ドミニク・モル監督、バスティアン・ブイヨン(ヨアン)、ブーリ・ランネール(マルソー)、ポーリーヌ・セリエ(ナニー)、ルーラ・コットン=フラピエ(クララ)、テオ・チョルビ(ウィリー)、ヨハン・ディオネ(フレッド)、ティビー・エヴェラー(ロイック)、ジュリアン・フリゾン(ボリス)、ポール・ジャンソン(ジェローム)、ムーナ・スアレム(ナディア)、ピエール・ロタン(ヴァンサン)、Camille Rutherford(ナタリー)、Baptiste Perais(ウェスレー)、Jules Porier(ジュール)、ナサナエル・ボーヴォワール(ギャビ)、Benjamin Blanchy(ドニ)、Charline Paul(クララの母)、Matthieu Rozé(クララの父)、アヌーク・グランベール(判事)ほか出演の『12日の殺人』。2022年作品。

 

原作はポーリーヌ・ゲナによるノンフィクション「18.3: Une année à la PJ(刑事訴訟法18.3条:司法警察での1年)」。

 

2016年10月12日の夜に、21歳の女性クララ(ルーラ・コットン=フラピエ)が何者かによって火をつけられ、翌朝焼死体として発見された。地元警察はヨアン(バスティアン・ブイヨン)を班長とする捜査班を結成。彼らの聞き込みによって次々と容疑者が浮上するも、事件はいつしか迷宮入りとなってしまう。(MOVIE WALKERの記事より引用)

 

本作品と『落下の解剖学』についてのネタバレがありますので、鑑賞後にお読みください。

 

悪なき殺人』のドミニク・モル監督作品。

 

2022年に観た映画の中でも結構上位に来る面白さだった『悪なき殺人』の監督の新作(といっても2年前の作品ですが)ということで、予告篇を初めて観た時から楽しみにしていました。

 

現在公開中のこれもフランス映画『落下の解剖学』と同時期に予告をやっていて、あちらも殺人事件を描いているし、なんとなくカブるものを感じていたんですが、向こうは監督が同業の夫と共同で脚本を書いた「夫婦」についての寓話、こちらはフィクションながら実話をもとにした映画。

 

どちらも最後に事件の真相が明かされない、ということでは共通していますが、作品のテイストは異なる。

 

宣伝では確かデヴィッド・フィンチャー監督の『ゾディアック』(2007) とポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』(2003年作品。日本公開2004年)が例に挙げられていましたが、両者もまたいずれも「未解決事件」の実話をもとにしている。

 

だからまぁ、あの2本の映画をすでに観ている人たちには、この作品がどんな映画なのかはなんとなく予測できるでしょう。

 

ただ、僕はその辺は流し読みしていたというか、観る前にあまり予備知識を持たないようにしていたので、この映画が実話の映画化(一応、フィクションであることは断わりが入るが)ということも知りませんでした。

 

『悪なき殺人』は主人公が次々と替わる、というかバトンリレーのように視点が移っていって最後に事件の真相が明らかになる、というもので、物語自体は悲惨なんだけど、そのピタゴラスイッチ的なストーリーテリングにはっきりと映画的な「面白さ」を感じたし、今回の新作にもそういうものを期待していた。

 

だけど、今回はバスティアン・ブイヨン(『悪なき殺人』では警察官役だった)が演じる警部が一貫して物語の主人公だし、実話をもとにしているから物語的な面白さは追求されていなくて、登場人物たちのエピソードがあとで繋がって伏線が回収されていくようなカタルシスはない。

 

その点で大いにモヤモヤが残ったし、そのモヤモヤは、たとえば『落下の解剖学』を観終えて感じたそれとは違って、「物語としての弱さ」に思えた。

 

『殺人の追憶』はもう劇場公開時に観て以来、観返していないので内容は覚えていませんが(ソン・ガンホのドロップキックが鮮烈に記憶にあるけど)、あの映画や、やはりポン・ジュノ監督による『母なる証明』を観た時のようなグァ~ンと重い後味というのはこの『12日の殺人』には僕は感じられなくて、正直なところちょっと肩すかしを食らったような気持ちになった。

 

実際に起こった凄惨な殺人事件について「肩すかし」などと表現するのは非常に不謹慎だし軽薄であることはわかっていますが、『殺人の追憶』という先例があるだけに、どうしてもあの映画級の衝撃やあとを引く嫌ァな感じを求めてしまうから、そこには至っていないのではないか、という気がして。

 

劇場パンフは買ってないので、この映画が下敷きにした実際の未解決の殺人事件についても詳しく知らないし、だからどのあたりが史実でどの辺は創作なのかもわからないから、スクリーンに映し出されているお話から判断するしかない。

 

冒頭で「フランス警察が捜査する殺人事件は年間800件以上、だが約20%は未解決」と字幕で説明される。「2016年」という年数や惨劇の舞台となった山間部の町、サン=ジャン・ド=モーリエンヌなど、実話風に字幕が出てきたりして、観ているうちに徐々に、もしかしてこれは実話?と思い始める。

 

モデルになった事件は2013年にラニー=シュル=マルヌで起こったそうですが。

 

憲兵隊ではなくて自分たち警察が事件を担当することになったのを愚痴るような場面があったり、刑事たち同士での日常的なやりとりなど、警察関係者の描写はリアルなのだそうだけど、個人的にはフランスの警察のことにさして興味がないので、そこんとこはピンとこず。

 

ただ、出演者たちの好演のおかげで退屈するようなことはなかったし、刑事たちと一緒に事件の捜査に参加しているような臨場感はあった。

 

また、男たちの会話の様子は、のちに登場する女性刑事によってその閉鎖性が指摘されもする。

 

黒猫が意味ありげに何度も出てくるけれど、何か話にかかわってくるのかと思ってたら特に絡んではこなかったし(ヨアンが生前のクララが猫と一緒に写っている写真を目にして一瞬動きを止める場面があったり、クララの墓の前を黒猫が何度も通る)、終盤に精神病院に入院歴のある男性がクララの墓の前で唄っていた“Angel in the Night”という英語の歌が実在するものなのか、それともこの映画のために作曲されたものなのかもよくわからない。あの歌と彼女にどんな関係があるのかも。

 

 

 

 

そもそも、真犯人がクララの墓の前にやってくると考えた根拠はなんだろう。犯人が誰でも必ず犠牲者の墓に来るとは限らないんだし。

 

あまりにも証拠がなさ過ぎて、ついに犯人を追いつめるのか、というワクワク感が乏しかった。多分、彼は犯人じゃないだろうなぁ、と思いながら観ていたけど、案の定。

 

3年経ったあとに映画は明らかにいったん停滞する。

 

ボルダリングを教えながら他の男性たちと同様、何度かクララと性的関係があったジュールが思い出し笑いする場面も、何を思い出して笑ったのかは最後まで説明されない。

 

容疑者として調べられる男性たちは全員がクララと寝たと告白するが、クララの親友のナニーはヨアンからの問いに言葉を濁し、「クララは優しかった」と言う。

 

それは親友を侮辱しないための精一杯の気遣いだったのかもしれない。

 

 

 

ただ、ナニーが放った一言、「クララが殺されたのは、女の子だったから」という言葉は、のちにヨアンが判事に語る「犯人がみつからないのは、すべての男が犯人だからです。男と女の間にある溝です」という言葉と、また3年後に再開された捜査の中で部下のナディアが語った「事件を起こすのも、捜査するのも男性」という言葉と合わせて、この映画が何を訴えていたのかがわかる。

 

 

 

クララが複数の男性と性的な関係を持っていたことについて、映画を観ていて衝撃を受けるだとかそこに何か闇を感じるということはなかったし、そういう人もいるでしょうとしか思いませんでしたが、成績優秀なエリートであるにもかかわらずあえて現場を希望したナディア刑事が上司のヨアンに、捜査の現場は男性社会で女性に対しての扱いが酷いことを告発していたように、これは男にだらしない若い女性の話ではなくて「男性たちの中にある闇」をこそ観客に見せつけているんでしょうね。

 

クララの「セフレだった」というヴァンサンが恋人のナタリーを電話で脅している様子を盗聴していてブチギレるマルソーは、妻が浮気相手の子どもを宿して離婚を求めていることで我を忘れており、自らの「男性性」に自信をなくして荒れていた。

 

 

 

刑事仲間のロイックは、クララをアバズレ扱いしてヨアンと言い合いになる。

 

半年前に出会った彼女と結婚する、という若手刑事のウィリーに、年上の刑事仲間たちが口を揃えて異を唱える異様さ。「自分が離婚したからって、人の結婚を否定しないで」とウィリーに言われて、おっさんたちは言い返せない。

 

マルソーに、ハムスターのようだ、と揶揄されるように、映画の中でヨアンは自転車競技場のトラックをぐるぐる回り続ける。どこにも逃げ出せない。

 

刑事であろうが、容疑者であろうが、男たちは皆「男の沽券」に苛まれている。身勝手だったり、暴力を振るったりする(真犯人を突きとめられなかったヨアンも、物にあたる)。

 

この映画が、最後に主人公が殺人事件の真犯人が誰だったのかを暴いて一件落着、みたいなタイプの映画ではないことで、逆に見えてくるものがあったということ。

 

真夜中にたった一人で友人宅から帰途についたクララの迂闊さや、彼女が性的に奔放であったことを責めるよりも、誰かが彼女を殺した、というその恐ろしい犯罪行為こそが責められなければならない。

 

迷宮入りになった殺人事件の捜査の再開をヨアンに依頼する判事は、「犯人の男性、あるいは女性」と表現する。確たる証拠がない以上、女性が犯人である可能性だってないわけではない。

 

しかし、ヨアンは犯人は男性だと確信しているようだ。

 

それは、自らの中にある闇を見つめた結果だろうか。

 

ここで言う「闇」というのは抽象的なことではなくて、私たち男性たちの中にある暴力性だったり、利己的な部分やジュールが見せたあのサイコパス気味な共感能力の欠如など、実は多くの人間がなにがしか抱えているもののことだ。

 

警察を辞めるようなことを言っていたマルソーは別の署に異動となり、ヨアンにリンドウの花の写真を送ってくる。

 

ヨアンはマルソーのアドヴァイス通りに、競技場のトラックから出て公道を走る。勾配の急な坂を上り、高みを目指して。


男社会だった現場に女性の刑事を迎えて、彼らはこれから新たな気づきを得て良き方へ変わっていけるだろうか。

 

クララがナニーにとって誰にも代えがたい親友だったように、クララの両親にとって事件から3年経っても、何年経とうが忘れられない大事な娘だったように、どこにも無残に殺されていい命などない。

 

他者の命に対して無関心になれてしまった時、私たちは暗闇でクララの命を奪ったあの犯人のように、人をあっさりと切り捨ててしまえる恐ろしい存在になるのだ。

 

 

 

 

 

関連記事

『ウインド・リバー』

 

↑もう一つのブログでも映画の感想等を書いています♪

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ