韓国経済は、1970年前後に重化学工業化への傾斜を強めた。政府は、1967年に造船育成法、1969年に電子工業振興法、1970年に鉄鋼工業育成法、石油化学振興法を制定し、重化学工業化の体制づくりを進めた。

財閥企業は、政府の提案する計画のうちから自社に適切と思われるものを選定し、政府の計画に見合う事業計画案を作成した。この計画を政府に提出し、認可の下りたプロジェクトについては、政府によって資金的裏づけがなされ、工場建設と増設を行うという手順がとられた。

各財閥は、それまで手がけたことのない産業分野であっても、それへの参入が有利とみるや、政府支援を後楯に、ただちに計画を実行に移すという機敏な行動をとった。そして財閥はいくつかの産業分野にまたがる多角的な「コングロマリット」型経営にのりだしていった。財閥は経営規模の激しい拡大をつづけて、現在の韓国経済に占める比重を圧倒的なものとした。

韓国経済における財閥の地位を卓越したものにしたのは、政府による「政策金融支援」であった。韓国の主要な金融機関は1982年までは政府直営、もしくは政府の強力な管理下にあり、有利な資金確保の道は銀行を通じて政府が流す政策金融以外にはなかった。

資金不足を恒常化させていた1960年代、1970年代の韓国においては、政府の金融支援にあずかることができるか否かが、財閥の興廃を決する鍵であった。厳しい資金不足の韓国経済において企業経営の資金チャネルを握っていたのは政府であり、それがゆえに財閥は政府の指示に従順に応じるよりはかなかった。