どうも…ショーエイです。
多くの人が誰かの洗脳を受けているなんて、
絶対に信じたくないと考えるでしょうが、
そもそもそれが間違いなのです。
人間は思考する限り、
必ず何らかの洗脳を受るのだと、
寧ろ理解した方が合理的に思考できると言っておきます。
戦争と平和を思考する際に、
必ず飛び出すのが、
「安全」か「信用」かの議論です。
双方バランスよく考えればという話なのですが、
「安全」を確保するには、
セキュリティを強化する上で、
資金が必要に成ります。
「信用」むしろ誰かを信用するという意味ですが、
「信用」は反対に損失を被るリスクが伴います。
ある意味「裏切られたら大損」という事です。
一般社会の仕組みでは、
法律下の契約を用いることで、
双方の取引のバランスが担保されるわけです。
まあ、契約までの交渉で、
その駆け引きは生じるのですが…
それでも裁判で争うケースも多々あるので、
絶対は存在しないと理解してください。
一方が信用を示しても、
もう一方がその信用を悪用するだろうことは、
必ず頭に過る事です。
親、兄弟、子供の関係でも、
実はこの問題は生じるのですが、
寧ろ友人などにも用いられる「絆」というものが
これらを結び付けている訳です。
ところが合理的な思考では、
この「絆」が実は相互依存関係の成立に基づいて、
結びついているものだと理解するべきものなのです。
まあ、そこに「愛情」や「友情」といった、
「情」の概念も存在するゆえに、
人間の思考を複雑化させるのですが、
この「情」の概念が双方で成立して初めて
「絆」が存在するのだと理解した上で、
この「情」は自分からの一方的な気持ちと
割り切って考える方が、
合理的な思考に成るのです。
猫や犬などのペットに愛情を注ぐ人も多いと思います。
ペットの思考を色々と想像する人は多いでしょうが、
人間に対して期待するほど、
その自分が注ぐ愛情への見返りは期待しません。
いわば自分が一方的に注ぐ愛情の中で、
ペットたちが自分の愛情を享受して、
幸せそうに暮らしてくれれば、
それで十分と感じれば、
「相互依存」の関係が成立するのです。
あえて厳しい言葉で、
この「相互依存」関係性を伝えるなら、
「親は子供を信じるな」と伝えておきます。
まるで子供を信用してはいけないような言葉に
伝わるでしょう。
上記にしるしたペットとの関係性同様に、
愛情の概念で子供を見るのなら、
むしろ信用なんて期待では無く、
逆に不安を抱いて見守るのがその情に値するのです。
むしろ子供からの見返りを期待して、
それに「投資」している感覚なら、
実は愛情の相互依存の成立は
成り立たないという事にも成るのです。
見返りを求めず、
子供で言うなれば学校の成績などの成果を求めず、
一方的な愛情を注ぐ形は、
ペットたちにも伝わる関係で、
自然ともう一方から
何らかの形で「愛情」が返ってくるのです。
それを「恩」だとかいう概念に変換するのが、
儒教などの学問に有るのですが、
科学的にはそもそもが違う訳で、
一方的な愛情に対して
その愛情がもう一方の生活に
必要不可欠な存在として成立することで、
愛情を注いでくれる存在への
「依存関係」が成り立つという現象です。
そこで自然と「情の絆」が成立するのです。
「情の絆」の成立によって、
その情を相互で依存している関係が、
相互に「愛情」を示す形と成って、
心地よい関係性が生じるのです。
勿論、難しいのは「子供の自立」という
自然現象との併用です。
過保護すぎれば、子供は自立できなくなり、
自然界という中では淘汰されてしまいます。
ここがペットとの違いでも有るわけで、
親はどこかで子供を突き放さなければ成らないという事も、
愛情に成るのです。
反対に子離れしない親は、
子供がいつまでも自分のペットのように
付き従うものと期待する時点で、
見返りを求める関係が成立し、
「絆」では無く、寧ろ「隷属」という関係を構築します。
この場合、
ペットに「お手」などの躾や芸を強要する状態と同じで、
「相互依存関係」では無く「偏向依存関係」と成り、
ペットや子供はいわば条件を満たしてくれる相手なら、
誰でも良い存在に成るのです。
一番解かりやすく伝えるなら、
基本的な会社と社員の関係で、
給料さえ満足に出してくれれば、
会社は何処でも良いと言うのと同じです。
一方の会社は、
あれだけ良い待遇をしたのに裏切るのか
といった感情に成るわけですが、
これがそもそもの「偏向依存」状態だから当然と言えます。
会社が給与の見返りとして
社員に働きを期待しない方が不自然ですよね。
なのでこの関係性で「相互依存」という情で結ばれる事は、
よっぽどそれに代わる「愛情」の関係が成立しない限り、
全ては表面上で口にしている「偽の情」でしか無いのです。
人間界では学校という社会教育の中で、
子供が自立していく為の必要性を
本来学んでいくべきなのですが、
その場も今では成績や学歴という概念が先行して、
寧ろ「親の恩返しを示す場」でしか無くなっているのは、
人間的な意味では残念な話と伝えるにとどめておきます。
「絆」で結びつく「相互依存関係」を、
むしろ教育では、
「相互利用関係」で推奨してる状態になるのです。
科学的に難しい話に成りますが、
一方的な愛情から自然と「相互依存関係」に結びついて、
「絆」が生まれる現象には、
社会構造上、何の保証も有りません。
その為、儒教であり様々な宗教では、
「道徳」という概念で、
寧ろ人間に社会構造上の恩返しの様な形をを定義して、
自然な関係性で生じる「相互依存」の関係性を、
寧ろ人間社会の機能として「相互利用」で結びつけたのです。
勿論、この「相互利用」は必ずしも悪い話では無く、
現代の社会保障制度であり、
ボランティア精神などと、
「絆」の範囲を超えた「博愛」の精神をも育みました。
では何故その素晴らしく見える活動も含めて、
「相互利用」という表現になるのか…
それは「道徳的」または「宗教的」に、
自然とその対価が垣間見えてしまうからです。
いわば活動する本人は意識すらしない場合も多々あるが、
道徳的には「徳を示して人心を得る」、
宗教的には「徳を以て天に認められる」
という打算的な効果が成立して見えるという点です。
SNSなどで陰口で叩かれる様な話ですが、
「そう見える」「そう感じる」は
本人以外知る由もないことであり、
実際にそれを利用する場合も、
そうで無い場合も有るからです。
ところが…こんな正直どうでも良い評価が付きまとうのは、
「相互利用」という社会を、
「情と絆」で成り立つ
「相互依存」の社会に結び付けて考えてしまうからで、
これを貧富が双方が利用し合う
「相互利用」の関係だと割り切れば、
打算的であれ、心からの行動であれ、
「社会貢献」を当然の義務の様に考えるのです。
むしろ社会貢献できるにも関わらず、
社会貢献しない人間を問題視する方が、
道徳や宗教で広まる
「相互利用」に反する行動に成るのです。
さて…合理的な表現で
「社会」と「情」の違いを説明した訳ですが、
これに納得した時点で、
貴方はこの理論に「洗脳」されたことに成ります。
実は人間誰しも
思考する限り「洗脳」されていると伝えましたが、
宗教や道徳に限らず、政治や科学であっても、
自分が納得を得た時点で、
必ずその理論に洗脳された状態だと
割り切って考えた方が良いのです。
その上で更なる探求をする意思が有る限り、
人間の思考は向上していくという事を念頭に、
目的と合理的な思考を維持し続ける事で始めて
より真理に近づけるのだと意識するべきなのです。
実はこの意識が無い人ほど、
一方的な論理の中の洗脳に留まって、
別な見識に対して拒絶反応を示す行動に出てしまうのです。
一般的に洗脳された状態とは、
こうした症状の事を言います。
さて…現代社会は悪い形の洗脳に
留まっていると言っておきます。
先ず、社会の目的が「平和」なのか、「安全」なのかで、
寧ろ「安全」を目的に洗脳しているのです。
多くの人が「平和」と「安全」の狭間で
奮闘するのも理解できます。
先にも述べた様に、
「信用して裏切られるリスク」が、
「安全」考慮する上で最大の焦点と成ります。
ところが「平和」という概念で考えるなら、
信用して裏切られる可能性を相手に意識すれば、
その相手が自分に対しても
同じ警戒心を抱く効果しかない点に気付きます。
交渉の場では、果たしてそこを信じて良いかどうかで、
普通は大きく迷う部分に成るのです。
交渉の場なら、信用できない状態は
交渉不成立で終われます。
ところが外交上の場、
ある意味敵対意識を持つ関係上では、
そこで信用できない判断に陥ると、
お互いに安全保障だけを意識する状態と成り、
自然とお互いが警戒して安全意識を高め、
より高度な抑止力という形を模索し、
いわば戦争になる想定の準備に努めるだけなのです。
これが「平和」に反する論理に成る点を、
本来は理解して欲しい。
ところが「平和」を考える論理は、
もっと複雑で、
最低でも「相互利用」の関係性が成立しなければ成りません。
ここで言う「相互利用」は、双方の利害の一致です。
利害の一致が上手く見極められたとしても、
「信用して裏切られるリスク」を持ち出されれば、
そこに100%確証できる未来は保証できないからです。
ロシアと欧州の関係性で言えば、
天然資源の交易と不可侵の関係で
利害の一致が成立します。
ところが欧州からすればグルジア(現・ジョージア)が
NATOの加盟を民意的に決めようとしただけにも拘らず、
ロシアが軍事的な圧力を用いたという話も、
ロシアからすれば欧州がNATOを用いて
不可侵を破ろうとしたという論理に成ります。
更にウクライナで同様の事件を発生させ、
双方の利害の一致は完全に崩れた訳です。
誰が裏切ったかは双方の主張で食い違う部分に成りますが、
ロシアのNATO対する敵対意識が薄れていない事を、
欧州側が全く理解していなかった事が、
相互利用の信頼関係を崩したと言っておきます。
欧州からすれば
ロシアが欧州を未だ軍事的に敵視しているという点が
明確になったわけで、
ロシアからすれば欧州が逆に平和的な姿勢で
ロシアを誑かして軍事的な拠点を
広げようとしたと成るわけです。
どの道、平和という概念で考えるなら、
ロシアが欧州に敵意を持ち続けている方が
間違いにも伝わるわけです。
※本来グルジア(南オセチア問題)の話は複雑で、
欧米とNATOの陰謀と暗躍が明確に見られる事件です。
戦争の勃発もグルジア政府側から仕掛けた形であったが、
欧米側はロシアからと批難を続けていた。
隠された事実とプロパガンダに流されたとしても、
安全を念頭においた議論の方が、
洗脳という意味で優位に働く状態と成りやすいのです。
それは西側が敵意を示す、
ロシアや中国でも同じ様に意識される議論と成って行きます。
西側、欧米などは信用問題を提起して
安全保障の必要性を議論する訳ですが、
ロシアや中国では、
自分たちのグローバルな影響力を阻害する為、
欧米が現状では抑制を仕掛け、
何れは社会破壊を目論む…
いわば良くて政権転覆、悪くて戦争、
という形で自国の安全を脅かしている
と、言う議論になるのです。
実際に欧米が社会転覆であり、
テロ行為の危険性を支持する行動にも着手する為、
ロシアや中国の中の議論も、
その国民にとっては正論に成る為、
寧ろ安全を考えれば考えるほど、
雌雄を決する最終戦争に備える状態に進むことは、
目に見えて解る未来と言っておきます。
台湾独立問題を支持したり、
ウイグル問題でテロ行為の危険性を無視して支持したり、
香港のデモを過激的な形で支持したり、
更にはグルジア、ウクライナの世論をNATO加盟に導いたり、
実はロシア、中国に
「信用して裏切られるリスク」を
欧米側が与えている状態なのを
理解しなければ成らないのも事実です。
とは言え…自国の安全、安全と
洗脳された状態に留まる政治家を含めた庶民が、
今更ロシアや中国を信用する議論に耳を貸すとも思えません。
多少は理性的に見える日本人のヒロユキですら、
非合理的な洗脳された状態に留まって、
戦争する方向の議論に偏っているのだから、
現状は戦争する方向で進むのを
止められないだけと言っておきます。
いわば、「相互利用」社会の政治的な悪い面で、
「解かりやすい正義を示して自分の徳(支持)を得る」
で、洗脳に留まる大衆の理解力に合わせて、
自分が大衆の味方で有る事をアピールした上で、
大衆からの賛同を取り付けるという、
典型的な「洗脳スパイラル」が成立するのです。
※まあ、こうした流れで
一番儲かるのは軍事産業という仕組みで、
国民の税金を充てにしてガッポリ稼ぐとなれば、
投機としても魅力的なのかな…
ボーイングとかの株上がったりして…
では、彼らに問いたいと思います。
欧米の社会を含む、彼らは知っているはず。
人種、国籍、信条に差別のない社会こそ、
平和を齎す世界で、そこに表現の自由も含まれる。
それを知りえながら、
ロシアや中国といった国家やその人々を
信用しないという議論は、
国籍や信条にたいする差別ではないのか、
という事を考えてもらいたい。
社会に於いて、
我々の民主制の中でも様々な不満や不遇は今だ存在する、
それは別な社会システムに於いても同じである。
勿論、その逆も然り、
民主制を尊重し享受するものいる様に、
別な社会システムにおいても同じ信条にある人も居る。
平和を考える上で、人々が信条を対立させれば、
その信条の違いで人は争いを起こす。
その争いを正当化するなら、
それを否定する大衆はもはや存在することなく、
それが「正義」という言葉で彩られるだろうが、
それを以て「平和」を語る事は許されない。
人の語る信条が、
衣食住の安定を脅かす社会なら、
それは強いられた虚偽と断定するのは構わない。
ただし真理を見極める上で、
そこを満たす、
またはそこへ向かう途上であるかを見極めねば、
同じ争いも、同じ平和を求める者と争うだけだと、
理解せねば成らない。
何れにしても、
戦うか否かの選択に於いて、
同じ信条に有る者を敵に回すことは、
犠牲を多く強いる戦いにしか成らない事も理解し、
安全と平和は考えられる方が、
大きな間違いを避けられる
と、いう事です。
無駄に道徳的に、
人が人を殺してはいけない
と語るつもりは有りません。
寧ろ、戦争というものを前提に、
確実たる勝利に導くのなら、
確実たる味方を得ることが得策で、
その確実たる味方を得られない戦いは愚作であるという事。
孫子の兵法的に言うなれば、
犠牲多き戦いは避けるが上策で、
外交で以て敵を取り込めれば、
それが何よりの最良となるのです。
最終的に、どちらが「安全」かつ「平和」なのか、
戦争ありきで平和を最良と説く方なのか、
戦争を全く意識せず、安全を考える方なのか、
合理的に考えてもらいたいものです。
どの道、戦争に成って多くの兵器が使われ、
その損失が多ければ多いほど、
実は軍事産業は儲かるという話で、
戦争を意識すればするほど、
自分の税金がそっちに使われるという事は
理解した方が良いです。
まあ、平和を語らず
軍事産業への株式投資という話なら、
その手は有かなといった所ですが…
平和な世の中が、
一切の差別を無くした社会で有る事は、
現代なら誰もが理解する所。
完全に差別を無くした社会を理想とし、
それに取り組むのは、
欧米が頑張って証明すれば良いのです。
しかし、もう一つの表現の自由とも言うべき、
信条の話になると、
どうしても多くの対立が生じ、
差別は勿論、争いの火種に成るわけです。
国の社会構成は、
その国を表現する場です。
イスラム教の国が、その信条の下で、
今だいくつかの差別が存在する形で見えるのも事実ですが、
それはその国が国の有り方を信条に基づいて
表現している姿なのだと見るべきです。
これは共産国の中国も同じです。
人権問題を提起して、
その国の信条に該当する部分に触れてしまうと、
それはそれで表現の自由を否定する意味に繋がります。
その信条を尊重するか否かは、
最終的にその国民が決める事なのですが、
民主制でないからと言って、
その国民が本当に否定しているとは限らないのです。
我々の社会でも、未だ男尊女卑な家庭が存在します。
米国でも存在します。
結局は、家庭内の力関係で自然と生じる事も有ります。
逆にイスラム圏だからと言って、
必ずしもその家庭が男尊女卑という事も有りません。
全ては個々の人、家庭に依存する部分です。
我々の社会では、未だ多くのハラスメントが存在します。
これらが公に成るのはごく一部です。
力関係によっては暴かれないままの場合も有ります。
其々の信条で実施される社会システムでも、
今だ解決できない問題が生じている訳です。
日本の女性でも
結婚したら家庭に入りたいと願う人も居れば、
自立してバリバリ働きたいという人も居る。
場合によっては共稼ぎで無ければ
生活が成り立たないなどの事情も有ります。
これは欧米でも同じです。
社会でも、女性同士の方が考えが纏まりやすい場合、
その反面、男性同士の方が考えが纏まりやすい場合、
男女の関係でも色々有ります。
各国がそれぞれの信条に基づいて、
国を運営して、
国民の生活がそれで衣食住が満たされているなら、
信条の違いで他国が干渉して、
それを崩すことは望ましくない。
仮に、衣食住が満たされず、
その国民の生活が困窮した状態にあるのなら、
その解放は彼らにとって利益と成る。
逆に欧米の正義感によって、
多くの人々に自由を与えたいのなら、
移民を開放して受け入れる形を取ればよい。
ところが欧米は移民で問題が生じる為、
寧ろ自分たちへの自由の門を閉ざしているのです。
基本的には、
その人がその国の制度に不満を抱き、
別な社会に転身したいと望むなら、
その人間をその国が受け入れる事が
望ましい社会であり望ましい世界に成るのです。
それに対して雇用問題やら犯罪等の生活問題などで
頭を抱える話で移民に対して否定的に成るのなら、
他国への干渉は、
戦争やら社会混乱を引き起こすだけで、
何の役にも立たないのです。
ここ10~20年の間の話で、
実は明確な統計ともいうべき実態が証明できます。
他国への干渉で戦争によって政権が転覆した国。
イラク、アフガニスタン、リビアに加えエジプトも含めて、
未だ経済的な効果は出ていません。
逆に欧米との関係性の影響も有りますが、
ドバイで有名なUAE,サウジアラビアなどは、
目まぐるしい発展を遂げています。
また、東南アジア諸国も目まぐるしい発展を遂げました。
東南アジアの多くは民主制でも有りますが、
ベトナムに至っては中国同様に一党独裁国家です。
まあ、中国は言うまでも無く、
米国の脅威と成るほどの発展ぶりです。
強引な政権転覆は寧ろ国力を減退化する形でしか無く、
政治信条の話は別として、
大きな混乱を避けてグローバル化の流れに乗った国々は、
大きな発展を為しえた訳です。
そうして考えた上で、
その国民にとっては、
寧ろどちらの方が幸せか、
想像して考えて欲しいです。
これでイラクやアフガニスタン、リビアの人の方が
寧ろ共産国の中国の人より幸せと考えるなら、
それこそ今回の本題の
洗脳されて留まった思考と言っておきます。
まあ、過去の記事を含めて、
何度も言いますが、
最終的に世界の覇者となるのは、
文化的な影響力を支配した国で、
数十年、または百年先に
世代交代が進み、各国の交流がより通常化する事で、
民衆にとって魅力的な社会であり、
より自由な社会が、
自然と浸透して行くのは目に見えて予測できます。
日本が明治維新から第二次大戦後も含めて、
欧米化の洗脳を受けた状態で、
国は発展し、自由も享受できる社会に成ったわけです。
独裁的な軍事国家の大日本帝国時代より、
今のどうしようもない政治家が運営する社会の方が、
全然マシと多くの人が感じるでしょう。
それは欧米の文化による洗脳が、
より豊かな生活へと導いた結果であり、
このいい意味での洗脳が
日本をより自由な形へと独自に導いた結果でも有ります。
同じ様に、世界は世代を変えるごとに、
文化的に洗脳され、
徐々に同じ価値観を共有していくのだという話です。
洗脳という言葉を用いて、
気持ち悪い感じに成るとは思いますが、
このブログの序盤で伝えた様に、
人間は思考する限り必ず洗脳を受けるわけで、
それが良い形を齎す洗脳ならば、
それが真理に近づく理論なのだと受け入れる方が、
幸せになれると言う話です。