さて、このような不動産抵当債権担保貸出し金の証券化の盛行は、次第に次のような考え方を生んでくるのは当然である。もし何らかの形で定期的に安定的に元利金または現金流入が行なわれるような銀行貸付金債権が存在すれば、これらを銀行貸借対照表から引き抜いて、信託をするなり金融子会社へ引き渡し、その債権を細分化した証券に変換・分割化して売却できないかということである。かくして「証券化できない金融取引というものは存在しないLといわれるほど証券化は次第に全金融取引領域へ及んでくることとなった。

不動産ほど確固とした担保ではないにせよ(もっとも、米国ではテキサス、ジョージア、ワシントン、オクラホマ各州にみられるとおり、土地といえども購入価格以下に暴落することが充分ありうる国柄である。日本のように半永久的に地価が上昇を続ける国というのはきわめて稀有な例として国際的に考えられている点は銘記すべきである)、自動車ローン、クレジ″トーカード債権、機械・コンピュータ・設備、はては通信衛星のリース料金までが証券化された。

打込氏によればオート・ローンはCARSと略称され、八五年投資銀行の雄、ソロモン・ブラザーズがマーケティング・アシスタンス社のための私募債1000万ドルの発行を、同年、マリン・ミドランド銀行が公募6000万ドルを発行したのを皮切りに、八六年末ではゼネラル・モーターズの金融子会社GMAC社(同社は三〇〇億ドルものCP発行体で、全米のCP発行市場の一割を握っている金融大会社である)はすでに三八億ドルものCARSを発行している。

すでに取り上げてきたように、EUそのものが長年の敵対相手であるフランスとドイツの和解の上に立って成立した共同体である。EU議会は、フランスとドイツが血を流しながら取りつ取られつしたアルザスのストラスブールに設置された。「戦争は遠くなりにけり」である。そのストラスブールに新会社「ヨーロッパ株式会社」の本社が置かれる。平和の申し子ユーロの成果はここまできた。


EUの産業構造の今後を代表するものは先端技術部門である。その中でも、情報部門と宇宙開発部門がユーロ時代のりーデイングーセクターになろう。情報産業については、すでに長年にわたってEUは共通政策の中に組み込み、その育成に力を注いできた。その結果、EUには情報共同体ともいうべき社会的システムーネットワークが構築されてきた。EC委員会の共同情報政策報告書グリーン・ペーパー(一九八九年)によって、その概略を知ろう。

まず、グリーン・ペーパーは、一九八七年からスタートした統一技術開発研究計画の中での情報産業育成の位置づけをしている。これによってEUの情報共同体への前進は決定的になったのである。一九八七年九月にECは、八じ年九月から九一年までにわたる統一技術開発研究計画を発表、実施した。この計画による技術開発投資は、約六〇億ECUである。この額は、ヨーロッパ全体の関連開発研究投資額とほぽ同額である。総費用の四〇~五〇パーセントがECからの補助である。

研究投資額の四〇パーセントが電気通信と情報処理の分野に割り当てられた。このうち、テレコミュニケーションに関する共同計画(レース計画)に対しては、五億五〇〇〇万ECUが当てられた。このレース計画の目的は、統合広域ISDNの設営である。情報処理技術に関しては、「エスプリ計画2」が作成され、総額ニ八億ECUの研究開発資金が投入された。

韓国経済は、1970年前後に重化学工業化への傾斜を強めた。政府は、1967年に造船育成法、1969年に電子工業振興法、1970年に鉄鋼工業育成法、石油化学振興法を制定し、重化学工業化の体制づくりを進めた。

財閥企業は、政府の提案する計画のうちから自社に適切と思われるものを選定し、政府の計画に見合う事業計画案を作成した。この計画を政府に提出し、認可の下りたプロジェクトについては、政府によって資金的裏づけがなされ、工場建設と増設を行うという手順がとられた。

各財閥は、それまで手がけたことのない産業分野であっても、それへの参入が有利とみるや、政府支援を後楯に、ただちに計画を実行に移すという機敏な行動をとった。そして財閥はいくつかの産業分野にまたがる多角的な「コングロマリット」型経営にのりだしていった。財閥は経営規模の激しい拡大をつづけて、現在の韓国経済に占める比重を圧倒的なものとした。

韓国経済における財閥の地位を卓越したものにしたのは、政府による「政策金融支援」であった。韓国の主要な金融機関は1982年までは政府直営、もしくは政府の強力な管理下にあり、有利な資金確保の道は銀行を通じて政府が流す政策金融以外にはなかった。

資金不足を恒常化させていた1960年代、1970年代の韓国においては、政府の金融支援にあずかることができるか否かが、財閥の興廃を決する鍵であった。厳しい資金不足の韓国経済において企業経営の資金チャネルを握っていたのは政府であり、それがゆえに財閥は政府の指示に従順に応じるよりはかなかった。