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エフォートアカデミー塾長日記

静岡県三島市の学習塾「エフォートアカデミー」のブログです。
塾での出来事やお知らせを、私塾長の鈴木がお知らせいたします。
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私立高校の受験まであと僅かとなり、受験生は現在入試問題の「過去問」に取り組んでいるケースが多いのです。時期が時期なだけに、当然と言えば当然なのですが、「過去問にさえあたっておけば安心だ!」という風潮には、私個人としてはやや疑問を抱いてしまうのです。

 

「過去問」をこなすことの効用は、まずは出題形式に慣れるということが挙げられるでしょう。どのような出題内容なのか、たとえば英語ならばリスニングに加え、長文読解は何問設定されるのか等々の形式が、複数年の「過去問」をこなすことで見えてきます。また、昨今はマークシート型の解答方式を採用する学校も増え、記述式とは異なり注意を払わなければならない点も確認できます。上述のような点は、まさに常識的に考えた上での「過去問消化の効用」と言えるでしょう。

 

一方で、高校や大学の「出題形式」や「出題傾向」は、ある年度に突然大きく変更されることも決して珍しくはありません。学校の先生や塾の先生が、

 

「今年は必ずここが出題される!」

 

などと声高に叫ぶ様子が毎年散見されるのですが(笑)、これ、もしその分野が全く出題されなかったら、どう責任を取るのでしょうか?また、そんな「戯言」を、あたかも新興宗教の教祖の「お言葉」の如く、何の疑いもなく信じてしまう受験生本人や、その保護者の「神経」が、私には信じられないのです。「過去問」はあくまで「過去問」であり、何事においても「盲信」は禁物であるということを肝に銘じるべきだと、私は考えているのです。

 

くどいようですが(笑)、過去問はあくまで「事前演習」であり、言わば「練習の一環」なのです。であるならば、「本番を想定」して取り組むようなことはせず、ちょっと「圧」をかけて取り組むべきだと、個人的には考えています。当塾では「50分」と指定されている「過去問」であれば、「40分」で解くように塾生には指示しています。この「たった10分」の余裕が、本番での余裕を生むと思うのです。時間的なゆとりを造り出すべく研鑽を積むことが、文字通り「本番のための練習」になることを、私は信じて疑いません。

 

よくよく考えてみれば、数年前までに出題された内容が、今年そのまま出題されるはずがないのです(笑)。取り組み方によっては実に有益な「過去問」ではありますが、過度に「過去問に依存」することは、少なからず危険を孕んでいるということをしっかりと認識すべきだと思います。

 

それにしても、毎年嬉々として「出題予想」を喧伝する輩が後を絶たないのですが、彼らは「指導者」というよりも「生粋のギャンブラー」と言った方がよいのではないかと思ってしまいます(笑)。せめて一度口に出したことへの「責任」は取るべきかと。

 

頑張りましょう!

受験生の皆さんに、進学にあたってぜひ考えていただきたいのは、進学先の「実情」についてです。いまさら何をとご指摘の方もいるかもしれませんが、今なら「まだ間に合う」ギリギリのタイミングだと思うのです。

 

受験において最も重要なのは「一貫性」だと、私は考えているのです。親が我が子を「のびのびと育てたい!」と考えるのはある意味で当然ですが、一方で「少しでもいい学校(偏差値が高い学校)へ行きなさい!」とハッパをかけるのもまた「同じ親」なのは、何だか不思議な感じがします。むしろ「学歴偏重主義」の親が、我が子に「学歴こそ人間の価値だ!」と誤った価値観を植え付けて、とにかく勉強三昧の日々を送らせる方が「効率がいい」ことは確かなのです。

上述のようなケースはちょっと極端な例ではありますが(笑)、何事も「一貫している」方が合理的であることは間違いがないのです。受験において求められるのは、その多くは「学力」であり、「どの程度の学力なら合格できるのか?」という事実は比較的明確なのです。実に単純な話なのですが、その「合格ライン」まで学力を伸ばせば、それで「万事OK!」であることは、誰だってわかっていることなのです。

現在の受験制度が「学力」によって左右されている以上、それに特化して頑張るのが「受験対策」に他ならないのですが、どうもその「重要な論点」を理解されていない親御さんが少なからず存在しているようです。

 

前述したとおり、子供にとってあまりにも過酷過ぎる「受験」について、我が子を「のびのびと育てる」という重要な論点から顧みれば、「極力避けたい」と考える「親心」は、それはそれでひとつの価値観です。その価値観に立てば、また「別の道」も見えてくるのではないでしょうか?一方で、我が子をのびのびと育てたいなどと言いつつも、一方で「学歴は重要だから!」などと半ば強引に我が子に「受験勉強」なるものを強いる親の矛盾した行動は、当の子供本人が大いに困惑するでしょうし、いつの日か大きな「しっぺ返し」が来るのではないかと危惧しているところです。

 

かように「進学」にあたっては、何もかもが「想定通り」「理想通り」となるはずがなく、だからこそ進学にあたっての中長期的な「青写真」を自分なりに描いておくことが何よりも重要なのです。受験における「学力」の必要性は、将来「のびのびと学ぶ」ための「最低限の知識」を得るためのものなのかもしれません。

 

偏差値を上げることは簡単ではありませんが、「これだけできればまず合格間違いなし!」という基準は、意外と単純なものなのです。

 

頑張りましょう!

先日、こんな記事を書きました。

今や「長男」から「三男」に成り下がった「元・長男」(笑)が、新春からの「旅立ち」を控え、独り暮らしで使用する家電を準備しているという記事でした。

 

日々溜まっていく家電を目の前にし、なぜか母がポロポロと泣き出してしまったのです(笑)。

 

「三男だから仕方がないけど、出ていってしまうと何だか寂しいね。」

 

あまりにも子供のようにワンワンと泣き出すものですから、「元・長男」も困ってしまい(笑)、

 

「独り暮らしだけど、月に一回くらいは帰って来るから!」

 

その場しのぎでそんな風には言ったものの、やっぱりこの期に及んでもなお「三男」扱いされている「元・長男」は、どこか納得いかない表情でありました(笑)。

 

そんなデタラメな日々を過ごしていたのですが、今朝早く私のスマホに着信がありました。昨夜私は4時過ぎ(もはや朝ですが(笑))に就寝し、午後からの授業に備えるべく睡眠をとっていたのですが、着信があったのが朝8時頃、何事かと確認したら、母の「宗教の友達」からの着信でした。

母が自宅の固定電話にことごとく対応してしまい、いくつもの必要のない保険や通信販売を次々と契約してしまっていたため、自宅の電話はすべて私の教室に転送設定し、電話自体を撤去してしまっています。この「宗教のお友達」には何度も事情を説明し、お誘いについては丁重にお断りしていたのですが、どうやらその真意を理解できていなかったようです。

 

「今から迎えに行きます!」

 

何らかの行事があって、そのために迎えに行くということを「当日の早朝」に知らせてくること自体が異常だと思うのですが、何とその電話の後に、直接我が家にやって来たのです。

たまたま在宅していた妻から連絡を受け、すぐに駆け付けたのですが、当の母はすでに奴らのことをはっきりとは覚えていなかったらしく、何とか事なきを得ました。以前であれば、このようなお誘いがあれば、

 

「何が何でも行く!」

 

と駄々をこねていた母ですが、こちらが拍子抜けするほどあっさりしており、私が家の中に入っていろと告げると、実にあっさりと部屋に戻り、ストーブに当たりながらテレビの続きを見ていたのでした(笑)。

この「宗教のお友達」は、昨夏、認知症が発症し始めた母を強引に連れ出し、集まりが終了した後に「放置」して、母を「殺しかけた」奴らです。宗教自体の性質は私にはよくわからないのですが、少なくともおかしな慣習などはなく、「会費」も常識的な価格で特段問題ないのですが、一部の狂信的な信者の行動が、この宗教自体の評価を貶めているような気がしてならないのです。そもそも何度注意しても全く自らの行動を改善しようとしない、母よりも年上である小奴ら自身が、もはや軽度の認知症ではないかと、個人的には疑っているのです。その旨は既に然るべき機関に「通報済み」ではあるのですが、「迷惑行為」のみで対応してくれるケースは稀であり、家族で頭を痛めているところでした。ただ、母自身が既に奴らとの「記憶」が薄れているということがわかったこと自体は、実によかったと安堵しているところです。

 

認知症による母の「奇行」は確かに問題ではありますが、実のところこの手の問題の「本質」は、地域社会の「無理解」ではないかと、ふと感じた実に慌ただしい木曜日の朝なのでした(笑)。

 

頑張りましょう!

学生たるもの「勉学」が基本であることは言うまでもありませんが、人生の中で最も輝く時期である青春時代に、勉強以外のことに情熱を傾けることもまた大切なことだと私は考えるのです。

 

例えば、青春のすべてを注ぎ込むに相応しいと思えるものが「スポーツ」であるならば、他の誘惑には目もくれず、とにかく頑張ってみることが大切なのです。一方で、前述したとおり学生の本分はあくまで勉学であるので、決して「スポーツバカ」になることは許されないということも心にとめておかなければなりません。

 

勉強はもちろんのこと、勉強以外の「情熱を傾けるべき対象」についても、精一杯取り組むことがまさに「青春」そのものではないかと、私は考えているのです。どちらかひとつだけを追い求めるのではなく、「どちらも頑張る!」という大谷選手張りの「二刀流」を目指すべきでしょう。

 

皆さんは「若者」なのですから、少々の「勇み足」や「失敗」は大いに許容される「特権」を持っているのです(笑)。好奇心の赴くまま、何にでも「いっちょかみする」主体性と、「結果」を恐れない「勇敢さ」さえ持ち合わせていれば、それで十分過ぎると言えるのではないでしょうか?

あまり良い言葉ではないのかもしれませんが、若いからこそ健全に「強欲」であり、「狡猾」であってほしいと、強く願っております。勉学にも、その他のことにも情熱を注いで取り組むことは生易しいことではありませんが、誰にとっても「1日は24時間」しかない中で、いかにしてライバルたちより効率的かつ合理的に鍛錬を重ねられるのか、という「ちょっとズルい思考」を常に働かせて行動するだけでも、きっと「健全に賢くなっていく」きっかけになるのではないかと思うのです。安易に「自分が好きなものや興味があること」以外を切り捨てる行為は、自らの可能性まで切り捨てる結果を招きかねないという事実をしっかりと認識すべきでしょう。

 

スマホをいじるのが何よりも好きならば(笑)、スマホをいじる時間を確保しつつ、いかにして勉強時間を確保するのか、また短時間の勉強で効率よく学べるために何をすべきか、そんな一見狡猾な思考を巡らせることこそが、知恵を膨らませるヒントになるのではないかと思うのです。

 

目指すべきは「好きなこと、興味があること」だけでなく、「二刀流」「三刀流」であるべきなのです。そして最も悲しいのは、何ひとつ「目指すべきもの」がない、無気力な人間なのではないでしょうか?

 

若者はある意味で「強欲」であるべきだと、私は考えているのです。

 

頑張りましょう!

世の中には「運」だけには抜群に恵まれていて、特に苦労という苦労をしないままで「人も羨むような」生活をしている人が、おそらくは一定数はいるのではないかと思います。ただ、そんな「恵まれた人」はほんの一握りであり、大多数の人は辛苦を重ねながら「何とか生きている」状況であることも、また事実なのです。

 

およそ物事というのは、華々しい「表の面」よりも、そこに至るまでの過程や、努力の軌跡である「裏の面」まで見抜いてこその「本質」であり、そこにこそ「人間ドラマ」とも言うべき実に興味深いノンフィクションが隠されているのだと、私は考えているのです。私は「元野球少年」でしたので、よく野球の例を出すのですが、大谷翔平選手がただの「大柄な人」に終わらずに、世界有数のスポーツ選手となったのは、親御さんの躾と教育、アマチュア時代の指導者による適切な指導に加え、ご本人の弛まぬ努力によって実現されたことは言うまでもないことです。「ある日、ぽっと生まれてきた「天才」」などという漫画みたいな出来事が、現実の世の中で「あるはずがない」のです。

 

一方で、他人の「成功」があたかも「必然」であると誤認し、「きらびやかな面」だけが「すべて」だと壮大な勘違いをしている人が散見されます。大谷選手の華麗なプレーに「憧れる」心は極めて健全ですが、彼がその「類稀な素質」だけで超一流選手にのし上れるほど、「プロの世界」は甘くないという事実を、あまりに軽視している人が多過ぎるような気がしてならないのです。勉強においてもスポーツにおいても、「ライバル」の成功は、単に「運が良かった」というだけで片づけられる問題ではないということを、「実に凡庸な我々」はしっかりと理解する必要があるでしょうし、成功の「裏」にある「真実」を、きちんと見極められる能力が生きる上で最も重要であることを知るべきなのかもしれません。

 

「成功した人」を単に羨んだり、妬んだりするだけでは意味がないですし、何の生産性もないのです。とりわけ「勉強」における「成功者」は、必ず「他人から見えないところ」で人知れず努力を重ねているのです。

 

「あの子はぜんぜん勉強していないのに、テストはよくできる。ズルい!」

 

などと平気で言う人はよ~く考えて頂きたい(笑)、そんなことが「あるはずがない」のです。物事の「上っ面」だけ見ている人は、ついぞ「本質」というものを見ることが叶わない、実に気の毒な人だと、私は考えているのです。

 

まあ、「運だけがいい人」は、確かに羨ましくはあるけれど(笑)。

 

頑張りましょう!

昨日、「共通テスト」が終了したようです。相変わらず「カンニング」で捕まったアホな「受験生もどき」が今年も発生したようですが(笑)、概ね順調に試験は実施されたようで、それはそれでよかったと思います。

 

ところでこの「共通テスト」ですが、本当に必要な制度なのか、私は従前より疑問に感じているとことが多々あるのです。

「センター試験」時代からの「悪い慣習」と言いましょうか、あくまで大学進学のための試験であるにもかかわらず、ちょっとおかしな事態が起きていました。学校によっては「半ば強制的に」全員を受験させるようなところもあるようで、例えば「私立大学単願」志望の受験生の場合、必ずしも受験に必要だとは思えない科目まで受験を強いられるケースも珍しくはなかったのです。

もっと酷いのは、商業高校や工業高校などの実業高校の生徒までなぜか受験を強いられているケースがあったことです。既に就職が決まっている子まで強制的に受験させられていることもあったようで、いったい何のため、誰のための試験制度なのかと疑ってしまうほどなのです。

 

さらに言えば、この時期には既に総合型や推薦等で進学先が決まっている受験生も多く、そんな子たちには全く「意味がない」受験制度になってしまっているのです。ひとつの受験会場・受験教室において、「ガチで」試験に取り組む子がいる一方で、あたかも「遠足気分」で友達との会話を楽しむ子たちが「同居」する試験なんて、いったい何の意味があるのでしょうか?「ガチで試験に取り組む子」も「そうでない子」も、双方にとって実に不幸な試験制度ではないかと思うのです。

 

個々の学校の対応を見ると、「センター試験」時代と比べ、受験に対する「自由度」は多少緩和されたようですが、それでもまだ無理に受験を強いる教員が少なからず存在しているようで、「適正な入試の在り方」という論点から見れば、私としてはかなり大きな問題だと捉えているのです。

 

現状の「共通テスト」が、現状の如く全国規模で、かなりの時間的・人的・経済的リソースを割いてまで実施すべき制度なのか、今一度考え直す機会が到来しているような気がしてなりません。大学自身が「望ましい学生」の獲得を目指すのであれば、それこそ各大学が独自の選考方法を模索・ブラッシュアップしていった方がよほど「効率的」ではないかと、ふと考えてしまった次第です。

 

少なくとも、「必要な人」が、「必要な時」だけ任意で受験できる制度にすべきではないかと、何となく感じた月曜日の朝なのでした(笑)。

 

まあ、これもひとつの「壮大な無駄」だと思うんだよね(笑)。

 

頑張りましょう!

先日「長男」を見事に「廃嫡」され、「三男」に「格下げ」された「元長男」ですが(笑)、今春からは自宅から離れた場所で働くこととなり、現在「独り暮らしに必要なもの」を家族で物色中なのです。

 

本人を含めた家族の「共通認識」では、新生活にあたってまずは「贅沢をしないこと」、家電や家具などは「既にあるもの」や「中古品」を活用し、極力「新品」を購入しないこととなっています。もっとも、我が家のような「貧乏一家」においては、他に選択の余地がないとも言えるのですが(笑)。

 

ただし「中古品」は当然「一品モノ」であり、安価で質の良いものはすぐに誰かにとられてしまいます。「これは!」という出物があれば、すぐに行動に移さなければなりません。そんな折、今朝の6時頃に某掲示板において「理想的な出品」がされているのを発見、急ぎ私一人で神奈川県まで出向いたのでした。

今回購入したのが洗濯機と冷蔵庫、おそらくは「三男」と同じく大学生だった子が卒業を控え、「独り暮らし」を解消した折に不要になった家電のようです(女の子が使っていたとのことでした)。製造年月日はちょうど4年前、女の子が使っていただけあって、とてもきれいな状態で、2台合わせて「津田梅子」の価格(笑)、まさに「破格」でした。

 

電子レンジは私が教室で使っていたもの、炊飯器も私が使っていたのですが、糖尿病のため米が食べられなくなり不要となったもの(笑)。その他の大型家具としては、「ベッド」と「座椅子」が欲しいとのことだったのですが、いずれも、

 

「あるよ!」

 

と返答したら、まるでこの人のようだと笑われてしまいました(笑)。

木村拓哉さん主演の「HERO」というドラマで、検事である木村さんたちが仕事の後に寄るバーのマスターさん、どんな無理な注文でも、

 

「あるよ!」

 

とたちどころに提供してしまう不思議な人、ちょうど年恰好も私に似ているかもしれません、私は髪の毛はフサフサだけど(笑)。

ベッドは三島教室に泊まり込むことになった時の「備え」のため、未使用の折り畳みベッドがあり(本人も折り畳みベッドが欲しいと言っていました)、座椅子は沼津教室で使用するつもりで置いておいたのですが、よく考えれば床に直に座ることなどあるはずがなく(笑)、以来保管したままになっておりました。まさに「あるよ!」だったのでした(笑)。

 

少しずつだけれど順調に「新生活の準備」が進んでいるのを喜ばしく思う反面、確実に「別れの季節」が近づいているのを実感せずにはいられなかった私なのでした。

 

頑張りましょう!

昨日は金曜日、授業終了後に次男と毎週恒例の「ゆで太郎」にお蕎麦を頂きに行きました。もはや私と次男にとって、これだけが1週間の「唯一の楽しみ」になっています(笑)。そこで、ちょっと面白いことがありました。

 

私たちが食券を買う直前に、10人ほどの集団が食券を求めていました。券売機は2台設置されているので、私たちは空いている方の食券機で食券を購入し、彼らより早くオーダーしたのですが、彼らはどうやら同じ会社の同僚同士だったらしく、お揃いのスタッフパーカーを着用し、背中にはご丁寧に会社名までプリントされておりました。

 

オーダー自体は私たちの方が早く、彼らのうち数人はまだどの蕎麦にしようか選んでいる段階だったので、私たちが席に座って出来上がりを待っている時にも、まだ券売機の周囲をウロウロしていたのです。

数分して私の番号が呼ばれ、お蕎麦を取りに行ったのですが、なぜか私のお蕎麦がないのです(笑)。ふと見ると、前述の集団の中の一人が、嬉々として私の大切なお蕎麦を奪っていったのでした(笑)。

 

きっと「極めて頭が悪い」んだと思うのですが(笑)、受付に食券を提出してすぐにお蕎麦が受け取れるシステムだと思っていたらしく(笑)、何の確認もしないまま私のお蕎麦を「強奪」したらしいのでした(笑)。私のみならず、お蕎麦を作っていた従業員の方々も困惑顔で、私から事情を説明する前に、

 

「大変申し訳ございません、すぐにお作り致します!」

 

と実に丁寧にお詫びされてしまいました。いやいや、あなた方は全く悪くないんだけど(笑)。

 

その後の展開が実に面白かったのですが、私自身は「こんなアホもいるよね~」くらいの感覚で何とも思っていなかった一方で、彼らの中の数人は、

 

「ちょっとおかしくない?」

 

ということにすぐに気づいたようです。そりゃそうです、他の人は注文から10分程度は待たされているのに、一人だけ「即時提供」されているのですから、違和感を感じない方が不思議なのです(笑)。私のお蕎麦を「強奪」した本人も、お蕎麦に手も付けられず、ただただ同僚の皆さんのお蕎麦が到着するまで下を向きながら待っている(時折こちらをチラチラと見ながら)様子が、何とも「マヌケ」に見えました(笑)。入店時はうるさいくらいの大騒ぎだったのに、今や全員「ヒソヒソ話」になっているのも実に滑稽に見えてしまいました(笑)。

 

誰にでも「間違い」はあるもので、その点は仕方がないことであり、私自身もちっとも怒ってはいないのですが、デカデカと会社名がプリントされているパーカーを着用している集団が、意図的でないとはいえ、飲食店で他人様に迷惑をかけてしまったのであれば、ひと言お詫びした方がいいのではないのかな~と、ちょっと考えてしまいました、まあ、面白かったからいいんだけど(笑)。

 

「まったく、これだから「Z世代」は!」

 

そんな風に怒っていたのは、実は私ではなく次男の方だった、金曜日の夜なのでした(笑)。

 

いや、次男もまごうことなき「Z世代」だと思うんだけど(笑)。

 

頑張りましょう!

本日は比較的時間に余裕がある「はず」だったのですが、授業前にまたしても「とんでもない」ことが起きました(笑)。

 

自宅に妻は居たものの、母が妻の目を盗んで密かに「外出」してしまい、急遽長男と妻が捜索に出るという「非常事態」がありました。財布に仕込んでいたGPSによると、いつものパターンとは異なり、かなり遠くまで歩いて行ってしまっているようで、家族の間には少なからず緊張感が走りました。

 

現状では私のスマホにしか母の「現在地」は表示されず、加えてAirtagのため、リアルタイムの情報ではなく、早くても数分おきの情報のため、探し出すのにかなり難儀しました。ようやく自宅から数キロ離れたスーパーで発見し、事なきを得た次第です。

 

母曰く、「食べるものが何もない」とのことですが、連日私たちの目を盗んではスーパーに出かけ、日持ちがしない生ものや総菜ばかりを買ってくるので、家族としてはその処分に頭を痛めているのです。しかも買ってきたものはすべて「自分のため」ではなく「家族のため」だそうで(笑)、母自身は一切口にしないのです。口にしないどころか、

 

「そんなもの、私は食べられるか!お前たちのために買ってきてやったんだ!」

 

というい信じられない口ぶりで、家族のストレスもマックスなのです(笑)。

先日、私から(家族の中でも、私の注意は比較的聞く傾向が強いので)かなり強く注意し、その場では理解したように見えたのですが、その「効果」は3日と持ちませんでした。だからこその「認知症」なのかもしれませんが、このままでは仕事や生活全般に影響が出てしまいます。何とかしなければなりませんが、現状において効果的な対策は思いつかないというのが実情なのです。

 

今のところ、迷惑が及ぶのが「家族限定」なのが唯一の救いではあるのですが、今後さらに病状が悪化すれば、他人様に迷惑を及ぼすのは必須です。主治医やケアマネージャーさんとよく相談しながら対策を講じていかなければなりませんが、とにかく認知症でありながら、体だけは丈夫だということが、これほど大変だとは思いもせず、実際に経験してみて「初めて知る」ことがあまりにも多いのです。

時々数年前の事をまるで昨日のことのように嬉々として話し出す母の姿を見る度、「出口が見えない問題」にいかに対処していくべきか、ただただ頭を抱える私なのでした(笑)。

 

もう冷蔵庫には物を入れるスペースが残されていないんだよ(笑)。

 

頑張りましょう!

私は高校時代、野球に明け暮れていましたが、日々の練習の中でも極めて厳しい「躾」を施されてきました。

世が世なら、「虐待」や「パワハラ」と糾弾されてしまうかもしれませんが(笑)、一方で「合理的理由」もあったように、今更ながら感じているのです。

 

当然のことながら、「本番」である試合においては、いつも以上に「緊張感」が高まるものです。それでいて、「いつも通り」いや「いつも以上」のパフォーマンスを発揮しなければ、試合に勝つことはできないのです。そのためには日々の練習から、「本番を想定した備え」をしておかなければならないのは当然のことなのです。

 

受験に関しても同様で、本来持っている「能力」がテストにおいてきちんと反映されていない(テストが苦手)と感じている人は、日々の学習への取り組み方において、大きな問題があると考えるべきなのかもしれません。

言うまでもなく、入試「本番」ともなれば、これまで感じたことがないような「緊張感」に苛まれることになるでしょう。そのような状況において、いかに実力を発揮することができるのか、そのための訓練を重ねていたかどうかが「モノを言う」ことになるのです。

 

日々の学習において、単なる「ルーチンワーク」だと捉え、イヤイヤながらも決められた時間だけ机に向かう、という姿勢だけでは、いつまでたっても「本番に強い」メンタリティーは醸成されないと、私は考えるのです。

演習問題ひとつ行うにしても、「標準解答時間」が「50分」であれば、「40分」に短縮して取り組んでみるとか、どんな事情があるにせよ、一日20個の「新出英単語」を覚えなければ、その日の勉強は終われない等々、自らに「圧」をかけ、ある種の緊張感をもって取り組むことが、「本番を想定」した場合、極めて重要な論点になると、私は考えているのです。このような小さな積み重ねのひとつひとつが、入試や定期テスト等の「緊張した場面」において、自らの実力を遺憾なく発揮できる素養となるのであり、「本番に強い」競技者や受験生と成り得るのだと思うのです。

 

「のびのび楽しく!」も大いに結構、ただし、「本番」においてのびのびと実力を発揮できるのは、日々の「緊張感」の上に成り立つということを忘れてはなりません。換言すれば、誰もが平常心でいられないような環境においても、きちんと持てる「能力」を発揮できることこそ、「有能」だと言えるのではないでしょうか?

 

日々ダラダラと、何の緊張感もなく過ごす人が、「本番」の時だけ「実力が出せない!」などと言っても、そんなの「当たり前」なのです。世の中そんなに甘くはありません(笑)。

 

頑張りましょう!