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エフォートアカデミー塾長日記

静岡県三島市の学習塾「エフォートアカデミー」のブログです。
塾での出来事やお知らせを、私塾長の鈴木がお知らせいたします。
エフォートアカデミーのホームページは、
http://www.effort-aca.com
です。よろしくお願いいたします!

先日、以下のようなニュースを目にしました。

 

マイナー競技故、資金やマンパワーが常に不足している事情は理解できますが、それが選手生命を左右するような「致命的ミス」を許容する理由にはなりません。一部で、

 

「選手自身が出場資格を確認しなかったのが悪い!」

 

などという暴論を吐く方が散見されますが、そうであれば出場大会の選択等、ある種の強制力を伴う権力を持つ競技団体、ひいてはJOCそのものが不要になるということで、そのような「言い訳」は全く通用するものではありません。今般の文字通り「取り返しのつかない事態」を、いったいどのように収めるつもりなのでしょうか?

 

受験においても、時折信じられないような「失態」について報道されることがあります。

 

まさに人生を左右する「受験」において、ごく一部の「ポンコツ教師」による失念のために、出願さえできなかったという事態は、法的に「金で解決」することはできても、その後の子供自身の長い人生において、拭い難い「暗い影」を落としてしまうことになるのです。故意ではないとはいえ、このような絶望的な「不注意」を招いた輩を、子供の学習を指導させて頂いている立場として、決して許してはならないと強く感じます。

 

「受験」でのケースにおいては、その手続きの大部分を「学校経由」で行うことを半ば強制している学校が少なくないのは実に大きな問題だと捉えています。学校としては、その責任はいわゆる「調査書」の発行だけにとどめ、出願自体は受験生本人の責任において各自行ってもらうのが最も合理的だと考えるのは、果たして私だけでしょうか?大事な生徒の「出願手続き」さえ忘れてしまう「ポンコツ」であることを大いに自覚していただき、ヒューマンエラーの可能性を極力減らすべく、リスクを分散するのは「当たり前」のことなのです。

 

オリンピックを目指して心血を注いできた選手たちに、いつの日か「報われる日」が訪れること、そして今年の受験においては「出願ミス」などというバカげた事態が発生しないことを心から祈る私なのでした。

 

頑張りましょう!

学習とは全く関係ない話です(笑)。

こちらの映画をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか?

 

沼津市や富士市を舞台とした、現代の「ヤクザ映画」です。沼津市出身の俳優である磯村勇斗さんも出演されています。5年ほど前の映画で、現在はネットフリックスなどで配信されています。私もこの映画の存在は存じ上げてはいましたが、先日初めて鑑賞することができました。

 

ロケの中心はまさに私の居住する場所の「近所」であり、小学校以来の友人(お子様を当塾にお預け頂いたこともありました)の造船所でのシーンもあり、「誰も救われない」実に悲しいストーリーとともに、ノスタルジーな感情にどっぷりと浸かってしまった作品でありました。私がどんなところで暮らしているのか、興味がある方はぜひこちらの作品をご覧ください(笑)。

 

「ヤクザ映画」といえば、派手な立ち回りと、主人公の「豪放磊落」さが「定番」ですが、この映画は従来の「ヤクザ映画」とは一線を画し、暴対法施行以降の「ヤクザの凋落」を克明に描いていました。我が故郷はいわゆる「港町」であり、かつては「ちょっとおっかない人たち」が大勢いたものです(笑)。この映画のストーリー同様、少し前までは風を切って街を闊歩していた「ヤクザ」たちが、今や「風前の灯」となっています。彼らに代わり、街には「不良外国人」と「反社」と思しき輩が幅を利かせています。これは本当に私たちが求めた「街の姿」だったのか、今一度考えてみる必要があるのかもしれません。

「ヤクザ」が必要悪などとは決して思いません。「しでかしてきたこと」のツケは、きっちりと払うべきなのは当然のことです。一方で、実に皮肉なことに街が活気に溢れ、なぜか比較的安全だったのも、また「ヤクザ」がいた時期であったことも確かなのです。

 

綾野剛さん演じる主人公が、長年の刑務所暮らしから解放され、沼津に戻った時、街の様子は一変し、「ヤクザ」が「ヤクザ」でなくなったとしても、もはや「平凡に暮らす」ことさえ許されなくなってしまった「現実」は、いったい誰を「幸せ」にできる「現実」なのだろうと、考えさせられる映画でした。

決して許されることがないであろう主人公の人生をなぞるように、沼津や富士の街並が、かつての繁栄を失い、ともに没落していく情景が印象的に描かれていた映画のように、私には感じられました。ネットフリックスに加入されている方は、ぜひ一度ご覧になってください(私はネットフリックスの「回し者」では決してありません(笑))。

 

人間はこの世にオギャーと生まれ、逞しく成長し、やがて老いて死んでいきます。きっと「街」も同じなのでしょう。「寂れていくこと」もひとつの「選択肢」だと、私は考えているのです。そして、そんな「寂れた姿」にこそノスタルジーを感じ、同時に「美しい」と感じるのは、果たして私だけでしょうか?

 

頑張りましょう!

勉強やスポーツにおいて、「指導者」から厳しい叱責を受けた経験がある人は少なくないと思います。かく言う私自身、高校時代は非常に厳しい指導を受けた身であり、その具体的な「指導内容」は、とてもブログには書けません。世が世なら、間違いなく「事件」になっていると思います(笑)。あくまで「昭和」での出来事ですから、もはや「時効」だと思いますが、その「実に厳しかった指導」を、今となっては心から感謝しているのだから、本当に不思議なのです(笑)。

 

なぜ「厳しく指導」されるのか、そもそも「指導」されるということは、まだまだ改善の余地があるからに他ならないでしょう。「こりゃ、ダメだ!」と判断されたのであれば、指導する側としてもわざわざ恨まれるようなことはしたくないはずなので、「無視」や「無関心」を決め込むはずなのです。何事につけても「相手にされている」ということは、「期待されている」ことの証左であることは疑いようのない事実だと思うのです。

 

もちろん、今のご時世、何事においても「やり過ぎ」は決して許されません。けれども、厳しいと感じた叱責(この場合、叱咤激励と言った方が良いのかもしれません)を受けた時、その不躾な言葉にどんな意味があるのか、ほんの少しだけ考えてみてもらいたいと、強く感じます。

私は高校時代、野球に明け暮れましたが、皆さんご存知の通り、高校野球は一度でも負けたら「即終了」の世界です。言わば、たったひとつのミスが「死」に直結するといっても過言ではありません。たったひとつの「気の抜けたプレー」が万死に値するという事実を、恩師は実に厳しく、同時に愛情をもって私たちに教えてくださいました。実に凡庸な選手だった私たちが、その「真意」に本当の意味で気づくのは、実に情けないことに卒業した後だったのですが、それでも「大切なことを教えてくれた」恩師には、今でも感謝の念が絶えないのです。

 

「良薬は口に苦し」という言葉があります。誰にとっても苦言や厳しい指導は決して愉快なものではありませんが、それはあなた自身が「まだまだ伸びる!」と判断されているからに他ならないからだと、私は考えているのです。厳しい指摘さえ一度はぐっと呑み込んだ上で、自らの成長の糧とすることが大切だと、私は考えているのです。耳触りのよい言葉だけが、人間を成長させるとは限らないということを知るべきでしょう。

 

「好き」の反対は、「嫌い」ではなく「無関心」だとは、よく言ったものです(笑)。

 

頑張りましょう!

年末から年始にかけて、少々イライラさせられることが続きます(笑)。

年度末にかけて、あたかも「予算」を使い切ることが義務付けられているかの如く、当地のような田舎においてもあちこちで道路の工事が行われています。舗装をやり直したり、下水道を整備したり、各々必要な工事であることは重々理解してはいるのですが、田舎の一本道で数百メートルごとに複数の工事個所があれば、そりゃ渋滞もします(笑)。同じ道路上でやるならば、なぜ時期をずらせないのか、我々庶民には計り知れない「闇」があるのでしょう(笑)。

 

そんな普通ならイライラしっ放しの状況の中で、ほんの少しだけ「ほっこり」した光景がありました。

何度も通過せざるを得ない生活道路で、昨年末からずっと工事をしているのですが、その場所では必ず「交通整理」の方が車を誘導しています。通常ならば比較的高齢の方が多いのですが、私の自宅近くで働いている方は20代前半と思しき女性、それも金髪をなびかせ、メイクもばっちりの、大変失礼ながら少々「場違い」な容姿で仕事をされていたのでした。

最初に見た時は学生のアルバイトかと思ったのですが、どうやらそうではなさそうで、実にしっかりと交通誘導をしてくれています。高齢の方の場合、やや判断力が衰えているように見える方もいて、少し危ないな、と感じることもあったのですが、この方の場合はそんな心配も皆無でした。彼女の年齢ならば、もっときれいな格好をして、おしゃれな仕事をしたいのではないかと思ってしまうのですが、他のおじ様たちと同様に、ヘルメットと防寒着を着用して、賢明に仕事に勤しむ姿を見る度に、何の関係もない私でさえ何だか嬉しくなってしまったのでした(笑)。

 

先日、いつものように工事個所を通ると、彼女はちょうど「休憩時間」だったようで、道路脇にちょこんと腰を下ろして缶コーヒーを飲んでいました。そして彼女の隣には、ご主人あるいは恋人と思しき、これまた作業服姿の男性と仲睦まじく話している姿を目にしたのです。交通整理をしている時のやや緊張した表情とは打って変わって、リラックスされたとても良い表情であったのが印象的でした。

「みてくれ」や「カッコ」ばかり気にする若者が溢れる中で、将来を約束したであろう若い夫婦や恋人たちが、決して小奇麗とは言えない仕事場で、汗水垂らして頑張っている姿が、私にはとても眩しく感じました。ただただイライラしっ放しだった工事現場が(笑)、私にとってほんの少しだけ「ほっこりできる」場所に変わりました。

 

人間にとって、本当の意味での「カッコよさ」とは、いったい何なのでしょうか?もっと言えば、人間にとっての「幸せ」とは何を指すのでしょうか?彼らはきっと「裕福」ではないのでしょうが、だからといって「不幸」だとは言えないと思うのです。埃塗れになりながらも、「愛する人」と一緒に飲む「缶コーヒー」は、きっとどんな高級なコーヒーよりも美味しいことでしょう。「幸せ」とは、きっとそういうことなんだと、私は考えているのです。

 

道路工事の現場で目にした、ちょっと派手目なお嬢さんと、その彼氏(ご主人?)さんの末永い幸せを願わずにはいられない私なのでした。

 

人の「幸せな様子」って、なんか「ほっこり」してしまいますよね(笑)。

 

頑張りましょう!

 

母が認知症に罹患して以来、これは決して「治ることがない病気」であることを思い知らされる機会が多く、また医師からもはっきりとそのように宣告されてしまっています。これは誰が悪いわけでもなく、「当たり前のこと」であり、そのような事実を受け入れつつ、介護する側が心して事に当たらなければならないということを示唆されていると、私は考えるのです。

 

翻って、塾には様々なお子さんが来塾します。「学習能力」も「家庭環境」も、「価値観」だって様々、自他ともに認める「良い子」もいれば、お世辞にも学校での評判が良いとは言えない、愛すべき「悪ガキ」だって在塾しているのです(笑)。

置かれた環境も、現在の学力も様々だけど、皆が皆、

 

「今日よりも、明日はきっと良くなる!」

 

可能性を大いに持った若者たちであることは厳然たる事実なのです。

今、何らかの学習上の問題を抱えているのであれば、それを正す「努力」をしなければいけないのは当然のことですが、換言すれば、「それさえできれば」どの子にだって計り知れない「可能性」があるということなのです。

「治らない病気」ならば、せめて「現状維持」を目指す、言わば「後ろ向き」の対応をせざるを得ませんが、大いなる「改善の可能性」を秘めているのであれば、それを簡単に諦める手はないのです。一瞬で物事が解決するような「魔法」などあるはずがありませんが、日々の「問題解決のための努力」の積み重ねは、半年後、1年後に必ず成果として現れます。「治らない病気」ではないのですから。

 

今の世の中、栄養失調で餓死する人などほとんどいませんが、一方で「夢」や「希望」を失った時、人間は自ら人生の終焉を選択してしまうことが少なくないのです。これは極めて大きな問題であり、実に悲しい現実なのです。

 

「今日より明日は、きっとよくなる!」

 

といいう希望さえ持つことができれば、未来はきっと明るくなる!と固く信じている私はいささか楽観的過ぎるでしょうか?(笑)。それでも、こと勉強に限って言えば、今頑張っていることが、近い将来に必ず花を咲かせることを、私は何度もこの目で見ているのです。若いからこそいくらでも「改善できる」、若さの「特権」をぜひ皆さんに享受していただきたいと、強く感じた金曜日の午後なのでした。

 

頑張れば、いくらでも「道」は拓けるのです!何をすればよいか迷った時は、ぜひお気軽にご相談ください。

 

頑張りましょう!

当塾ではこれまで何らかの事情で「学校にいけない子」を数多く指導させて頂きました。そんな子たちの「学校にいけない理由」の多くは「人間関係」でした。

これは子供に限らず、大人になってからも大いに悩まされる問題でもあります。かく言う私自身だって、思わず、

 

「無理!」

 

と感じてしまうキャラクターの方がいます(笑)。これが「時々顔を合わせる」程度であれば我慢もできますが、連日相対しなければならないと思うと、それこそ「胃に穴が開きそうな」気分になってしまうのです(笑)。

 

学校生活の中で、心身両面において「危険」を感じるようなことがあれば、躊躇することなく「逃げる」ことを、私は常々推奨しているのです。学校自身が「あるべき姿」ではないのだから、そんな場所に長居する必要はありません。

 

それでも、実に残念なことに、社会に出れば次々に「無理な人」に出くわしてしまうのは「世の常」なのです。結局のところ、学校であろうが社会であろうが、「汚い部分」は共通であるのかもしれません。

一方で、人間は決して一人では生きていけません。直接・間接問わず、何かしらの「他者との干渉」がなければ、ただ単にボーっと生きていく(ただただ「生きているだけ」ということ)ことさえ「ほぼ無理」なのです。つまりは、どんな嫌な連中であろうとも、どこかで一定の「繋がり」が、嫌でも生じてしまうことになるのです。

 

「価値観」も「人生観」も「倫理観」も大きく異なる連中と、いくら腹を割って話したところで、「わかりあえる」はずがありません(笑)。ここはある意味での「諦観」が重要だと強く感じます。これは決して悪い意味ではなく、言わば「前向きに諦める」ということです、何だかわからないかもしれませんが(笑)。

「どうせ分かり合えない連中」に時間と労力を割くこと自体が「壮大な無駄」であることは確かですし、意味がないことなのです。むしろそのような連中との関わりを最小化するために時間と労力を割く方がよほど生産的だと、私は考えているのです。それが「全力で逃げる」ことだと感じるならば、迷わず「逃げる」べきだと思いますし、いわゆる「スルースキル」を身に着けることも重要だと思います。

 

「学校に行けないこと=勉強ができない」では決してないのです。勉強から「逃げた」訳ではない子は、ぜひご相談ください。

 

「逃げる」ことは大事ですが、それでも人間は、生きていく上では命懸けで戦わなければならない時があるはずです。けれどもそれは、「無理な人」を相手にすることではないのです。奴らにそれほどの価値はありません(笑)。「本質」を見失わないようにしましょう。

 

頑張りましょう!

最近は私立中学や中高一貫校に在籍する塾生を多く指導させて頂いていますが、その多くは(いや、ほぼ確実に)「先取り学習」をしています。

このブログでも再三書かせて頂いている通り、私自身は「先取り学習」に対して必ずしも肯定的ではないのです。先を急ぐあまり、どうしても基礎的な部分が疎かになったり、未習熟のまま先の単元に進んでしまうことがあまりにも多いからです。そうなると、結局は塾に頼らざるを得ず、当の生徒自身が大いに苦労するという結果に行き着いてしまうのです。

 

もっとも、「学習スピードは速い」けれど、その分は学校側でしっかりとフォローし、極力「おいてけぼり」をなくそうと努力されている学校もありますし、それはそれでひとつの「教育方針」ではあります。特に高校では、2年次までに高校における学習課程を概ね終了させ、3年次には受験勉強に特化するという手法は、ある意味で合理的だと言えるのかもしれません。ただし、繰り返しになり恐縮ですが、このような手法を採用できるのは、学校側がきちんと生徒の学習をフォローできている場合に限ると、私は考えているのです。

 

あくまで私が「感じたこと」ではあるのですが、特に学力別にクラスを分けている学校の場合、学力下位のクラスにおいては、その指導がやや杜撰であるケースが多いような気がしています。(ちなみに、私自身は「学力別クラス」については決して否定的ではなく、むしろ合理的だと考えています。「学力別クラス」自体を批判している訳ではないので、その点は誤解のなきように)

 

さすがに「乗法公式」や「因数分解」をきちんと習熟しないまま、いきなり「二次方程式」を解け!と言われても、そりゃ無理ってもんです(笑)。先生からすれば、

 

「そんな簡単なところは自分自身で勉強しとけ!」

 

という指示なのかもしれませんが、ならば無理に先を急ぐようなことをせずに、きちんとひとつひとつ理解を進めていけばいいのに・・・と感じてしまうのです。「先取り学習」には決して無視できない「利点」はあるものの、一方で「とても困っている生徒」が少なからず存在している事実を忘れてはいけません。せめて学力下位のクラスだけでも、少し学習スピードを抑えて、「基礎を固める」ことを重視した方が、後々を考えればより合理的だと思うのは、果たして私だけでしょうか?

 

「超特急」で授業を進めて、あとは「良きに計らえ」では、生徒が一番困ってしまうんだよね、先生は楽かもしれないけれど(笑)。

 

頑張りましょう!

昨年末の記事になりますが、ちょっと気になる内容でした。

 

共同通信の記事はごく短いものでしたが、静岡新聞ではもう少し詳細に記載されていました(現在は有料記事になっているようです)。静岡県内においては、47人が「定員内不合格」となっているようです。

 

「定員内不合格」とは、高校入試において、受験者数が「募集定員」に達していないにもかかわらず「不合格」とされたケースのことを指します。静岡県のみならず、他の都道府県でも同様だと思いますが、「定員に満たない」場合は「再募集」をかけるのが通例です。当然のことながら、静岡県にも「再募集」の制度は存在し、当塾からもこれまで若干名の塾生が「再募集」を受験しています。

 

「定員に満たないのだから、全員合格とすればよいじゃないか!」というご意見もあるかと思いますが、実際の教育現場においてはそんな「簡単な話」で済む問題ではないのです。学習上の問題を抱えるお子さんを、何の準備もなくお預かりするのは事実上難しいですし、他の一般的な生徒と比べ、入学時から著しく学力が劣ったり、素行が悪かったりする生徒を、「定員に満たなかったから」というだけの理由で簡単に合格させることはできないという事情があるのです。裏を返せば、受験生にとっては、

 

「いくら倍率が低くても、一概に「合格しやすい!」などということは言えない!」

 

ということなのだと思うのです。この点をあまり理解されていない親子が例年少なからず存在しており、進路指導をさせて頂く側からすれば、かなり厄介な問題になっています。

 

受験生の皆さんは、合格倍率が「1倍以下」だから、必ず合格する!などという幻想は、早めに捨て去ることを強くお勧めいたします。世の中、そんな甘いもんじゃないのです(笑)。他の受験生が必死に頑張っていた時期に、実に狡猾な思考で「楽をしようとした」ツケは、必ずどこかで払わされるものです。大切なことは、「合格倍率」などに惑わされることなく、高校入学後の学習まで見据えた、質・量ともに十分な学習をしっかりと維持していくことなのです。

 

まさか、高校受験で「いっちょ上がり!」などと考えている人はいませんよね?(笑)。

 

頑張りましょう!

昨日をもって休暇も終了、本日より諸々「再開」となります。

 

まずは母の新年一発目のデーサービスのため、朝から施設まで送り届けました。年末年始はデイサービスがなかったため、母の「生活リズム」は大いに狂ってしまったようで、いつもに増して「傍若無人ぶり」が顕著でした。世話をする我々のほうが疲弊してしまったのですが(笑)、ようやく「日常」に戻り、正直なところほっとしているというのが家族の本音なのです。

 

年末年始休暇中は、私自身もなぜか疲れていたようで、昨夜は比較的早めに休みました。その影響もあってか、本日は体が軽い感じがします。いや、それはあくまで「錯覚」であって、「仕事モード」に戻ったと言った方が正確なのかもしれません。ややダラダラとした生活が、「いつも通り」に戻っただけなのかもしれませんが(笑)、それでも体調に不安が感じられないことはよいことでしょう。

 

年が明ければいよいよ「受験直前期」となります。受験生の皆さんにはより一層の頑張りを期待しているところです。中1・2年生についても、今週末には「学力調査」が控えています。現在の学力が「静岡県内」においてどのあたりに位置しているのか、その検証のための絶好の機会となります。気を抜かずに頑張る必要があるのです。

 

昨年は私や私の家族にとっては文字通り「激動の一年」となってしまいました、もちろん「良くない意味」で(笑)。元来意志だけは強いと思っていた母が、ひとたび「ボケて」しまうと、ここまで手を焼くことになるのかと、改めて感じ入った次第です。母の病気は決して「治る病気」ではなく、日を追うごとに症状は悪化していくものですが、母のため、家族のため、どのように対処していくべきか、世話をする我々家族の「覚悟」が問われているような気がしてなりません。子供のように駄々をこねる母を、少しだけ悲しく感じつつも、できるだけのことはしたいと決意を新たにした私なのでした。

 

考えてみれば、人間はオギャーと生まれてから、親をはじめとする様々な大人の手を借りて何とか成長していき、人生を全うした後に再び「子供に戻って」命の終焉を迎えるというのは、まさに「自然の摂理」ではないかと、ふと感じた「仕事始め」の午後なのでした。

 

塾生へのお世話も、母へのお世話も、どちらも気を抜くことなく、精一杯対処していこうと思っております。私にはキャパオーバーかもしれませんが(笑)、やるしかないのです。

 

頑張りましょう!

当塾のようなマンツーマン個別指導塾には、「普通の塾では扱いにくい子」が集まる傾向が強いのです。

 

学習上の問題があって、特に目が離せない子、集団授業に馴染めない子、種々の事情によって学校にいけない子、はたまた先進的な学習内容故に一般的な塾では対応できない(対応できなことはないが、大手の塾ではコストに見合わない)子、等々、良い意味で「普通でない子」が集まりやすい傾向があるのです(笑)。

 

当然のことながら、子供に限らず、人間はそれぞれに「個性」や「能力」に違いがあって然るべきなのです。それぞれに目標があり、将来の夢があるからこそ「勉強」をひとつの「手段」として利用し、鍛錬していることは言うまでもないのです。

 

勉強にしろ仕事にしろ、誰かに「強制されて」仕方なく行うのと、自らが「必要と感じて」主体的に取り組むとでは、その習熟度や効率性は段違いであり、まさにこの点について、塾生たちには「早く気付いてほしい!」と強く感じているところなのです。

勉強などは、まさに数多ある「手段」のひとつなのです。勉強なんてできなくても、ただ単に「生きていく」上で大きな問題になることはないのかもしれません。けれども現実は、「勉強ができる子」ほど「高校選びの自由度」は高く、その後の人生においての選択肢も大きく広がっていくのです。たかが「勉強ができるだけ」なのに、「できない子」よりも可能性が高まることは、果たして単なる「不公平」という言葉で片づけてもよいのでしょうか?

 

「仕方がない、かったるいけど、勉強も頑張ってみるか!」

 

自らが「必要」だと感じて「机に向かう」こと、この姿勢さえ醸成できれば「しめたもの!」なのです(笑)。ほんの少しの「主体的な学習」が、親から「勉強しろ!」と叱責されて、渋々机に向かう「勉強もどき」よりも格段に「質が高い」という事実を、ぜひ認識していただきたいと願うばかりなのです。

もちろん誰だって「楽」をしたい、かく言う私だって例外ではありません(笑)。それぞれの個性や特徴にあった「効率的な学習」について、全力で指導させて頂くつもりです。少しでも「やる気になった!」と感じている人は、現在の学習レベルなど一切気にせずに、一度ご相談いただければと存じます。

 

「自ら机に向かう姿勢を醸成すること」、新年早々、なかなかに高尚な「目標」ではありますが(笑)、私が考える「究極の目標」は、まさにこの点にあるのです。「自ら学び、「わかる」喜びを実体験してもらうこと」、決して簡単な目標ではありませんが、私にとって「絶対に諦めることができない目標」でもあるのです。皆さんの「覚醒」を大いに期待しています。

 

頑張りましょう!