トムソーヤーに絵本読み聞かせ -13ページ目

アラフォーのくせにシャボン玉にはまる

 ようやく夏休みが取れたので、保育園児の次男を連れて、じいさんばあさんのいる山口の田舎へ帰省し、酒を飲み、廃人のごとくほうけて5日間過ごした。

 最後には、息子とシャボン玉を吹いたのだが、これにはまって、なんとアラフォーのくせに1時間ほど没頭してしまう始末。

 150円で売っていたなんの変哲もないシャボン玉セット。

 しかし、単純だからこそ、ピュアな驚きがある、そして、シャボン玉が物体として宙にせり出し、そして、ふっと筒から離れて浮遊していく様は、なんとも現実とは思えない不思議さがある。


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 私の夢のひとつに、キューバに行って、葉巻をくゆらし、香りと煙が漂うのをただただぼんやりと楽しむというのがあるが、葉巻一本で一時間ほどかかるそうな。

 その夢をとうとうシャボン玉で叶えたような?トリップ感。

 田舎だからなにもすることがなかったんじゃないなどと言うなかれ。

 脳が古代までトリップして、原人になったかのようなリフレッシュ感があったと言うべきか。




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マルグリット・デュラス、1996年3月3日に死去

 マルグリット・デュラスが1996年3月3日に死去したという事実を今になって確認。僕のプー太郎生活最後の月であって、個人的に感慨深い。『これで、おしまい』という同年2月29日、死の直前まで書かれた日記?のようなものを読んで、僕の下流生活の終焉と、彼女の死が、奇妙にシンクロしているのに驚いた。(といっても、まったく関係ないのは明白だ。彼女は、才能があり、僕には微塵もない)

 プー太郎生活のワンシーン?とは、違うかもしれないが、1994年の一節に、自分の生活を振り返った。




十一月二十一日、午後、サン=ブノワ街

時々、私は長時間にわたって、中身がからっぽになってしまうことがある。

身分なんかなしになる。

それが最初はおそろしい気がする。それから、一種の幸福の気配に変わっていく。そしてそれがおさまってしまう。

幸福というのは、いくらか死に近い。

自分がしゃべっている場所からいくらかいなくなってしまうのだ。







これで、おしまい/マルグリット デュラス

¥1,529
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夏の昼寝‥詩人の世界は無意識につながる

 前回、私の大好きな妖怪、豆狸(まめだぬき)を紹介しましたが、図書館で“たまたま”、それと関係する詩に出会って驚きました。

 詩人の名は、これまた私の好きな酔いどれ詩人、田村隆一さん。

 夏バテ中の疲労体には、昼寝が一番ですが、春の昼寝、夏の昼寝、秋の昼寝、冬の昼寝、すべて感覚が違いますよね。

 夏の終わりの頃の昼寝を、詩人が表現すると、とんでもない世界に連れてゆかれる、しかも、なんとなく懐かしい様な気持ちにもなる、という詩です‥



疾走する午睡(1997)

列車の窓から
群青の海をながめている
「いくたびか夏が過ぎて
 白鳥みまかりぬ」
テニスンの詩句が口から出たと思うと
鰯雲がひろがり
人も世界も影だけが長くなる
客は見知らぬ人ばかり
海の岩場はかぎりなくつづき やっと小さな停車場について
駅名を見る
「驫」
駅員もいない 木のベンチにポッと坐っている老女に「ここはどこ?」
「とどろき」老女のしわがれ声

その声で
ぼくはあわてて立ち上がる
立ちあがるといったってベットに寝たまま
脳の奥にはまだ群青の海がひろがっているというのに
やっと赤ワインで朝食をすませたのを思い出す

「ここはどこ?」
「狸ノ金玉 千畳敷」

水木しげる『妖鬼化』iPadアプリゲット

水木しげる先生の『妖鬼化』という妖怪図鑑シリーズのiPadアプリをゲットしました。

今回配信は、その壱ということで、沖縄と九州編で900円。

140くらいの妖怪達が美しいフルグラフィックであなたを妖しく誘う!

私の大好きな豆狸も登場。こいつは、金玉にふっと息を吹きかけ、座敷のように拡げて人間を化かします。2009/10/26ブログにて紹介

今後、10回以上配信とのことで、全巻揃えると大変なことに。

しかし、発想力と倫理力が鍛えられること間違いなし!

iPadを触るのは自慰行為か?

ジブリの宮﨑駿が、iPadに嫌悪感を表明し、「まるで自慰行為のようにさする」という表現で、ipadの操作について揶揄をしたそうな。

もしかしたら、インターネットブラウジング自体が、自慰行為のようなものかもしれない。とすれば、 iPadをいじることのみが自慰行為とは言えないのだけど。

ところで、日曜日に、家族で『仮暮らしのアリエッティ』を観たが、あまりにナイーブで驚いてしまった。

この映画では、小人が、即物的に実在するものとして描かれている。現実と幻想のはざまのファンタジーというよりも、なんの工夫もなく、そこに小人がいるという設定。

そして、心臓病で死の危険にある美少年の想像を裏切ることない、(観客の想像も裏切らない)、小人の美少女との淡い恋のようなものが描かれる。

もし、小人を徹底的に即物的に描くのであれば、人間とのコミュニケーションもままならない別の生物として、もっとおぞましい異質なものとして小人を描くこともできただろう。

そうではなくて、ファンタジーとして徹底するのなら、死に瀕した少年の、この世から遊離した孤独な幻想として、存在しないはずの小人との不可能な対話を、作家としての創造性を発揮して物語ることもできたはずだ。

ところが、この映画は徹底的に凡庸で、中途半端にファンタジー。つまり、自慰行為としかいいようがない。

『朗読少女』アプリをダウンロードしたけど

ipadで、『朗読少女』なるアプリをダウンロードしたけど、私はロリコンではありません。

このアプリ、乙葉なんとかというアニメの美少女が、本物の声優さんの声で、芥川龍之介の『羅生門』を朗読してくれるというもの。

今後の展開としては、着替えもできるようになるという変態ぶり。

いちおう、ここは読み聞かせブログということになってますし、紹介しましたが、ホントにロリコンではない私は、萌えという語もろくに理解していないので、無料の領域でサヨナラします。

その他、宮沢賢治などが、一冊355円で、読み聞かせてもらえます。

「歩く」ことの謎、菊地成孔、そして井上陽水?

服は何故音楽を必要とするのか?―「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還さ.../菊地 成孔

¥2,000
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『服は何故音楽を必要とするのか?』―「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召還された音楽達についての考察

 という、菊地成孔しか書き得ない主題の本がある。

 「歩く」ことの効用については、たとえば今日の日経夕刊の丸の内キャリア塾でも、「習慣的に歩くことで脳が『快』の状態に」ということで、「歩けば、脳の中にドーパミンが生成され、自分の中から夢や希望がわいてくる」などと、脳科学の観点から言及されることが多いが、

 モードの世界のモデルのウォーキングに対してここまでの哲学的思考、いや妄想を高めたものは彼以外にはいないはずだ。






 この本の中で、菊地は幾人かのモードショーのバックグラウンドの音楽家と対談しているが、なかでもモロッコからフランスに移住したアリエル・ワイズマンとのやりとりが記憶に残った。



(A) 例えば、ギリシアの哲学者アリストテレスとその弟子達は、歩きながら思考に耽った。直立姿勢を維持して歩くことを通じてこそ思考を持ち、物を案じるのです。
 座ってただ感じているとき以上に感覚が豊かに成る様な、歩いているとはそういう瞬間です。
 だから、何も考えずにゾンビのように歩いてはいけない。

(K)何にせよ、対概念は「行進」だと思います。
 「行進」は、思考停止であり、個を投げ捨てることですから。



 そういえば、岩波文庫のプラトン『饗宴』を読むと、ソクラテスは道ばたで考えこんじゃってなかなかパーテイー会場?に着かない。





 「歩く」ことは思考と結びついている。

 それは歩くことが「孤独」に結びついているからか?

 しかし、「孤独」は「歓び」と、飲んだくれ詩人の田村隆一は『灰色のノート』でうたう。



ぼくは歩いている
ジェット旅客機
革靴
ネクタイ
みんな嫌い 大嫌い

拘束されないために
歩いている できるなら
裸足で歩きたい 小さな花 小さな星

小さな宿屋にたどりついたら
シングル・モルトがあって
だしぬけにフランスの詩人の言葉が目をさます
「我らの獲物は一滴の光り」




 「歩く」ことと関係あるのかどうかよくわからない井上陽水。たまたまYouTubeで菊地成孔との共演をみつけました。それにしても、「背中まで45分」という曲、いいですねぇ。痺れました。

豚のミラネーゼ 桃のソース

山田宏巳のイタリアン大好き/山田 宏巳

¥1,575
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 暑いけど、カラッとしてて気分が良い。

 そんな時は、ワイン飲みながら料理するとさらにすがすがしい。

 ということで、イタリア料理の本をひっぱりだしてきて、最高にさわやかな夏の料理をすることに。

 山田宏巳の『イタリアン大好き』を選んだのは、「豚のミラネーゼ 桃のソース」をつくるため。

 (山田宏巳って、最近、大麻で逮捕されていたけど、復活したのかな‥)

 桃とフルーツトマトをオリーブオイルとレモン、塩、白こしょうをあえたソースをカツレツのうえにかけるだけ。シンプルだけど、季節感たっぷりでボリュームもある。

 季節が移りゆくたびに、記憶の棚から、とっておきのレシピを引っぱり出して、フライパンの上で再現する。

 映画のレトロスペクティブのように、料理も再現するたびに、様々な記憶が召還されるとともに、年齢を重ねた後にしか感じることのできない、時間の澱のようなものが生じてくるのか?

 いやいや、まだ料理に関しては、ダイレクトに味覚的で、情動的で、快楽的なもの!と信じたい。

 まだ、アラフォーですから。

 ところで、本日の田崎真也さんのブログは「モロッコのランチ」

 これも、記憶を揺さぶるモロッコのいわし料理。作ろうかなぁ。

http://ameblo.jp/tasaki-shinya/

 

『プレゼンテーションZEN』

プレゼンテーション Zen/Garr Reynolds

¥2,415
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  パワーポイントによるプレゼンが退屈すぎる。

 末期状況ともいえるくらいの催眠効果。

 その原因は?

・スライドに言うべきことすべてが詰め込まれている。

・スライドを見なくても、プレゼンターを見なくても、配布資料を後で見ればよい

・パワーポイントを使うとすべて似たり寄ったりの内容になる

 このままでは、ミヒャエル・エンデの『モモ』にでてくる灰色の男たちのごとくなってしまう。

 ということで、元アップルのガー・レイノルズが登場する。といっても、マイクロソフトのPowerPointより、アップルのKeyNoteにしなさいということではなく、


 プレゼンターを引きたてるように、スライドを使おう!


 ということ。ZEN=禅の作法で、スライドの内容を、思い切って省略したほうが、感覚的な部分が伝わりやすいし、肝心なところはプレゼンターに注目が集まるから、プレゼンターみずからわかりやすい言葉で伝えればよい。

 ロックコンサートにたとえられるスティーブ・ジョブズのプレゼンのように。












僕にとってコンピューターは、人間が考えついた最も素晴らしい道具なんだ。それは知性にとっての自転車に相当するものだ」
スティーブ・ジョブズ




 「自転車」というたとえが素晴らしい。「決まりきったテンプレートによってアイデアを骨抜きにする『知性の乗用車』のようなもの」になってしまっては、元も子もないから。

それから、本著「3 アナログ式に計画を練ろう」を読むと、偉大なコンピューター開発者たちが、意外とコンピューター至上主義ではなく、アナログを称えていることがわかる。


「アイデアさえあれば、機械を使わなくてもたくさんのことができる。そうしたアイデアを得た時点で機械が役立ち始めるんだ。たいていのアイデアは砂浜に棒で書くことで十分に対応できるものだ」
アラン・ケイ



 なんとシンプルな真実!基本的なことだけど、感動的ですらある。

 アイデアを創造するためには、今も昔も、「紙とペン」が必要なのだと、ガー・レイノルズは言う、


(ペンと紙)
 一人でブレーンストーミングを行ったり、アイデアを探ったり、リストを作ったり、大まかな考えをまとめたりするときには、ペンと紙を使うようにしている。もちろんコンピューターを使うことだってできる。しかし(多くの人と同様に)私は気づいたのだ。

 ペンを手にしてアイデアを書き出すという行為は、より右脳に直結しるらしくのびのびとした気分でスムースにアイデアを思い描き、書き留めていくことができるのである。キーボードの前に座っているより、紙とペンを使ってアイデアを探り、それを視覚化していく方が、はるかに効果的なアプローチだと言える。



 それと、アイデア創造のために、オスター・ブーフホルツ博士(精神分析学者)の言葉が引用される。


人間の問題を創造的に解決するためには、一人きりの時間 alone time が必要である」



 ほんとにそうだよなあと共感した本著すが、ここに紹介した部分は、あくまでも準備段階だけなので、詳しくは中身を読んで下さいな





『大人は判ってくれない』




 昨日のブログでヴィターリー・カネフスキーの『動くな、死ね、蘇れ!』を紹介したけど、この映画は、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』を超えたとも言われていた。

でも、超えたかどうかはどうでも良くて、同じテーマの実に優れた映画だということだけは断言できる。

原題は、quatre cents coups 400百発のゲンコツ。

悪ガキ?いや、否応なく社会から逸脱してしまった男の子の話。

最後、動物のように逃走して海に辿り着くシーン。ほんとうに素晴らしい。『動くな、死ね、蘇れ!』でもワレルカ少年は極東の砂漠や海沿いで脱兎のごとく疾走していたっけ‥

うちの悪ガキ小学生は今日も反省なく、叱られてご飯も食べずにふて寝です。