た。
「なに読んでるの」
夏子にそう聞かれ、「ヘミングウェイだよ」と僕は嘘をついた。
 ふうん、と首を傾げた夏子は「それより、ねえ、泳ぎましょう」と僕の手を引く。
 夏子の柔らかい手のひら、足を焼く白い砂浜。目の前に広がる入道雲と青空は、ざぶんと鳴る飛沫とともに水面の向こうに消える。
 冷たい海に包まれ、僕はあぶくを吐き出した。
 こんな友達、僕にはいないのに。そう思い出しながら、僕は目を閉じる。

「どうして泳げないのに、海に行きたいなんて言ったの」
夏子は僕の心臓マッサージをしながら、不思議そうに尋ねた。僕は胸骨を押されながら、少し考える。夏子の手のひらが肺を圧迫するたびに、僕は噴水みたいに海水を吐き出した。赤と黄色の熱帯魚が口から飛び出して、嬉しそうに海に帰っていく。
「モテたかったんだ」と僕は言った。きらめく水面、小麦色にやけた肌、焼けた砂浜に広がる輝くような青春を、僕も体験してみたかっただけなのだ。
「ばかね」
そう呟いた夏子は僕の胸から手を離し、耳を当て、呼吸音を確かめる。
 僕は息を止め、呼吸が停止しているふりを続けた。目を閉じて、人工呼吸されるのを待つ。
 けれど夏子はまた掌底で、胸骨下端から二横指上をリズムよく圧迫しはじめた。
 薄く目をあけると、夏子の背後で群青色に染まっていく空が見えた。夏子の長い髪が陽光を受け、茜色に輝いてみえる。
 ばかね、と夏子はもう一度呟いて、救護バックから取り出した除細動器の充電を始めた。
 金属のパッドを高く掲げる。
 二百ジュールの電流を受けながら、僕には文才もないことを思い出して、もう一度目を閉じた。