静寂の中にあるもの | こめじるしるーむ

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誰しもが自分として在る事が一番大事。そう信じています。



スピリチュアルがきっかけでもええんちゃうかな?


よぉ、俺だ。りんーごだ。



瞑想

静寂と同化する

イメージの練習



と、やってきた。今日はそれのまとめの日だ。



りんーご 瞑想について


瞑想に関しては俺から説明する事がないんだ。

何を感じたり、何を思ったりするのかも人それぞれだからな。

ただ、瞑想に対して身構えてしまったり、上手に出来ないと思っている人も多いと思うんだ。


そういう時は、下のような事を実践してみてほしいんだぜ。



■ 体を動かす


筋肉が強張ってると頭痛がしたり、吐き気がしたりする。

特に首や肩に力が入っていると、なかなかリラックスする事ができない。

腕をクルクル回したり、軽く散歩でもして全身の筋肉をほぐしておいてくれ。

運動も大切な行為だ。



■ 何かを得ようと思わない


何かを得るために「瞑想」を行う事もあると思う。

知恵であったり、現実世界に役立つ事であったり、楽しみであったり…

だが、瞑想の基本姿勢は、自分を静寂の中に入れる事だ。

「欲する」のは主に思考で行う。

「これの情報が欲しい」「これが知りたい」という思いは瞑想中は捨てた方が無難だ。

何か欲しい情報があるなら、前もって紙に書き出すなどしておくといいぜ。



■ 無を歓迎する


「無」と聞くと、何かむなしいものを感じるかもしれない。

だが、「無」は全てに含まれているもので、まったく怖がるものではない。

思考を休ませる、思考をストップさせる行為は、ある意味「無」を体験することに近いかもしれない。

だが「無」が持つ絶対的な安定感を一度経験したら、これが怖いものではない事が分かると思うぜ。





スピリチュアルがきっかけでもええんちゃうかな?


りんーご 実際に瞑想をして↑が理解してきた事をここに掲載しておく。よければ参考にしてくれ!!



こめじるし 完全を追い求めているうちは人を傷つける


自分の正義は自分にだけもたらされ、その勝手な正義で人を傷つける事となる。

それは私も例外なく、これまでに数多くの「傷」を作ってきた。

人はお互いに「傷」をつけ合いながら、それを「つながり」と勘違いしている事がある。


私が「完全」を目指して進む道には多くの人がいるが、私は「私の完全」を求め、「周囲の完全」を見ない。

誰しもが「自分だけの完全」を求めているので、周りが見えていない。

私は人に傷をつける事を繰り返す一方、人からも多くの傷をつけられている。

その傷は独特のもので、一種の依存を生み出す。共存と見せかけた虚しい依存をもたらす。


その依存は「誰がより不幸」かのレッテル貼りのようなもので、非常に虚しい。

誰もが「完全」を求める道はいばら道。全てが敵になり、そこに味方がいない。

味方と見せかけた「依存」。「同じ苦しみを知るもの」という、大変虚しい傷のなめ合いを行う。

それを、友情や愛と呼ぶ事は間違っている。



こめじるし 幸せを追い求めるあまり見えなくなる世界


1つの幸せがあるとする。その幸せを誰よりも先に得たいと躍起になる。

その姿はとてもじゃないが美しいとはいえない。

「幸せ」だけを見て、そこに到達する事しか考えない人々の姿は凄く残念だ。

他を見ない。たとえ見たとしても、「横よりも先に」とぶつかりながら進んでいく。


傷を付けられた事も気付かない。傷にならない経験に嘆き、自分の罪を隠してしまう。

自分の罪を隠すために、自分の視界にフィルターを掛ける。


フィルターは視界を濁らす。濁らした挙句、自分がいる世界の事が見えにくくなる。

視界が悪くなった世界に残るのは「幸せか不幸」その二つの強烈な光。とみせかけた虚像。


世の美しさに目を瞑り、欲に走った醜い己への愛おしさは一入。

誰よりも幸せでありたい。全である世界で一のみの幸福を願う事、叶うはずがない悲しい思考。



こめじるし 貰えていないんじゃない、自分が拒絶しているだけだ


愛を貰えないと嘆く人、それは自分が愛を拒絶しているから。

愛の形は四角だと思い込んでいるから、丸い愛を与えられても受け入れる事ができない。

四角い箱を持っているから、四角い愛を与えてくれと嘆くのは、可哀そうな姿じゃない。

人に自分の勝手を押し付けているだけの話だ。


愛に形はないが、その愛に形を見出そうとするのも残念な事。


受け入れていないのは自分が拒絶しているから。

「これはこういう形でなければいけない」という思考が生みだした拒絶かもしれない。

私の全てを受け入れてほしいと願っている心。それを向けているのは己自身へだ。


心は言う 「私、私の全てを受け入れてください」



こめじるし すべてのものは二極一対


善があれば悪があり、悪があれば善がある。

また完璧な善も存在しなければ、完璧な悪も存在しない。


自分の中に善があれば、また同時に悪も存在している。

自分の中に愛があれば、また同時に嫉妬も存在している。

自分の中に喜びがあれば、また同時に悲しみも存在している。


それはそれで良い。それがこの世界の美しさ。


一方からしか見ない球体は平面に見える。

近づけば近づくほど、壁も出口ものない場所にほおりだされた気持ちになる。

そして同じ所をぐるぐると廻る。球になっていると分からないから、グルグルと廻る。

回っている最中、私は光を求める。その光がある方へ、影から逃げるために只管歩く。

ずっと同じ道を、何年も何十年も。


ある日、歩く事につかれた私は休息を欲する。少し立ち止まってみる。

そこで私は、初めて自分が踏みしめている大地が丸みを帯びていると知る。

そこで私は勇気をもって、体の方向を変える。光では無く、影の方へ向きを変える。


光が作った自分の影は弧を描いて前方に伸びている。

影は緩やかな弧を描いている。私を媒体にして、私は地の丸さを知る。


不完全は形を作り出す。光と闇はお互いを受け入れあって、そこに存在している。

私達はそれで良い。人は完全な光にならなくて良い。


つめたいと感じるのは、あたたかいを知っているから。

あついと感じるのは、すずしいを知っているから。



こめじるし 何を知っても何を見ても何を理解しても私はまだ迷う未熟な存在


成長とはそういう事。それを経験する為に産まれてきた。

泣きながら喜びを知り、憎しみながら愛の喜びを感じる。

不安定だからこそ感じれる全て、不安定だからこそ知る事のできる感動。


感動はそれで良い。心の揺れがあってこその感動。










スピリチュアルがきっかけでもええんちゃうかな?



瞑想は特別な事じゃない。それで得られる情報も特別な事じゃない。


始めっから本に書いてある事が大半だ。

だが、外から得られる情報よりも、内側から湧いてくる情報の威力は強烈だ。



自分の内側にあるものと繋がって欲しい。

掛け替えのない自分を、全身で感じてほしい。




次の実践からは意識を外に向けていく事を行う。


今日もありがとうな!!











- - - - - - - - - - - - 全ての命に愛を… - - - - - - - - - - - - - - - 



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