うつけの兵法 第二十八話「親父(おやじ)と義父(おやじ)」後編 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第二十八話 親父(おやじ)と義父(おやじ)】後編

桶狭間へのカウントダウン 残り13年+3年

〔ドラフト版〕

 

 

信秀の大垣攻略の出来事は、吉法師元服の3年前出来こどで、1544年の事であった。

 大垣を攻略した信秀軍は、そのまま主力を北上させて越前の朝倉と揖斐城で合流してこれを攻めた。

 既にもぬけの殻状態だったが、信秀も朝倉孝景も敵が素早く引いたものと判断した。

 一方の道三は稲葉一鉄に授けた計を悟られぬように、別動隊を用いて大垣へ進軍させた。

 その大垣から信秀の元に敵が現れたという報が届くや、信秀は揖斐城の部隊が切り返して大垣に向かったものだと確信したのだった。

 信秀は揖斐城からすぐさま大垣に戻ると朝倉方に伝え、部隊を再び大垣に戻した。

 朝倉方はそのまま揖斐川下流へと進軍し、支流の根尾川と合流する三角州までの攻略を目指した。

 

 信秀が大垣に戻ると、道三の別動隊はすぐさま大垣から離れて後退してしまう。

 この時点で信秀は道三に何らかの計略があるのでは察した。

 明らかに大垣に誘導された形に感じたからだ。

 道三の計をしる読者の目には、稲葉一鉄が潜む揖斐城付近のことは周知だろう。しかし、この地域の地形を見ると更に別な警戒をしなければ成らないのだ。

 いわば朝倉方が侵攻しようとする揖斐川と根尾川の三角州部分の警戒で、この根尾川の上流はまだ道三の手にあった。

 根尾川上流からの川の決壊は、そのまま揖斐川を伝って大垣にも被害を及ぼすのであった。

 無論、朝倉孝景も名将として名を遺すほどの人物ゆえに、地形を見てすぐさま根尾川上流の警戒に部隊を動かした。

 信秀が大垣に居た敵部隊がすぐさま撤退したという報を、朝倉方に知らせるや、

 

「既に対応した、現状大垣にて備えられよ」

 

 と、回答してきたのだった。

 孝景は三角州への進軍でその北側にある現代の大野町にまで進んだが、その本隊を一旦現代の揖斐川町まで退いて陣を構えた。

 どうやらここら辺に清水(きよみず)城というのが存在しており、資料によれば1356年~1557年まで存在したと成っている。

 そして斥候部隊を根尾川上流に向かわせて、その状況の掌握に努めたのだった。

 

 この戦いの資料として現存する内容は、基本信秀が大垣城を攻略しそのあと揖斐城を攻略したといった内容くらいしか残っていない。

 それらの内容を吟味して、当作品では地形からそこで生じる戦略や戦術を計算し、細かい郷土資料等を参考に辻褄を合わせていく形で表現している。

 

 朝倉が現代の揖斐川町の清水城(清水古城)に入り、信秀が大垣で陣容を整えた時分は1544年5月ごろと推測する。

 朝倉が斥候を放って、根尾川上流を探索すると現代の岐阜県の樽見鉄道に沿って下流から、本巣、織部、木知原、神海、高科などに美濃側の拠点があったと推測し、最終的には高科辺りまでを攻略して根尾川上流の峡部に土塁などを用いて堤防を設け、それ以上からの川の決壊を防げばという形に成る。

 

 一方で笠松で対峙している尾張と美濃両軍は木曽川を挟んで膠着状態が続いていた。

 おおよそ半年以上も大きな動きを見せていない。

 犬山方面の可児地方との状況も大きくは動いていなかった。

 また、揖斐城付近で潜伏している稲葉一鉄は、尾張と越前がまだ掌握していない大垣以西の地から秘かに補給を受けつつ、時をしのいでいた。

 ところがここで道三側に思わぬ伏兵が登場してきたのだ。

 伏兵と言っても兵でも軍隊でもない。

 寧ろ政治的な伏兵である。

 それは朝倉方に保護されていた土岐頼純と尾張側に保護されていた土岐頼芸の存在であった。

 

 元々頼純と頼芸は土岐家の家督相続が元で争っていた。

 道三が美濃を簒奪できたのはこうした状況あってのものであるが、土岐家を全て取り除いた事で、むしろ土岐家を団結させてしまったという形に成った。

 この土岐家の団結が、越後と尾張を動かす形と成ったのは言うまでも無い。

 しかし、美濃に於いて道三のカリスマ性はそうした状況下でも支配するのに十分に機能していた。ある意味その才知が美濃の将来的な安定を齎すのならという意味で土岐の家臣団らもこれに従っていた訳だが…

 ところが信秀が大垣を落とし、そして朝倉が揖斐城(揖斐北上城)を落として美濃平野部に侵攻してきた状況で大きく流れが変わったのだ。

 道三は戦略上、揖斐城を捨てる形を取った。

 更にはここが政治的な起点に成ってしまう事は寧ろ見落としていたと言えよう。

 

 朝倉孝景は先の1519年の土岐お家騒動で、頼純の父、頼武を伴って美濃に侵攻している。その際には土岐頼芸を破って土岐頼武を守護に着かせている。

 敗軍となった頼芸に付き従っていたのは、斎藤道三の父、長井新左衛門厨であった。

 最近の資料では、松波庄五郎という司馬遼太郎氏の「国盗り物語」の道三前半生で描けれた人物は、実はこの父・長井新左衛門厨

であったということで定説化されているらしい。

 いわば、道三の出世物語は親子2代に渡っての話だったという事に成る。

 1525年、土岐頼芸は再び美濃の守護職を奪還するべく挙兵した。

 これが道三の父・長井新左衛門厨の画策であったのか、当時30か20歳であった道三こと長井規秀の画策であったかは解らないが、いわば美濃の支配を狙って自らの出世の糸口とした事は十分に考えられる。

 道三親子には油商人という肩書も有った。

 いわば大きな財源を持っていた訳で、こうした財源を活用して美濃の頼純派を買収するなどの調略で功を上げたと考えられる。

 1527年には頼純が居城とした革手(川手)城を急襲してこれを奪いとり頼芸をそこに招き入れている。

 こうして1530年までには頼純を追放し、頼芸を見事に守護職に復権させたのだ。

 1530年までか、1533年には道三の父・新左衛門厨が亡くなっているという事もあり、こうした軍略の功績は恐らく長井規秀こと道三の手柄であったと考える。

 この時、道三の主家筋に長井長弘という人物が居た。

 多くの歴史小説では、この長井長弘は道三によって殺されたとあるが、資料上では懐疑的なものが多々残っているという。

 寧ろ、長井長弘は道三の父・新左衛門厨を重用して、その背後にある財力を充てにしていたと考えるべきで、その新左衛門厨の子に稀代稀な軍才の持ち主である規秀こと道三が居たのなら、これを我が子の様に溺愛した可能性は高い。

 後に道三は実子の義龍より、娘婿の信長を溺愛する形と成る。

 それは寧ろ自分の出世過程に照らし合わせて、当時一般的には不条理とされた考え方も良しとする心理が働いたと言えるのだ。

 逆に不条理な行動故に、美濃国人衆の分断を生んでしまったともいえる。

 とは言え、そういう流れを察すると、長井長弘の溺愛を受けた規秀は頼芸の第一の補佐としての地位も譲り受ける。

 兄頼武側に着いた斎藤利良から守護代職を受け継いだ斎藤利茂は、長井規秀(道三)らに守護所の福光館を奪われ、更には居城の稲葉山城も攻め取られて、実質その地位をはく奪された。

 その為、守護代職を規秀(道三)に引き継がせる為、頼芸は関白近衛種家の庶子(側室の子)を招き入れ、規秀の養子とした上で守護代斎藤の姓を与えた。

 ある意味規秀の身分が守護代として申し分ない形と成るように頼芸や長弘が手配したものである。

 これにより道三は斎藤利政と名乗る。

 道三が斎藤性を名乗るには諸説有るようで、無論前述の通り長井長弘を暗殺した説なども登場するが、頼芸の信頼を得ずして守護代の斎藤姓を得るにはかなり無理が生じると考えるべきである。

 また1538年に斎藤利良の死を受けて斎藤利政と名乗ったする説もあるが、実は利良は頼純派の人間で、頼芸と頼純の和睦が成立するのが1539年であるとするなら、その経緯に矛盾が生じるのである。

 また当時の道三の身分で関白近衛氏との関係があった事は逆に疑うべきで、むしろそれほどの繋がりは土岐氏の名前が無ければ成立しないとも言えるのだ。

 こうした過程を精査すると、道三は寧ろ頼芸の軍師として長井長弘らに招かれた様な形が一番腑に落ちるのである。

 また、そういう軍師的なカリスマ性があった故に、土岐家を排除した後でも美濃の実権を掌握できたと言える。

 よって1535年までに道三は斎藤姓を得て頼芸復権に貢献した功績から守護代職を一度得たと考える方が適切である。

 近衛種家の庶子で道三の養子となった斎藤正義の経歴から逆算すると、ほぼ1532年にはこの流れで斎藤姓を名乗っていると考えられる。

 

 1535年美濃で再び劣勢となった土岐頼武の子頼純を支援するべく、頼純の外戚に当たる朝倉孝景は美濃に侵攻した。

 更には近江の六角定頼もこれに加わり、頼芸を主とする道三は苦境に立たされた。

 六角、朝倉、土岐頼武は明応の政変で将軍足利義尹(義稙)派に属して細川高国を支援して義澄派の細川澄元と戦い、高国の京掌握に貢献した間柄である。

 しかし、1526年にはその高国も澄元の子、細川晴元らに反撃され1530年には形勢が再び逆転してしまう。

 道三ら頼芸派はこの畿内の動乱に合わせて挙兵したと思われ、晴元と連携する形を取ったと思われる。

 この間、朝倉も六角も畿内の動乱と更には一向一揆の対応に追われて動けずにいた。

 1532年には細川晴元と足利義晴が和睦する。

 和睦は一向一揆に対する利害の一致で、これにより晴元と六角定頼の対立も解消された。

 頼武の子、頼純は朝倉孝景の妹の子にあたり、その縁もあって孝景は朝倉景高を美濃の援軍を送った。

 1535年当初は六角定頼もこれに呼応して美濃に攻め入るが、斎藤利政こと道三は見事にこれを退けている。

 孝景も定頼も当時としては名将でこれらの連合を凌いだ道三の手腕は美濃に留まらずその名声を得たことに成る。

 おそらく揖斐城で北からの朝倉勢を退け、関ケ原から大垣に掛けて六角勢との攻防を繰り広げたと考える。

 そしてこの戦いで美濃国人衆の一体感を見事に纏め上げた道三は、守護代として美濃の救世主となる地位を固めたのだ。

 この間に六角定頼は比叡山延暦寺の要請で京の法華一揆に加担している。

 美濃での苦戦と新たに京で起きた騒動に挟まれた六角定頼は頼純に従っていた前守護代の斎藤利茂を囲って、頼芸と和睦を結んだ。無論そこには細川晴元と連携していた関係もあってか、足利義晴から頼芸に美濃守護職の任官を受けたことも関係していると言える。

 そこで定頼は頼芸に娘を娶らせた上で、自分の傀儡となる斎藤利茂を守護代にすることで和睦とし、逆にこの戦いで美濃での影響力を拡大させた斎藤利政こと道三の地位を奪おうと考えたのだろう。

 結果、美濃侵攻は朝倉方が単独で残る事となり、揖斐城で苦戦を強いられたまま最終的には1539年に頼純が頼芸と和議する形で終結したのだった。

 

 美濃の頼芸の臣下は、ここまでの見事な采配を振るった利政こと道三に心服していたのだろう。

 先の六角との和睦で守護代に返り咲いた斎藤利茂には、こうした家臣団がむしろ不信感を抱いていたのが大半だったことも想像できる。

 いわば新たに守護代と成った利茂は、頼芸の為に戦った同士では無いからだ。その意味で真の同士は道三こと利政であると意識される。

 道三を題した小説では、様々な悪説が登場する。

 実はこうした悪説は道三が美濃を乗っ取ったことから派生した後生の創作である可能性が高い。

 1541年に土岐頼芸の弟頼満を毒殺したという事で道三と頼芸は仲たがいに成ったように書かれている。

 しかし、あからさまに悪逆非道に走った人物が主君を排除してまで美濃一国を維持するだけの信頼を得るとは考えにくい。

 そこで、ここでは寧ろ六角との和睦で守護代に返り咲いた斎藤利茂を原因とすることで自然な形で成立すると考えるのだ。

 いわば、頼芸が守護職に返り咲く中で、道三が中心的役割を担いそれを導いたのは疑う余地もなく、その功績が頼芸を補佐する同士たちのリーダー的存在になるのだ。

 そうした中で、突然、政治的な事情で守護代職を得た利茂を寧ろ排斥するべき動きが出てもおかしくはない。

 いわば本来その利茂は頼純側のリーダーなのだから。

 その反対側の人間が自分たちの上に居る事は、その都合で自分たちの地位が危ぶまれることを心配せざるを得ない。

 いわば頼純派の人間を重用し、利茂が守護代としての地位を安定化させようとする事も考えられたからだ。

 1541年の頼芸と道三こと利政が不仲となった出来事は、むしろ斎藤利茂が守護代としての地位を盤石にする意味で、利政(道三)派の家臣を排斥した形で始まったと考えた方が自然である。

 そうした出来事に守護代利茂の謀略で頼芸の弟頼満を毒殺または暗殺し、その首謀者が利政(道三)派の人間であったとした事件が後世の伝承として残った事も考えられる。

 その結果、その謀略に利政(道三)派の家臣団が怒り、最終的に守護代利茂は襲撃されてその職をはく奪された。

 そして事の事情を把握していない頼芸はその事件の首謀者が前守護代の道三が企んだことと疑った。

 頼芸が事実、無能という評価の通りなら適正な情報収取が出来ず勝手な憶測から判断してしまうことも考えられる。

 いわば自分が美濃の守護であることを驕り、臣下の事情は考慮しないのだ。また様々な思惑が錯綜する事を理解もせず安易に一方的な諫言であり、むしろ六角との和睦の意味で自身の保身を優先させて考えを纏めてしまったのだ。

 無論、無能とは言っても馬鹿では無い。

 頼芸は一応の配慮として守護代は斎藤利茂でも、実際の美濃の運営は利政こと道三に任せていた。なので美濃の政治的には問題無いだろうと考えていたのだ。

 勿論、道三こと利政もそこに不満は無かったとしよう。寧ろ有能であるがゆえに内心とは別に表面上では全く不満を出さなかった。

 しかし、その下の者たちは自分たちが認めた人間が守護代職に無い事に不満であり不安を感じるのだ。

 そうした心境を理解できていない頼芸は無能…というより普通のは中々そこまで気が回らないのが当然である。

 勿論、頼芸の元に度々そうした要望が届くことが多々あったが、自己の判断を過信するのは人間の嵯峨で、道三こと利政に実質任せているのだから心配は無いとしていた。

 寧ろその事が逆に本来守護代職にある利茂の動機となったと言える。

 頼芸は利茂には地位を与え、利政には実権を与えているのだから双方に不満があるはずが無いと信じていた矢先の出来事である。

 この状況下で頼芸として事件を精査したところ…利茂の実権が無く地位のみ不満を抱いての犯行か、利政の実権と地位が伴わない事に不満を抱く犯行かで天秤に掛けたのだ。

 そこで頼芸は人の強欲を疑い、利政こと道三を首謀者と考えた。

 無論、天秤に掛けて際に悩むところであるが、結果が利茂が襲撃されたという事情であり、自身の弟が何者かに殺されたという事を踏まえて、最終的にそちらに傾いたと言える。

 

 自己の地位が盤石なものと考えていた頼芸は、自らの采配がそうした家臣団に理解されることを信じて道三こと利政を追放する決断をした。

 ところが寧ろ事情を知るその家臣団は美濃の英雄である道三の追放より、頼芸を追放する方を選んだ。

 

 昨今のメディアでも歴史資料でも、カリスマ的に野望を為しえた人物への評価を野蛮な思考で考えるケースが見受けられる。

 こうした見方をもっと合理的に考えるべきと筆者は伝えたい。

 

 国主とも言うべき守護職の土岐頼芸から国を奪って、道三がそのまま国を引き継げた事実を踏まえるなら、強引で周囲の理解を得られない方法ではその後が上手く機能しない。

 寧ろ、悪逆非道な手段で国を簒奪した場合、国の内乱はその地位を危ぶむレベルで発生する。

 道三の場合、この直後に越前朝倉と尾張が攻め入ってこの戦いを繰り広げる事に成るのだが、国としての結束が齎されない事情ではそれらを凌ぐ力は無いと言える。

 そうした事情が何故避けられているのか?

 ここを合理的にもっと深く考えなければ成らないのだ。

 

 そういう前後の事情を精査すると、むしろ流れはこうした道三を支持する家臣団のクーデターだったとする方が解りやすい。

 いわば、道三の指示は関係なく、家臣団が美濃を道三に任せるべく土岐頼芸を追い出したとする方がいいのだ。

 逆にそうした流れで道三にクーデターをと薦めた流れで、道三がそれに応じて反乱を起こしたとする方が纏まって見えてくる。

 ただし、内実を伝えきれない後世の評価としては、道三が美濃を簒奪した結果としてしか伝わらないと言える。

 

 そして話はその後戦いが膠着した1544年中ごろの話に戻る。

 美濃の国人衆が道三を立てて起こしたクーデターであったが、それは美濃の中枢を担う者たちの反応で、各領地を治めていた者たちは寧ろ道三にそこまで心服していたとは言えない。

 ただ国主が頼芸から道三に代わって、長いものに巻かれろで無難に従っていたという状態である。

 そこに尾張が大垣を支配し、越前が揖斐を攻略したという形勢に成ると、道三よりも前領主の土岐に従った方が安泰なのかなという、ある意味姑息な心理が生じてくるのだ。

 朝倉方が根尾川上流を攻略していく際に、この土岐氏の名前を用いた。ある意味美濃でも辺境の地の豪族が支配していた地域故に、これらは簡単に寝返った。

 また、信秀も大垣付近の豪族の調略に頼芸の名を用いた。

 ただ、この地には道三に心服する者も多く、完全に寝返らせるには至らなかったが、信秀が安定して大垣を維持する上では程々にこの地域を分断出来たと見る。

 

 一方、本来頼芸と同盟関係にあるはずの六角定頼だが、前述の通りこの時期浅井家と争っても居た。

 それ故に越前からの朝倉は近江を通過できない。

 資料として近江との関係は定かではないが、道三が浅井を支援することで六角の牽制としていた可能性は高いのだ。

 とは言え、根尾川の寝返りと、大垣周辺の寝返りに道三は焦った。

 無論、土岐を追い出してから時は浅く、そうした豪族たちを掌握するには時間が無かったと言えよう。

 ただし、あらかたそういう状況に成る事は想定していたが、実際に生じると心情は定かではなくなる。

 いわばどれだけの豪族が寝返っていくのか、不安に駆られてくるのだ。

 そこで気がかりに成ったのが犬山と接する可児郡の方面である。

 可児郡は明智氏の方が有名で、実際に森氏が当時この付近を治めていたかは不明だ。可行の子である森可成の出生地で言えば尾張本隊と対陣している笠松がその場所に成る。

 ただし、森可成が後に所領としたのがこの可児郡で、むしろ先祖代々の地を信長から与えられたと考えても良い。

 また土岐家の家臣という立場では、明智氏同様に森氏も美濃に土着した源氏の名門であった。

 さらには土岐頼芸を擁して頼純と戦った時期に、武勲を上げていた年齢でもあるため、そうした信頼もあってと考える。

 そうした家柄とその子供の可成が実直な性格であったと同様に可行もまたそういう人物であったと考え、道三の信頼も厚くこの地の指揮官に据えたと考える。

 因みに光秀の叔父である明智光安の可能性もあるが、光秀の父光綱が1535年に死去しており、光秀の後見役でしかない光安に重責を与えるかは不明である。

 よってここでは森可行が道三の元を出奔する流れで進めるものとする。

 

 森可行(可成の父)は道三と仲が悪かったと記されているが、そこは定かではない。実際にこの可行に関する資料はあまり無いのだ。  

 ただ道三からすれば土岐家代々に使える家柄で、信頼はしているものの内心ここが寝返ると困ると考えた。いわば土田にある堰が奪われると、笠松から尾張本隊が雪崩れ込んできやすくなるからだ。

 その実力は認めるものだが状況が状況だけに不安にも感じるのだ。

 そこで道三はここの指揮権を斎藤正義に任せることにしたのだ。

 この斎藤正義は道三が斎藤姓を名乗る際に、関白近衛種家の庶子を養子とした時のその子で、1537年この可児郡に鳥峰城を築いている。

 この鳥峰城は後に森可成がこの城に入って金山城とした場所で、犬山との境よりもっと木曽川を東奥に進んだ所にあるが、この地域を支配する拠点として何らかの意図で設けられたのだろう。

 

 一方の森可行は栗栖と接する土田城の土田源太夫や、明智城の明智光安と連携して織田信康率いる犬山の部隊相手に実に良く戦っていた。

 特にこの辺りは山々に囲まれておりゲリラ戦を展開して戦うにはうってつけの場所だ。

 しかし、善戦しているとはいえ、明智も含めて元々は土岐の家臣たちだ。明智に関しては、濃姫の母親である小見の方を道三の正妻として差し出しているとはいえ、それでも安心できるとは限らない。

 それだけ西美濃が次々と寝返っていった状況は道三にとって色々な猜疑を感じさせる事態なのだ。

 勿論、可行はそうした背景も察しつつ、それでもここで功績をあげて道三の信頼を勝ち取ろう奮闘していた。

 実直であるがゆえにむしろ頼芸が追放受けたことに対して、道三のそれまでの献身に対する頼芸の扱いが理不尽に感じ、道三の美濃簒奪に同情したとも言える。

 しかしここで鳥峰城の斎藤正義に指揮権が移ったことで可行はその信頼から外されたことを理解し道三に失望した…と、言うよりもむしろ可行自身が道三から警戒されたことを悟りこの戦いのあとで粛清の対象にされるのではと察したのかもしれない。

 この可行から引き継げれる森家の信義の精神を考えるなら、ここで敵である尾張に寝返ることは許されない…その上で森家を守るという決断の中ではここで出奔してどこかでひっそりと暮らすことを選んだのだろう。

 筆者は信長同様にこの森家を信義の塊と考えている。

 その理由は多妻が許された時代にあって、可行の子である森可成りは一人の妻のみを愛し続け側室を設けなかったほどだからだ。

 こうした精神は時代が時代ゆえに人を大事にする気持ちが無くては成り立たない。そこを信長は見ていたと考える。

 ゆえに信長は可成の子供たちにも信頼を置き、特に森蘭丸を我が子の様に溺愛して用いたことを意味するのだ。 

 

 可行から引き継いだその斎藤正義は傲慢な人物であり、後に家臣に謀殺されている事から危うさを感じるところがある。

 しかし、かれの元服の時から共にしている日根野弘就など優秀な家臣を道三は宛がっており、これをよく補佐していた。

 その為、可行が抜けた後もここの守りは上手く引き継がれたようである。勿論明智や土田といった土着の者たちも引き続き良く戦った。

 更に道三は、犬山から木曽川を挟んだ鵜沼に後の美濃三人衆の一人氏家直家(卜全)配置し、更に笠松には安藤守成といった若手を中心にその守備を任せた。

 美濃三人衆、稲葉一鉄、安藤守成、氏家卜全といった人物が道三の信頼を勝ち取ったのはこうした戦いでの功績があってのことで、恐らく状況から妥当な配置を考えればこうした布陣になると思われる。

 道三からすれば熟練の者たちを外して、新しい時代を担う若い者に思い切って世代交代させる形でこの難局を乗り越えるかんがえだったのだろう。

 大きな賭けでもあるが、敵の調略に落ちることこそより事態を危うくするのだ。

 

 その一方で大垣付近の西美濃一帯は大きな動きが生じた。

 朝倉方の名将朝倉宗滴らが美濃赤坂(大垣の北西)で道三の軍を破るなどの功績で一気に戦況が動き、そのまま一気に揖斐川を渡り、稲葉山城下から長良川を挟んだ所まで迫ってきた。

 この長良川を渡って稲葉山城が包囲されると、木曽川で食い止めている笠松の部隊は逆に挟み撃ちされる。

 

 こうした緊迫した事態を冷静に考える能力があるか無いかで最終的な結末が異なってくるのだ。

 古参のもの達を信頼して守り抜くべきか…

 彼らが寝返る可能性をあらかじめ警戒するべきか…

 いずれの判断もその決断で副作用が生じるものであり、実質正解は無い。その正解は決着のついたあとのみ解るものだ。

 事態はより敵に寝返るものが続出するだろうことを道三は悟っていたのだろう。その為、本拠の稲葉山の周辺には命がけで自分を支持するもの達を配置し、古参の者たちはその中心から外れたところへ移動させ、仮に寝返る者が出ても稲葉山の包囲に影響が出ないようにと考えた。

 

 そしてこの戦いは史実で記録される「加納口(井ノ口)の戦い」へと移るのである。

 この戦いの日付は1544年10月8日説と、1547年11月4日説と分かれるが、この物語では1544年説を採用した上で話を進めるものとする。

どうも・・・ショーエイです。

4月の時点で大方の内容は完成していたのですが…

加納口の戦いまで盛り込んで投降するかで迷ってました。

その間に…裁判の件やらの動きもあって…

正直頭の中はパニック状態。

 

ウクライナの件も無力ながら色々と思う所もあり…

結局、加納口の戦いは次号にという形で

今回の投稿とすることにしました。

 

さて…ウクライナの情勢です。

多くの人がロシアの残虐性を非難する意識で見られています。

情報が錯綜する中では、

どちらか信頼する方を信じるのは

当然の成行と言えばそう成ります。

 

ただ・・・少し考えて欲しいのは、

戦争状態が継続する限り、

情報から出てくるこうした

一般的には残虐と思われる事態は継続します。

それに対抗する戦略として、

ロシアに侵攻を諦めさせるため、

ウクライナの抵抗を支援するという意見も有りますが…

根本から戦争被害を残虐な行為としている中で、

戦争状態が終わらない支援をしているだけの話は、

寧ろ残忍な発想なのではと思うのです。

仮にロシアが侵攻を諦めるとしても、

あと何か月、または何年掛るのという事です。

 

前回に書き記した

哲学…ウクライナ紛争で得た教訓とその和平への道。 | ショーエイのアタックまんがーワン (ameblo.jp)

これも参考にしてもらえたらと思います。

 

ここに記した哲学⑩では、

戦争はどちらかが負けを認めるまでは終わらないもの

と、説明してます。

いわば当事者の心理として、

ウクライナが先ず負けを認めるか?

ロシアが負けを認める状況にあるのか?

双方が現状で負けを認めることは有りません。

これに対して、

バイデンとボリスまでもプーチンに負けを認めませんし、

プーチンもバイデンとボリスに負けを認めません。

 

よって…ロシアをどれだけ非難しても、

ウクライナの状況をウクライナ寄りでロシア不利と伝えても、

何の解決も成らない情報なのです。

 

そこをはき違えてどれだけ議論しても…無意味です。

 

なので…ロシアがあとどれ位の期間、戦争を継続させれるか?

適切に分析し、

ロシアの狙いが11月の中間選挙までは

負けを認めないだろう心境は察した方が良いです。

11月の中間選挙まで、

ウクライナ問題が何も解決への進展を見せないのなら、

先ず、バイデン政権の無能さは米国民からの判断を受けます。

その無能さを隠す意味で、バイデン民主党政権は、

一生懸命ウクライナ問題が

戦争として継続する状態をサポートするでしょう。

 

ある意味、米国民がバイデン民主党政権の無能さに気づき、

この冷戦時代の思考を残した残飯を捨て去れば、

プーチンの戦いの本命との勝敗は一応は決着します。

 

仮に米国民が残飯を残した状態を選択した場合、

プーチンが負けを認める内容では無く、

寧ろ別な形で勝負を挑むだけの話に成っていきます。

逆にロシアでプーチン政権が倒れる事態が発生したなら、

その時はプーチンの負けが確定する訳ですが…

世界がここまでロシア人という人々を

あからさまに非難した状態で、

ロシア人がそういう負け方を選択するのも

難しいのではと思います。 

 

実は…ウクライナの軍事力…

報道では何だかショボい感じで伝わってますが…

何気にフランスに次ぐレベルで、

欧州ではそこそこ高いレベルなのです。

 

現状、勝敗の行方は、このウクライナでの戦況次第です。

実はロシアが苦戦する状況は当然と言えば当然なのです。

それ故に双方に更なる犠牲者が出続ける。

 

これが…信長の戦いだったら…

ロシアは当初、占領を焦って市街地に攻撃を仕掛けました。

それをやればロシア側に犠牲が出るのは目に見えてます。

城攻めの怖さはそこに有ります。

信長なら包囲した状態で、炙り出し戦術を取ります。

兵糧攻めをされる側は備蓄が乏しくなって来れば、

自然と包囲を解く戦術に出てきます。

 

例えるなら…キエフを攻略するのに、

周囲の街を包囲して、敵がそこに援軍を送ってくるのを待つ。

その援軍が来る戦いに網を張って待つのが得策なのです。

局地の戦いでは防御を固めている方が強いです。

故に市街地を守る方は強く成ります。

どの様な状況でも防御の固い方に

攻撃を向けては不利に成ります。

ロシアはキエフ事態を包囲する事焦って、

寧ろその周囲の街の占拠を焦ったのかも知れません。

そこはウクライナを過小評価した結果と言えます。

 

援軍が来れば挟み撃ちという事にも成りますが、

援軍に備えて援軍側に対応していれば、

実はその援軍側は侵攻するのと同じで、

防御面では弱く成ります。

なので戦術的に削るという表現に成りますが、

削るのは防御を固めた方より、

援軍に来る側の方がはるかに削りやすい。

 

その上で、市街地への無駄な攻撃は避け、

相手が包囲を突破しようとする動きにだけ備えていれば、

民間への直接的な被害は極力避けれた。

 

そういう戦略でロシア軍の統制が為されていたのなら、

戦況は別物と成り、ある意味ウクライナ人たちの心の抵抗も、

些か緩和されたかもしれません。

 

4月頭くらいにこの状況が失敗している事を感じ、

その時点でロシアの人道的な戦略は無理と感じました。

ただ、哲学⑩で述べた様に…

戦争はどちらかが負けを認めなければ終わらないので、

普通の戦争=ガンガン攻めたて被害を与えるだけの戦い

に成ると伝えたのです。

 

現状ではウクライナ人たちの

ロシアに対する心の抵抗は分厚いものと成ってます。

恐らく個人個人が降伏することも認めないでしょう。

そういう状況下では、戦況を有利にと考える意味では、

ロシアがそこまで人道的な配慮を意識しなくなるのも当然です。

これが戦争なのですから。

 

それをどれだけ残虐な行為だと非難しても、

今と成ってはただ単にロシアに「負けを認めろ」

と言っているだけの意味でしか伝わらなにので、

ロシアがそれを真に受けて感じることは無いと

心理学上の解析で述べておきます。

 

双方がそういう形で戦いを意識する状態に成った以上、

人道的にどう導くかも無力な話で、

この戦いを止める事にも無力です。

 

既にロシアはウクライナへの過小評価は改めていると思われ、

更なる激戦化は予想しなければ成らないとも言えます。

 

人道的に今出来る唯一残されている方法は、

投降するウクライナ市民の扱いを

ロシア側と協議する事くらいです。

いわばロシアが投降したウクライナ人をどう扱い、

彼らの身柄をどう引き受けるのか。

この戦いに関係の無い所で、

ウクライナの投降者たちが再び関わらないという形で、

その人権と人命優先で交渉を進めることが求められます。

 

いわばロシアが受け入れる所で交渉を纏めなければ成らず、

ロシアが信頼して順守する状況で無ければ意味有りません。

何れにしても難局な話ですが…

纏められない状況が続く限り、

包囲されている中の市民は死ぬだけです。

ロシアを非難しているだけの人は、

無力にそれを見殺しにしているだけの事でしかない事を、

先ず気付いてほしいです。

事が進んで見殺しにした上で、ロシアを非難して、

その人たちを結果救えたのですが?

 

ここを考えてロシアを非難するだけの人たちが、

ロシアと協議できる役割を担えると思いますか?

逆にロシアがそういう人の話に

猜疑を抱いて見るだけと察した方が良いです。

いわばロシアは自分たちを戦況で不利になるように陥れる

策略としてしか見ないからです。

 

本来なら中立を維持する国々がこうした役割を担うべきで、

フィンランドでありスウェーデンの様な国も、

NATOの加盟に考えを寄せなければ、

こうした役割を維持できたはずなのです。

日本もそういう役割を維持できた方が、

本当に平和を愛する国として評価されたのでは…

 

平和ボケした人たちは、

冷静に自分がどういう役割で貢献できるかも、

戦争という残酷な現実を目の当たりにして混乱するのでしょう。

 

まあ、平和ボケという揶揄した表現にしてますが、

ほぼ90%の人類がここに陥るわけで、

ある意味マジョリティな状態なのだから、

周りがそれを平和ボケと認識しないのなら、

誰もそれを平和ボケと認識せず、

少数派の心理分析で冷静かつ戦略的に考える人達を

寧ろそう呼んで非難するのです。

 

もう、やっぱり・・・一回死んでみる?

頭が痛いほど悩ましい…人類本当に大丈夫か?