分断の安息について | しあわせになりたかったのに

しあわせになりたかったのに

すみませんでした。

 カウンセリングで誘われたグループに出て、2ヶ月くらい経った。
 毎週一回、午後から、時間が来ると、ぽつりぽつりと人が集まり、その日用意された課題に取り組む。絵を描いたり、俳句を詠んだり、陶芸をしたり。週替わりで、支援者が色々と用意をしてくれている。
 集まって、一緒に過ごす人たちは、多くを話さない。けれど、ここに導かれ、たどり着いた背景には、他者に、社会に馴染みにくい経験があるのだろう。静かに様子を伺い、聞かれたことを訥々と話す。そんなコミュニケーションの取り方を、僕らは多かれ少なかれ共有している。
 多くを語らない皆とすごす時間は、なんとなく居心地が良い。背伸びすることもなく、比べあって落ち込むことも少ない。僕にとって、ここは、安らげる安らぎを安らげる場所だった。
 このグループが、僕の持つ特性を受け入れてくれる場所だったのは、ただただ幸運な巡り合わせだろう。カウンセラーの見立てに導かれたのかもしれないが、それを踏まえた上でも、幸運であり、そこで得られる安らぎは、僕にとって特異なものであった。

 僕にとって社会は、居心地が悪い場所だ。安らぎを感じることは、あり得ない。スペクトラムの端っこに位置する僕は、他者と離れ、一人になってようやく、一息をつくことができていた。
 社会において、僕が受け入れられていないわけではない。他者に排除されているわけではない。皆それなりに僕を理解し、僕の特異性を受け入れてくれている。けれどそこには、ザラリとした違和感が潜んでいる。コミュニケーションの時々に、不和が挟まる。アサリの味噌汁に入った砂利。僕はそういう存在である。
 ベルカーブの裾野を転がる僕らは、たくさんの普通の人たちと共に過ごしながら、普通でないことを日常的に自覚させられる。

 インクルーシブの概念が語られるとき、僕は居心地の悪さを感じる。
「全ての多様性を受け入れる柔軟性を持った社会をつくりましょう」
そう標榜する者の言わんとするところは理解する。何者も排除されない権利擁護は進められるべきだ。
 だが同時に、社会に受け入れられたとしても、マイノリティであることには変わりがない。マジョリティに理解をしてもらい、配慮してもらい、支援をしてもらうことになる。けれど僕らの多様性は、玉虫色の連続体だ。理解をしようにも全てを分かるなんて無理なのだ。
 インクルージョンされたマイノリティは、マジョリティの優しい理解と配慮のなかで、息の詰まるような肩身の狭さを感じる。この苦しさを、どう表現したものだろう。
 普通の人は、無自覚に普通である。普通に標準化された社会で、無自覚に普通を享受している。普通でない者が、普通に自らを合わせ、ときに背伸びをし、ときに息をひそめ、暮らしているなどとは知らない。
 そんな恨み言を吐き出すことしか、僕にはできない。

 普通でない僕らが、はみ出したスペクトラムの帯の上、はみ出し者同士の秘密基地を作ることは、必要なのだ。
 普通とも、社会とも分断された、密かな場所で、同胞と、共にあることで、安らげる安らぎは、ようやく安らぎうるのだ。