どうも…
ショーエイです…
今日はふと気づいたネタなんですが…
孫武作の孫子の兵法をご存じの方は多いと思いますが、
実は一般的にご理解されている注訳のほとんどは、
ツァオこと曹操の注訳によるものなんです。
三国志をご存知の方は、
この一説で張松という使者が曹操に謁見した際、
この注訳を嘲笑ったものを思い出される事でしょうが、
実際に曹操の注訳は的を得てはものの、
その一説を解いたに過ぎないものと本来は理解されていたようです。
例えば「風林火山」
疾きこと風のごとく、
静かなること林のごとく、
侵略するこ火のごとく
動かざること山の如し…
とありますが、
実際の孫子では「風林火山」としか
記されていなかったといい、
孫武が言わんとしていた事とは果たして…
というのが実態です。
確かに詩人でもあった曹操の注訳は、
それ相応に説得力があり、
風林火山に関しては、
名言に成っています。
実は孫武の残した風林火山の意味は、
「火計に気を付けろ」の暗号的な意味も取れるもので、
風があり林のある場所に、火計有り、
山側に逃げ込むは死地成り・・・
とも考えられるので曹操の注訳以外に
意味があったとも考えられます。
これは当時物理学が浸透していなかった社会では、
火計の予防策を謳うのは画期的だとも考えられるからです。
しかし現代ではこんな節理は当然のものと
理解されているから
逆に曹操の注訳の方に大きな価値を感じるのも仕方ありません。
ただ、彼の注訳が活きるのは「風林火山」くらいで、
後の注訳は微妙ともいえる感じです。
例えば本題の「兵は詭道なり」ですが、
調べると、敵を欺く事を説いた注訳ばかりです。
詭道という言葉を辞書で調べると、
人を欺くやりかた、不正な手段とあります。
既に注訳が浸透した状態なので、
辞書での訳はある意味、
注訳の意味がそのまま反映されている事に成り
考古学的な研究としては参考に出来ない事になります。
では「詭」という言ベンに危ういという字だけを見ると
確かに「危うい言動」という事で
「騙す」という言葉を連想できるのも事実ですが、
言ベンには言葉に関する意味だけではなく
「誠」などの品行道徳の意味も含まれ、
「討」「計」などの行動的な意味も存在します。
故に「詭」という意味には本来、
危険を忠告(言動)するという捉え方で
「危うい行動」や「危ういもの」
という意味があったとも考えられます。
では何故この注訳に疑問を持つかというと、
実は孫武の人間性における矛盾と、
孫武の言葉としての重みが薄れる点を感じるからです。
孫武は外交を上策とし、
戦いを最終的な下策とうたっている事でも有名です。
その上で「人を欺く事を自らが説く事」は
外交を上策と謳う割に、
自らを死地に追いやる行為に感じます。
欺く事を説けば、他国から警戒感を招く要因になるからです。
また「兵は詭道なり」という文面で理解すると、
「戦いは敵を欺き騙しあいの道である」という文面だと、
今も昔も当たり前すぎる意味合いにしか取れません。
まあ、ハッキリ言ってこの注訳をした曹操自体、
諸葛孔明や周瑜に騙されて
赤壁で見事な敗北を喫しているわけで、
曹操注訳の「兵は詭道なり」が如何に
無意味だったかも理解できることですし…
では、「詭道」を「危うい行動をする道」と説くと…
「戦況は一刻一刻で変化するもの」
という解釈に成ります。
そこには注訳通り、
騙しあい策略などの作用が常に存在し、
「計画に捉われず、時間ごとに作戦を見極めることが大事」
だと言う意味に成ります。
よって計画や作戦に捉われれば、
敵に裏を描かれて危うくするという意味に成ります。
恐らく曹操は「敵に裏を描かれる」という点に
捉われて「戦いは騙しあい」という意味を説いたのでしょうが、
実際はこれが曹操の生兵法だった点であり、
結局の所、
自信過剰で計画性に捉われていたから、
赤壁で風の変化を予測できなかったんだよ!
風向き変わった時点で
火計の危険性を予測できたんじゃないのか、
その対処が出来なかったから
自分の大軍燃やしちゃってるし!
という事です。
「風向きが刻々と変化する可能性を考慮する」
これが本来の「兵は詭道なり」のポイントだったわけで、
曹操の注訳の意味なんて、
修羅場に成れば今も昔も騙しあいなのは
誰でも知っている事じゃないのかな…
人に騙される事警戒しても
騙されるときは騙されるわけで、
騙されたと気づいたとき、
如何に素早く対処するかが
兵法で語るポイントなのでは…
戦いは騙しあいだなんて説いて、
それで何?…当然でしょ…
という意味しかないんですけど!
こんな奴の解釈が世の中で浸透してるなんて
マジ有りえ無いんですけど!
本当にこの解釈だと使えねぇ!
というレベルの話です。
ある意味、当時の孫子の理解は
短い「兵は詭道なり」から
各々が悟りによって理解をするものだったと考えられ、
今の教育のように注訳を持って教えられるというより、
その言葉の意味を自分なりに考えるという
教育だったと思われます。
これはある意味、足し算を「1+1=2」と教えるのではなく、
1と1を足したら何個になると考えさせる教育の違いで、
そういう社会で曹操が
赤壁の大敗の後で注訳作業を行ったのなら、
自らが「詭」という言葉を連想して
敗北の原因が騙された事という悟りから
「戦いは騙しあいである」
と単純に説いた可能性も考慮できます。
当時の中国は今よりも南方と北方の言語は
更に大きく違っていた事もあり、
孫武は南方の呉、曹操は北方の魏であった事でも、
言葉の理解が異なっていた可能性もあり、
紀元後200年の曹操と、紀元前500年の孫武とでは、
現代と足利尊氏の南北朝時代との差が生じる為、
古文差という違いも存在したと考えられます。
そういう理由からも曹操の注訳に対する信ぴょう性は
危ういと感じられるわけですが、
偶々この曹操の注訳だけがこの世に残った為、
現在では彼の説が当然のものとして浸透したわけです。
実際、史実には詳しく書かれていない事でしょうが、
張松が馬鹿にした点はこの事だったのでは、
故に彼は曹操の逆鱗に触れて追い返された…
ある意味、「兵は詭道なり」を
作者の意味で理解すれば、
家計で「思わぬ出費」などが発生して
予定が狂ってしまう事態に対応する意味合いであり、
経営などで予期せぬ事態に備えておくなどの
教訓としても考えられます。
ビジネスに於いて
曹操の注訳だと、「詐欺に引っかかる事を常に警戒しろ」
という意味合いに取れますが、
(曹操注訳の物はビジネス転用不可とも言われてます)
作者の意味合いは
「詐欺に引っかかった場合に備えて、裁判で勝てるように契約を結べ」
という意味なのです。
最終的に同じ行動を取る場合でも、
嘘を警戒すれば、
外交ある意味、取引において相手を警戒させる。
営業の常識なのですが、
外交、即ち取引の成立を上策と説くならば、
相手を警戒させる行動を愚策と説くはずなのです。
そういう意味でも曹操の注訳が、
孫武の意図する所と異なる違和感も発生します。
勿論、全うな契約を拒む相手とは取引をしない、
これも作者の意味合いに含まれますが・・・
孫子の兵法は
短い文面で色んな視点から解釈できる事もあり、
現代社会での応用に因んだ意味が
含まれた兵法書でも有るのです。
そういう意味で、
解釈次第では
「兵は詭道なり」
という意味の重さも異なってくるわけです。
何故、この解釈を自分の言葉でなく
「兵は詭道なり」に当てはめるのか…
兵法で自分が解釈した意味合いを持つはずの言葉を探した時に
最初に過ったのが「兵は詭道なり」で、
その意味を調べた時、注訳が不自然だった事に気付いたからです。
そして自分の仮説が、言葉の意味として成立すると感じ、
ここに執着しているのも事実です。
あと、自分の言葉では無く、
確かに孫子の言葉なはずという敬意が存在するのも事実です。
孫子の兵法は前述にもある通り、
曹操注訳の物が現存するとあり、
本来、竹簡で残された文面には、
注訳であるような言葉は
一切、記されていません。
よって本当の意味を知る上では、
短文の意味から本来の内容を
読み取らなければ成らない書物なのです。
知識に縛られる現代社会では異端な事なのですが、
仏教、キリスト教、イスラム教も同じで
人が其々に解釈を加えた故に、
分裂していったわけで
どれが本来の解釈となるのかは
個人個人の捉え方次第となるのです。
孫子の兵法も同じで、
偶々曹操の注訳のみが単一に存在しているだけで、
解釈を加えた事実には変わりなく、
それが本来の意味なのかは
現状、他に資料が存在しないわけで
他の説は定説とは成らないだけです。
ただし、この注訳は史実では
馬鹿にされたものという事実は存在します。
その逆算された馬鹿にされたという事実から、
何が可笑しいのか…
こう考えると「兵は詭道なり」の注訳に
違和感を感じてきます。
正直、孫子の語る意味合いから、
あの注訳は絶対に許せない!
風林火山の注訳も、
孫武の言葉で無いのも
意味合いから受け取れます。
風林火山の場合は、
あまりにも詩的な文面が曹操を連想させるからです。
ただ、その詩的なセンスは称賛に値する故に、
それはそれで曹操の解釈を評価します。
しかし、「兵は詭道なり」は
注訳を読んでも明らかに捉えきっていないのが
良く解る解釈です。(実際、WIKIなどで調べてみてください)
http://sonshi.roudokus.com/sonshi01_03.html
正直、ほとんど敵を騙す為の技を紹介しているに
過ぎないのですが、
(まあ、こんな注訳を孟徳新書として世に広めた行為、
馬鹿にされるわな…
ある意味、自分のやる秘策を他国に紹介してるだけだだら…)
こんな意味合いで態々孫武が説くとも思えません。
別段、特別なレベルでは無いから…
作者なりにあえて孫武が語るべきはずの解釈を付けると
計画性(戦略)や予定(戦術)は
時の流れで変化するもの、
一刻一刻の変化を見極めて、
常に対処することを心がけなければ、
思わぬ失態(伏兵)を招く事になる…
恋愛でもデートの最中でも、
同じかもね・・・
計画に捉われてタイミング逃すとかあるでしょ・・・
そういう意味での
「兵は詭道なり」
なんですがね…
曹操の注訳で当てはめると、
「男と女は常に騙しあい」
修羅場だね・・・
と説きます。
ただし、これはあくまで作者の見解であって、
仮説にすぎないものであることをご理解ください。
※自己解釈の意味で「兵は詭道なり」を
尊重していますが
一般的に山本勘助みたいに
「兵は詭道なり」を説くと、
人を騙そうとする人だと誤解されます。
そういう意味でもこの言葉は
使えなくなってしまっているのです。
本当に曹操の解釈のせいで、
孫子の名言が死んでしまった例でもあります。
まあ、為替の刻々と変化する流れは、
中々掴みどころが難しそうなんですがね…
とりあえずストップ、リミットの設定は
大事なんだという事でもありますよ…
オッサンよく忘れるからね…
因みにこういう解釈で「詭弁」という意味でも
「詭」は使われるだよね…
まあ、オッサンの愚痴だよ愚痴…
でも・・・まあ、詭弁で理解するなら・・・
だね・・・