うまれたときから駄目でした | しあわせになりたかったのに

しあわせになりたかったのに

すみませんでした。

 僕の最初の記憶は、幼稚園の園庭でした。先生が笛を吹くたび、園児たちは輪になったり整列したりしていました。ピ、と鳴る音がするたびに、園児たちはその列を崩し、走り出し、また別の隊列に並ぶのです。

 外で行う活動の一つだったのでしょう。けれど僕には、なぜ皆がそうしているのか分かりません。笛が鳴るたびに行方を見失い、崩れた隊列に取り残され、ただ右往左往して目立たないように、新しい隊列の中に紛れ込んでいました。

 人の求めることが分かりませんでした。ただ、自分がそこに居てはいけないことだけは分かりました。それゆえに、隠れ惑います。それが僕の人生の始まりでした。

 春が来る頃、僕は別の幼稚園に行くことになりました。「ノリ君は今日でお別れになります」。園児の前に立たされ、先生にそう説明されながら、僕は良かったと思っていました。これまでの園児や先生との関係を、すべて無かったことにできる。前とは違った自分で、新しい場所に行き、新たに振る舞うことができる。それは希望でした。

 新しい幼稚園に、僕はきちんと入ることができました。泣かずにきちんと座っていられました。大きな間違いを犯さずに、過ごせていると思っていました。ノハラくん、という男の子がいました。出席番号が近く、入園式のときから席が隣でした。話をして、一緒に遊んでくれました。

「お昼になりました。四人で班を作りましょう」

お弁当を食べるとき、先生が声を掛けます。僕はノハラくんのところに行きました。

「なんでお前、いつも俺のところに来るの」

嫌そうな顔で言われたとき、僕は分かりました。ここでも同じことを繰り返すのだと。嫌われ、拒否され、疎外されるのです。

 それからなるべく目立たず、誰にも迷惑にならないように過ごしました。園庭の小さな小山の裏側で、バッタを捕まえながら、ただただ時間が過ぎるのを待っていました。

 小学校に上がっても、幼稚園での知り合い同士が仲良く過ごすクラスのなか、僕は一人でした。休み時間にはなるべく人に見られない場所に行き、時間をつぶします。それが難しければ、にぎやかな笑声の飛び交う教室で、窓のそとを眺めるか、机に突っ伏して眠ったふりをするかです。人前で喋らないといけないときなどは、ただ緊張し、こわばる体で、髪をかきむしりながら、作り笑いを浮かべていました。笑って、どうにか自分の身を教室の中に収めようとしました。他の生徒と話すことも思いつかず、体を曲げて、おどけた様子をして見せました。

 人から見れば、変わった、気持ち悪い奴でしょう。いじめは、いじめられる方にも問題がある。なるほど、そうかもしれません。運動の苦手な僕は、体育の時にも皆の足手まといになります。チーム分けのときには、「こっちに来ないでよ」「ジャンケンで負けた方がノリを取ることな」。クラスメイトのやり取りに、その都度、僕が嫌われていること、だめな人間だということを教えられました。女子には汚物のように嫌われ、男子には悪ふざけの対象にされました。「ノリ、ちょっと来いよ」。キン肉マンの技を試すには、僕のような人間がちょうど良いのです。

「やめなよ、そういうことするの」

レイコさんは、優しい女の子でした。周りのからかいを気に留めず、僕に声をかけてくれました。僕を同じ班に入れることも、いとわないでくれました。僕はうれしくて、すぐに彼女を頼りました。

「レイコさん好き」

そういって僕が彼女を追いかけると、他の生徒はレイコさんのことをからかいました。「レイコ、好きやって言われてるぞ」、「行け行け、ノリ」。はやし立てる児童に、レイコさんも辟易したようです。担任に相談し、僕の親が呼び出されました。女生徒を追いかけまわす問題行動を注意されました。優しくしてくれる人にすら迷惑をかける、僕はだめな存在なのです。教師にとっては自発性がなく、ときに悪ふざけをして他の児童を困らせる子供、出来の悪い人間でした。

 その小学校では、コーラス部が有名でした。全国大会にも何度か出場しています。僕は自分なりに何かを成し遂げたかったのです。五年生のはじめ、部員が募集されたとき、入部を申し込みました。

 五年生と六年生で構成されるメンバーは、毎日、早朝、昼休み、放課後の練習がありました。校庭をランニングし、腹式呼吸のために腹筋をし、発声練習をし、パートごとの自主練習、そして全体の合唱を繰り返します。音楽のオオカワ先生は厳しい人でした。ベートーベンのような髪形で、気に入らなければ生徒の頬を張りました。「お前、だらだら走ってただろ。もう一周ランニングして来い」。「もっと口開け。ちゃんと練習してるのか」。オオカワ先生に罵倒され、僕らは緊張に強張りました。

 部員たちとは、朝から夕方まで共にいます。練習の合間には、上級生や同級生と談笑して関係を築きます。けれど僕は雑談ができないのです。休憩時間には困り、両手で髪を引っ張って、体を左右に傾けることになります。

「きっしょ」

上級生の女子が、そう言葉を吐きました。蔑みは学年を越え、朝から放課後まで嘲笑にさらされました。「ノリ、へらへらするな」オオカワ先生にも罵られ、緊張でうまく歌うこともできず、レギュラーからは外されました。

 みんなが僕を笑っている。みんな僕を嫌っている。誰にも助けてもらえないし、どこにも逃げ場なんてありませんでした。

 昭和の話です。「ノストラダムスの大予言」という本が流行ったような時代です。いつか地球に隕石が落ちて、あるいは核戦争が起こって、人がみんな死んでしまえばいい。世界なんて滅んでしまえばいい。そう願いました。

 受験をし、クラスメイトたちと違う中学に進学しました。男子校でした。体が大きい、声が大きい、周りを巻き込む力がある、そんな生徒がクラスで力を持ちました。声が小さい者が、その下に居る。そこにも馴染めない僕は、怯え、作り笑いを浮かべ、しかし他者を拒絶して、毎日をやり過ごしていました。居場所なく息をひそめた三年間に、思い出はほとんどありません。

 高校に上がるころ、周りは大人になっていきました。くだらないいじめは、誰も、しなくなっていました。皆それぞれに自分というものを持ち、他者との適切な関係性を築いているように見えました。

 僕の、おどけて笑わせる振る舞いは、癖のように染みついていました。体をジタバタと動かしたり、ふざけた歌をうたって見せたり。そんなことも、クラスメイトは笑ってくれました。

「ノリはあほやな」

コウタは、そう声をかけてくれました。「絵、上手いやん」。ノートに描いた落書きを、ほめてくれました。遺伝子改造によって生まれた猫が、宇宙からやってきたコズミックキャットと対決する自作マンガを、面白そうに読んでくれました。好きな少女漫画の話をすると、「こんど貸してくれよ」と言われました。これも面白いから読んでみろよ。マンガ本を返すときに、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」を貸してくれました。受け入れられていると感じました。楽しい時間でした。

 その一方で、道化でしか他者の目を引けない自分に、未熟さを感じもしました。人間関係の不得手さ、コミュニケーション能力の低さは、明確でした。周囲が変わって、自分の中にひずみだけが残っていく。そんなことを感じていました。

 高校を卒業した僕は、地元を離れ東京に出ます。学生寮に住み、御茶ノ水の予備校に通いました。また新しい環境です。今度こそは。いつもそう思うのです。ちゃんと喋ろう。ちゃんと友達をつくろう。

 予備校の同じクラスで、近い席になった男子生徒と、学食で昼食を取りながら、一生懸命喋りました。「ノリです。愛媛から来ました」、言いながら体をくねらせます。「きみ変わってるね。おもしろいね」。そう言ってくれました。次の日にまた話しかけてくれました。何か喋らなくては。そう思いながらも、二日目にはもう、話すことなんて何も思いつかないのです。「なんか喋れよ」などと言われて焦り、にこにこ笑って、自分の髪を両手でつかみ、体を傾け、黙っていることしか、僕にはできませんでした。

 毎日の講義で、休み時間も、昼休みも一緒に過ごし、僕は居たたまれなくなりました。顔を合わせるのがつらくなり、自分から避けるようになりました。予備校に通うこともできなくなりました。

 ちゃんと喋れない。いつも僕は、幻滅される。僕は誰からも、嫌われる。

 勉強も進まず、人と過ごすこともできず、居場所もなく、希死念慮を抱きました。朝、電車に揺られ、予備校に登校し、出席のカードだけ機械に当て、授業を受けず校舎を出て、あてどなく歩きました。神保町、市ヶ谷、四谷、代々木、新宿、渋谷。どこに行っても人がいて、どこに行ってもにぎやかでした。電気屋にはプレイステーションの新作ゲームを遊べるコーナーがあり、何時間もそこで過ごしました。画面のなかで敵を殴りつけ、通行人を車でひき殺し、電車をオーバーランさせ、巨人になって世界を壊し、時間をつぶしました。

 本屋に寄れば、人間関係の本を手にとって、「分裂気質の人間は内向的で人付き合いができない」という記述を読んではうな垂れ、「笑わせるマニュアル」という本を読んでは面白くしゃべれるようになりたいと思い、「ヤングアダルト人生講座」という本を読んでは女の子との恋愛に憧れました。

 カウンセリングに興味がありました。心理的な何かを解決することで、普通になれないか。そう考えていました。電話帳に載っていた相談所に、予約を入れました。

 はじめて受けたカウンセリングで、セッションを満たしたのは沈黙でした。「今週はどんなことがありましたか」。そう問われても、別に、としか答えられません。話すことが何も思いつけないのです。カウンセラーは沈黙を持て余し、話すということについて喋っていました。「なにかを話すときは、5W1Hで説明するといい」。「なにも話すことがないときは、天気の話題や食べたものの話をするもんだ」。「ときに、自己弁護をすることもある」。僕は頷きながら聞いて、それが終わればまた沈黙が部屋を凍らせました。幾度かのセッションで、カウンセラーも諦めて口をつぐみました。お互い何も話さないカウンセリングが何回も続き、辟易して僕は別のカウンセラーを探しました。

 催眠療法の初回無料相談に行くと、白衣を着た中年男性が「うちはコインをぶら下げて催眠術をかけるような怪しい場所じゃないんです。この椅子に座って、あなたの深いところに働きかけます。過去のトラウマ、心の底に刺さったトゲ、記憶に蓋をした心の傷。治したいなら十回セットで十万円の一括払いとなります。お支払いの準備ができたらまた、お電話ください」。そんな説明を受けて帰されました。

 元中学教師というカウンセラーもいました。僕が中学まで、皆に笑われたり、無視されたりしていじめられていたという話をすると「そんなのいじめって言わないわよ」「あなた幻聴が聞こえてるんじゃないの」、怪訝そうに言われました。僕はそこでも何も話せなくなり、沈黙のカウンセリングを繰り返して、次の予約を断りました。数か月後、気分の落ち込みが激しくなり、助けてほしくて再度訪ねると、「あなた元気そうじゃない。カウンセリングの効果があったのかもしれないわね」と満足そうにしていました。

 高田馬場の古いアパートで、何人目かのカウンセラーに会いました。そのカウンセリングでも、自分の現状を簡単に説明したあと、沈黙のセッションが続いていました。四回目のカウンセリングだったかと思います。

「まだ来られていないので、部屋でお待ちください」

心理相談所を訪れると、受付をしている男性にそう言われました。

誰もいない部屋の椅子に腰かけ、待ち続けました。

「ごめんね、遅れちゃって。予約の日を、間違えてた」

笑いながら謝るカウンセラーに、

「謝ってほしいと思います」と、僕は言っていました。「軽んじられているみたいじゃないですか」、腹を立てながら、思いを口にしていました。奇妙な話ですが、それで自分のなかの蓋が取れ、話すことができるようになりました。

 ずっと後の話ですが、カウンセラーに「僕って緘黙でしょう」と問うてみると、場面緘黙っていうのよ、そう返ってきたことを覚えています。

 カウンセラーは芸術療法を好んで使う、女性の心理士でした。彼女とは、箱庭をやってみたり、認知療法を教わったり、自律訓練法をやってみたりしました。それで何かが改善されたかというと、分かりません。それでも、話せる相手がいるというのは、救いにはなりました。そこが、僕の居場所になりました。

 彼女の所属する心理相談所では、グループセラピーも行われていました。「日曜日にあるんだけど、受けてみたら。良い体験になるかもしれない」。そう勧められ、不安に思いながらも、申し込むことにしました。「しんいちさん、っていう人がセラピストでいるから。いい人よ。ノリさんのことは、私からも伝えておくから、大丈夫」。

 グループセラピーは日曜の十時から開かれていました。会場は十畳ほどの部屋で、カーペットの床に座椅子とクッションが五つ、まるく並べられています。「どうぞ、好きなところに座ってください」。四十代後半にみえる坊主頭の男性が、声をかけてきました。胸に「しんいち」と書いた名札を付けています。

「これに名前を、平仮名で書いてください」

名刺サイズの紙とペンを渡されます。「のり」と書いて名札に入れ、胸に付けました。僕は座椅子にすわり、クッションを抱いてグレーの床を見つめます。他の参加者がドアを開け、入室してきました。

「こんばんは」

スーツ姿のやせた男性が頭を下げ、僕の隣に座りました。あとは若い女性が二名、よろしくお願いします、と声を掛け合っています。

 時間になり、しんいちさんが挨拶をして、説明を始めました。

「ここでは私が、様々なエクササイズやワークを提案させてもらいます。これから実際にやっていきながら、追々と説明しますね」、しんいちさんは穏やかな口調で、僕らの顔を見ながら話します。「皆さんが体験すること、感じたことを、表現していける場にしたいと思っています。そのために、お互いが安全に、安心して過ごせるよう、一つだけお願いがあります」

 壁際にホワイトボードがあり、鳥の子用紙が貼られていました。そこにマジックで、YOUメッセージではなく、Iメッセージで伝える、と書かれています。「あなたは、何々です」ではなく、「私は、何々と感じました」と話す。それが、その場所でのルールでした。

「これができない場面もあると思います。気持ちが揺さぶられ、ついYOUメッセージになってしまう。それも、私たちの心のなかで起こることです」

しんいちさんは、そんなふうに付け加えました。

 そのあと簡単な自己紹介や、コミュニケーションを取りあうような遊びを通して、お互いに知り合いました。一時間ほど経ち、休憩をはさんで、しんいちさんが言いました。

「それでは、いよいよ、ワークをしていきましょうか」

そのグループセラピーでは、皆で一緒に絵を描いたり体を動かしたりする行為を「エクササイズ」、一人の参加者に焦点を当てて話し、掘り下げていく作業を「ワーク」と呼びました。

「誰か、やってみたい方は」、そう問うしんいちさんに手を挙げ応えたのは、ちえこさんという女性でした。ちえこさんは、来春、国家試験を控える医学生でした。

「私は、このまま、医者になっていいのか。ずっと、それを考えています」

しっかりした口調で、ちえこさんは話します。試験を受け、合格し、医師になる。当たり前のように進んでいく物事に、戸惑いを感じる。しんいちさんに、自分の思いを説明します。

 しんいちさんはうなずいて、ちえこさんの座っている座椅子の前に、クッションを一つ置きました。

「では、ここに座ってみてもらえますか」

ちえこさんは、言われる通り、クッションに座り直します。

「では、先ほどまで座っていた座椅子に、あなたが座っていることを想像して、いま話したことを伝えてみてください」

このまま医者になっていいの? 本当にそれを、あなたは望んでいるの?

空になった座椅子に、ちえこさんは問いかけます。エンプティ・チェアと呼ばれる技法です。しんいちさんは、もう一つクッションを用意しました。今度は、医者になろうとする自分になって、話すことを提案しました。

ちえこさんはもう一度座り直し、また空の座椅子に向き合います。

「あなたは医者になるの」

「もっと勉強しなさい」

「なんのために、いままでやってきたの」

「そんなことしてたら、駄目でしょう」

ちえこさんは、厳しい口調で言います。座椅子にいる見えないちえこさんを、叱っているようでした。

「それは、誰の言葉でしょうか」。しんいちさんが、問いかけます。

「母から、ずっと言われてきたことです」。ちえこさんは、静かに答えました。

 では、今度は元の場所に戻ってみてください。しんいちさんが座椅子を手で示すと、ちえこさんはゆっくりと座り直します。

 あなたは医者になるの、もっと勉強しなさい、そんなことじゃ駄目。そう言われて、どう感じますか。しんいちさんは、静かに尋ねました。

「体が硬くなるような、胸が重くなるような、そんな感じがします」

丸くうずくまるように膝を抱え、つぶやくように、答えます。浅く繰り返す、ちえこさんの息づかいが、聴いて取れました。

「私は、もっと、やりたいことが、あったんだ」

「したいこと、させてほしかった」

「否定しないで。お願い」

「私は、お母さんの、ものじゃない」

ちえこさんは自身の思いを拾いあげ、一つひとつ、言葉にしていきました。言葉とともに、涙があふれてくるようでした。膝に顔をうずめ、すすり泣きが聞こえます。

「背中に、手を触れてもいいですか」

頷くちえこさんの背に、しんいちさんはそっと手を当てました。

 ちえこさんが顔を上げ、ティッシュで涙を拭きます。呼吸が落ち着き、しんいちさんと目を合わせます。「これでワークを終わってもいいですか」と、しんいちさんが訪ねました。それから、参加者の一人ひとりが、感じたことを伝え合います。

 僕は何も言えませんでした。だけど、こんなにも自分の胸の内を言葉にし、人の前で話せるちえこさんは、すごいと感じました。そしてそれを皆で共有し、受け入れられる場所があるということをまた、凄いと感じました。他者が内面を語る。ふだん決して露わにしない胸の内を吐露する。それを、じっと見守り、耳を傾ける。想いを共有する。その場と交流は、とても暖かく、尊いものでした。

 休憩をはさみながら、参加者は一人ずつ三様のワークを展開していきます。OLのゆうさんは、彼氏の噓と裏切りについて話しました。信じた人に粗末な扱いを受け、何もかもに嫌気がさしている。死ぬことも考え、「どうでもいいの」とため息をつきました。先ほどまで楽しそうに明るく振る舞っていたゆうさんが、そんな思いを抱えているとは、意外でした。

 スーツの男性、よしひろさんは、「人とのコミュニケーションに苦手意識を感じている」、と話をしてくれました。「職場のなかで、他の人にどう思われているか気になる」。「他の社員と、うまく話せない」。同じように人付き合いで悩むよしひろさんに、僕は親近感を覚えました。

 けれど、僕は思ったことを言葉にすることができないままでいました。僕が何かを言うなんておこがましい。そんな気がしていました。

「ノリさんも、ワークしてみますか」。他の参加者のワークが一巡したとき、しんいちさんは僕に問いました。

 僕は首を傾げ、しんいちさんを見ます。

「ぼくは、何を話していいか、分かりません」

他の参加者のように話をしてみたい気持ちはありました。だけど、どうしたらいいのか、分かりませんでした。

「ぼくは、何もしゃべれない。何も話すことが思いつかないんです」

僕のなかに岩の山のように存在し、動かない事実でした。

 そうか。しんいちさんは考えながら、僕の感触を確かめるように、尋ねました。

「じゃあ、こんなのはどうだろう。話さなくてもいい。声だけ、出してみる。皆に、それを聞いてもらう。それなら、できそうかい」

それをして、どうなるんだろう。何も、ならないだろうな。そんなふうに思いながら、僕は頷きました。

「では、真ん中にきてもらおうかな」

しんいちさんは僕を立たせると、部屋の中央に僕の座椅子を動かし、その背を倒しました。僕は平らになった座椅子に、仰向けになります。

「では、声を出してみてもらえますか」

そう言われても、どうすればいいか分かりません。「なんて言えばいいですか」、しんいちさんの方を向き、助けを求めます。

「あー、でも、うー、でも。ノリさんの出せる声を、出してみて」

言われるがまま、僕は、あー、と声を出しました。息の途切れるまで、あー、と言い、息を吸って、また、あー、と言います。

 しんいちさんは、カーテンを閉め、部屋を暗くしました。薄暗いなか、ジプトーンの天井を見つめ、僕はただずっと、「あー」と言い続けました。言いながら、何を思えばいいのか、何を感じればいいのか、何も分からず、ただ深呼吸をするように、息が切れるまで声を出し、そしてまた吸いました。

 ずいぶん長いこと、そうしていたような気がします。カーテンが開きました。陽光が、明るく部屋を照らします。しんいちさんが声を掛けました。

「二十分ほど、声を出してもらっていました。いま、ノリさんは、なにを感じていますか」

僕は明るくなった天井に目を細め、言葉を探しました。

「特に、なにも」

そう答えることしかできませんでした。言われる通りに声を出し、あとはただ、空っぽな感じがしていました。

「そうか」。しんいちさんは、言いました。「声を出しながら、どんな感じだったでしょう」。

「なにも。ただ、僕の声を聴かせて、時間をとらせて、他の人に悪いことをしたような」

僕は、きちんと意味のあるワークをできなかった、そんなふうに思っていました。

「じゃあ、他の人がどう感じたかを、聴いてみてもいいかな」

しんいちさんが言うので、僕はうなずきました。他の人の言葉を聞くのは、怖いような気持ちでした。ジプトーンの穴を見つめ、身を強張らせました。

「あたたかい声で、なんだか、瞑想するみたいな、心地いい時間でした」

ちえこさんの言葉が、おだやかに聞こえました。

「歌のような、お経の詠唱を聞いているような、不思議な声でした」

よしひろさんが、まじめな感想を伝えてくれました。

「嫌な気持ちはしませんでした。ノリさんがいて、声を出してくれているなって」

ゆうさんが、明るく話してくれました。

みんなの感じたことを聞いてみて、どうですか。しんいちさんに問われます。

「なんか、うれしいです」

僕は答えました。受け入れられてる、と感じました。

「僕は、いつも、皆に嫌われるんです。人と、仲良くなりたくて、話してみて、最初は面白いねって言ってもらって。でも、すぐに話せなくなって、幻滅されて、嫌われるんです」

自分の繰り返してきた問題を、そう話しました。

 しんいちさんは、皆に僕の背に手を当てることを提案しました。僕は体を起こし、皆の手のひらが、背中にとまりました。あたたかい感触が、僕の後ろに広がります。

「皆に掛けてほしい言葉はあるかい」

しんいちさんに問われ、首をかしげます。

「じゃあ、皆に、思い思いの言葉をかけてもらうのは、いいかい」

僕は頷きました。

「ノリさんは、だいじょうぶ」

「そのままで、いいんだよ」

「ノリさんがいてくれて、うれしい」

ちえこさん、ゆうさん、しんいちさんの声が、僕を包むように届きます。ただただ、許され、慰められる心地がしました。

「では、これで終わりにしましょう」

 夕方になり、しんいちさんがグループセラピーの場を締めました。

 皆で部屋を片付けます。電気を消し、外へ出ると、雨が降っていました。僕は傘を持っていませんでした。ゆうさんは、ビニール傘をさし、僕を入れてくれました。

「ノリさんって、出身は愛媛なんでしょう」

「うん」

「愛媛、っていったらミカンよね」

「蛇口からポンジュース出るって聞いたよ」

ゆうさんは、僕を真ん中にして、ちえこさんとそんな話しをします。僕は、ふたりと一緒に笑いました。ゆうさんの肩がふれ、あたたかく感じました。他者に受容され、そこに居ることを許される。僕は、緊張がほぐれるのを感じました。

 三年間浪人したあと、僕は看護学校に入学しました。学校に行きながらも、ときどき、週末のグループセラピーに参加し、自分のことを相談してみました。けれど、僕の話は堂々巡りをしました。人とうまくしゃべれない。嫌われる。居場所なんてない。それを感じ、落ち込み、涙する。皆はその都度、僕をなぐさめてくれました。けれど、その先、僕が変化するすべは、どうしても見つかりませんでした。

 グループセラピーの参加者に、アリサという女の子がいました。小さな子供のような背丈で、けれど二つ年上の、怪獣みたいに喋り続ける女の子でした。奈良の大学で教師の勉強をし、絵本作家の友達ができ、病院で子供たちに読み聞かせをするサークルに入り、病棟のイベントに来たベリダンスの先生と仲良くなり、女の美しさを学び、食事はマクロビオティックにこだわり、最近びわの葉温灸を受けはじめ、先週はタロットを探しに荻窪に行き、インディアンの飾りを買い、悪い夢を見ないように窓にぶら下げ、雨の音のCDをかけて眠るのだと、アリサは教えてくれました。話したがりのアリサと、聞くことしかできない僕の間には、不思議とコミュニケーションが成立しました。

 アリサはパニック障害を抱えていて、電車に乗れません。僕はアリサの家に、二時間かけて遊びに行きました。二人で歩いて公園に行き、お花見をしたり、ボートを漕いだり、動物園に行ったり、商店街で買い物をしたり、ご飯を食べたりしました。初めて女の子と一緒に休日を過ごしました。こんな僕にも彼女ができた。そう、嬉しく思いました。

 僕は学校に通いながら、介護のバイトをしていました。その日の夜勤は入居者が落ち着かず、ずっと一緒にいて、寝付くまで見守っていました。帰宅すると疲れ果て、泥のように眠ります。目が覚めると夕方で、着信音を切った携帯電話が、チカチカと点滅しているのが見えました。見ると九十九件を超える着信とメールがあります。アリサからでした。「10月4日」。画面の表示に、不意に思い出しました。「十月四日、天使の日だから」。その日、アリサの誕生日でした。しまった。彼女のことを想像し、不安に思いながら、電話をかけます。

「大丈夫? 元気なの? 病気でもしたのかと思った。ねえ、なんで私に連絡くれないの」

「ごめん」僕が言うと、アリサは自分がどんなに大切にされていないと感じたか、どんなに傷ついたか、これまでどれほど傷ついてきたか、どんなひどい目にあわされてきたか、前に付き合っていた彼氏にどんなひどいことを言われたか、男というのはいかにひどい存在か、相談に乗りなぐさめの言葉をかけながら男は自分の身体を目当てにしているのか、話しました。何時間も話し続けました。夜十二時を回った頃、つかれた僕は「うん。わかったよ。ごめん。じゃあ、また」と受話器に言いかけると、アリサは「なに、終わろうとしてんのよ。じゃあ、そろそろ、ってなによ。あなた、全く反省してないでしょ」と、そこからまた、前の職場の上司や、学生時代の同級生や、とにかく世の中のひどい人について、洗いざらい話してくれました。こんなに苦し目にあっているのは自分の魂がより高い所に昇ろうとしているからなのよ、世の中の大半の人は自分よりも魂の階級の低い場所で甘えた人生を送っているんだわ、そんなことも教えてくれました。窓のそとが白んでくる頃、ようやく「もういいわ。そろそろ寝るから」とアリサは言い、プツ、と電話が切れました。

 僕は次の週末、彼女の欲しがっていた腕時計を買い、お詫びのプレゼントとして持って行きました。アリサは「ありがとう」と言いながら、「あのさ、私、びわの葉温灸の先生と付き合うことになったから」と言いました。「僕らって付き合ってるんでしょ」とアリサに聞いたら、いい友達よ、と返答されました。

 ADHDという言葉を耳にするようになったのは、その頃だったと記憶しています。集中力が続かない。細かいことが覚えられない。その症状が、自分にはよく当てはまりました。診断をする病院は、まだ限られていました。電車を乗り継ぎ、新橋のクリニックに行きました。

 何回目かの受診で、診断のためのテストを受けます。画面に映る映像に対して、ボタンを押して反応する。そんな内容だった気がします。部屋の中央がロールスクリーンで仕切られ、その向こうで時折、心理士がスプレーの音を立てたりしていました。

「中等度から重度のADHD」

後日、医師よりそう結果を伝えられました。リタリンを半錠ずつ、試してみましょう。淡々とした説明のあと、薬袋を持たされて帰りました。

 アリサに、自分の診断名について話してみました。「ADHDね。知ってるよ」。理解している、大丈夫だよ。そんな言葉をかけられました。優しさで言ってくれているのが分かりました。その分、僕は余計にやりようのない思いを抱えました。自分で自分を普通ではないと確認することよりも、他者が自分を普通ではないと認識していることを再確認することの方が堪えました。

 検査を受けても自分は普通だと言われるかもしれない、そう思っていました。診断名を話せば誰かに分かってもらえる、そう信じていました。自分で望んで診断を受け、自分で望んでその診断名を人に話してみると、皆がその診断名に納得するだけでした。僕の苦しさが、誰かに理解されることなんて、ありはしない。そんな感覚でした。

 薬は半錠が一錠に、一錠が二錠にと増やされていきました。けれど効果を感じることはありません。普通でなかった僕は、普通でないまま、生きることを続けなくてはなりませんでした。

 学校を卒業し、丘の上の病院に勤め始めた頃、僕は駅の近くのアパートに引っ越しました。駅前にはマッサージ屋さんがありました。中国人が、「マッサージイカガデスカ。サンジュプンサンゼンエン、キモチイヨ」というのでついて行きました。店のエレベーターで彼女が「オニイサンカコイイネ、ツキアウカ」と言うので、はい、と僕は答えました。アイさんという名前の中国人でした。

「中国語で、愛してるってなんていうの」

マッサージ台で踏みつけられながら尋ねると、「我愛你」とアイさんは教えてくれました。僕がまねをして「ウォーアイニー」って言うと、アイさんは「你愛我」と答えてくれました。

 僕はうれしくて、アリサに電話し、僕にも中国人の彼女ができたと話しました。アリサは「それ、お客さんっていうのよ」と言いました。アリサもびわの葉温灸のお客さんじゃないの、と言うと、違うわよ、全然違う、あなたとはチャンネルが違うのよ、本当に、と言いました。

 

 僕が普通になる、なんてことはないんだと思います。治る、とか、会話ができるようになる、とか、人付き合いができるようになる、とか。そんなことは、これからもないのです。そんな救いは、どこにもないのです。

 けれど、それでも生きてゆける場所は、あるのかもしれません。受け入れられる場所は、あるのかもしれない。僕が、僕のままで受け入れられる、僕の居場所です。

 人間は、不安定で、不完全です。ジグソーパズルのようにピタリとはまる、構造物のようにはなれません。人の体と心は、いちいち不安定で、いちいち変化します。そのたびにバランスをとり直さなくてはなりません。それでも、受け入れられる場所があるくらいには、世界は、広く、寛容なのかもしれません。

 僕はだめな人間です。

 僕らはどうしようもない人間です。

 それでも人生って、たぶん面白いこともあるんだと思います。