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エフォートアカデミー塾長日記

静岡県三島市の学習塾「エフォートアカデミー」のブログです。
塾での出来事やお知らせを、私塾長の鈴木がお知らせいたします。
エフォートアカデミーのホームページは、
http://www.effort-aca.com
です。よろしくお願いいたします!

本日は「旗日」ですが、塾は通常通り授業を実施いたします。

 

祝日になると、我が家にはちょっと「頭の痛い問題」が発生します。他ならぬ「母」についてのことです(笑)。

 

母はとある宗教に「ハマって」いて、その宗教は特にお金をむしり取ったりする悪質なものではないので、家族としては「どうぞご勝手に!」というスタンスなのですが(笑)、問題はその宗教自体ではなく、母の「お友達」なのです。

 

母は宗教関係で仲良くしている友人が2人ほどいるようなのですが、2人ともかなりお年を召した方で、母よりも年上だそうです。その「お友達連中」が、休日になると母を誘いに来るのです。

何かあればすぐに駆け付けられる範囲でお茶でも飲んでいる程度であれば目くじらを立てる必要はないのですが、80歳を優に超えた老婆3人が車に乗ってまあまあ遠くまで出かけるのですから、私としても黙ってはいられません。先月母が一時的に行方不明になり、私が駅で偶然保護した後に「熱中症」で死にかけた話をこのブログで書きましたが、その際も母を誘い出したのは「こいつら」でした(言葉が汚くて恐縮ですが、あえて「こいつら」と書かせて頂きます)。

 

私も妹も「こいつら」に直接話をしているのですが、まさに「暖簾に腕押し」状態でホトホト参っているところなのです。

 

「母は認知症で、一度外出すると自宅まで帰って来るのが難しくなってしまう可能性が高いのです。お誘いいただくのはありがたいのですが、車を使わないで、もう少し近場で集まることはできませんか?」

 

「あらあら、〇〇さん(母のこと)はお子さんたちに愛されているんですね~」

 

まるで話にならず、軽い殺意さえ覚えてしまいました(笑)。

 

この「ばあさん」たち、一人は完全なる「独居老人」で、もう一人は仕事を持つアラカンの娘と二人暮らしで、昼間は暇を持て余している人、言わば二人ともに「無敵の人」なのです。まともな家族がいれば、当たり前に心配することを、小奴らはまるで理解できていない、気の毒な老人たちなのです。

 

どこでどう運転したらこんなふうに傷がつくのだろう?というようなオンボロ車で、意気揚々と母を迎えに来る老人たちを見て、「何か起きてしまう」前にこいつらを何とかしなければならないと、強く感じた火曜日の朝なのでした。

 

一人でも手一杯なのに、「うっすらボケた」他人の老人2人の面倒が見れるほど、私は暇ではないのです(笑)。ちょっと「強め」に警告しないと、理解して頂けないのかもしれませんね。

 

頑張りましょう!

次男の通学用の原付を修理に出したことは先日ブログにも書きましたが、そうなると次男は駅までバスで向かわざるを得なくなり、バス代もかかります。私か妻が比較的手が空いている朝については、次男を駅まで車で送ることが多々あるのです。

 

今日も私がたまたま手が空いていたので、次男を駅まで送ることになりました。ただ単に車で送るだけなのですが、車内で次男といろいろとおしゃべりすることが、私にとっての数少ない楽しみでもあるのです。

今朝はちょっと早く到着し過ぎてしまい、時間を潰すために駅近くのコンビニの駐車場で「コーヒータイム」と洒落込みました(笑)。

二人でコーヒーを頂いていると、ふいに次男が、

 

「あの子、同じ大学、同じ高校の同級生だよ!」

 

と私に教えてくれました。次男によれば、その女の子は非常に勉強ができた子であった一方で、ご家庭の経済状況が芳しくなく、学校の許可を得た上で3年間アルバイトを続けていた頑張り屋さんだったそうです。

学校側としては、非常によく勉強ができる子だったので「国公立大学」に進学するように強く進めていたそうですが、彼女が選択したのは次男と同じ大学でした。はっきり言えば、次男が通う大学は、

 

「地元の国公立大学に学力が及ばなかった子が進学する私立大学」

 

という位置づけで、学校としてはせめて国公立大学と私立大学を併願してほしかったようなのですが、極めて聡明な彼女はあえて私立大学を専願したそうです。次男が通う大学には「特待生制度」があり、成績優秀な学生には授業料全額免除の特典があり、彼女は見事特待生として採用されたとのことでした。こうなるともはや国立大学よりも経済的な負担は少なくて済むのは確実であり、私から見ても彼女の選択は実に合理的であり、それこそ学校がとやかく言える問題ではないのです(笑)。貧しくても頑張る若者には、ぜひ手を差し伸べてあげてほしいと、私自身も強く願っているところなのです。

 

「学校に無断でアルバイトしている奴が多かったけど、あの子はちゃんと学校から承認をもらって、公認でアルバイトしていたんだよ。ちなみに俺も先生から「学校に断らなくても、いつでもアルバイトしていいよ」って言われてた。奨学金貰ってたし、うちの経済状況を先生たちみんなで共有していたみたい。」

 

おいおい(笑)、倅からの初めての告白に、ちょっとびっくりした月曜日の朝なのでした(笑)。そりゃ貧乏なのは事実だけれど、プライバシーってものはないのかい!と叫びたくなってしまった、実に爽やかな朝なのでした(笑)。

 

頑張りましょう!

年齢を重ねるにつれて、確実に「体力」が減退していることを実感せずにはいられない瞬間が多々あります。これは私に限らず、どなたでも感じることだと思います。

 

15年ほど前までは、1日7時間授業に立って、その後事務仕事をして朝方帰宅という生活を続け、何とかやってきましたが、今そんな無茶をすれば命を落としかねません(笑)。そんな無謀なことをしていたから、今や「成人病のデパート」のようになってしまった私なのですが(笑)、今考えても「若さって、偉大なんだな~」と、ぼんやりと感じているところなのです(笑)。

 

ウィークデーの勤務については、さほど無理なシフトを入れていないこともあって、現在では「激務」とは程遠い、現在の私でも十分に対応可能な仕事量に調整しているつもりですが、一方で仕事が休みである週末には、一気にスイッチがOFFになったように、どっと疲れが出てしまい、少々困っているところなのです(笑)。

 

基本的に睡眠時間が短い私なのですが、その「しわ寄せ」が週末に一気に来ている感じで、週末に一気に「眠気が襲う」感じがします。本当にあと少し眠りが深ければ、そのまま気持ちよく「昇天」できそうな感じで、自分でも少し怖い気がします(笑)。

とはいえ、月曜日になれば、なぜか元の「ウイークデーモード」に戻っており、それなりに業務をこなしています。そして再び週末を迎えると、同じような「スイッチOFF」モードに逆戻りという生活を、ここ数年継続している感じです。

 

もっとも、週末においても、例えば母の通院に付き添ったり、昨日の様に次男の原付の修理に出向く等、我が家にとって「重要なこと」がある週末については「シャキッと」しているのです(笑)。ここ最近の週末における「お疲れモード」は、もちろん私自身の加齢による体力減退もあるのですが、一方で「気持ちの問題」も多分に影響を及ぼしていることは否定できない事実だと思うのです。

 

若い頃の様に、全てをこなすことが事実上難しくなってきた現状において、知らず知らずのうちに自分自身の中で「優先順位」をつけ、「やらなきゃいけないことはやるけど、ダメな時は完全OFF!」という回路が稼働しているのではないかと思うのです。これはひとつの「生き延びるための術」だと言えなくもないかもしれません。

 

非常に気だるい日曜日の夜なのですが、きっと数時間後は何事もなかったように仕事に向かうのでしょう(笑)。「当たり前の日常」に深く感謝するとともに、何事も「気持ち」の問題だと改めて痛感した日曜日の夜なのでした。

 

頑張りましょう!

本日は土曜日、先週来より調子が悪かった次男の通学用原付の修理をお願いするため、近くのバイクショップまで出かけてきました。

 

以前こちらのブログでもご紹介しましたが、今年の5月頃にそれまで私が乗っていた軽自動車が車検を迎え、かつ母が認知症を患い、足の具合も良くなかった(一時的に車椅子が必要)ことも重なって、車椅子積載可能なスロープ付きの軽自動車を購入していました。(もちろん中古だけど)

母は認知症は酷くなる一方であるものの、足の具合は良くなって、現状では常に車椅子を使用する必要はなくなりましたが、今回原付を運ぶにあたり、このスロープ付きの軽自動車が非常に便利で、大変助かりました。原付を積載しても、スペース的にはまだゆとりがあり、運転する私はもちろんのこと、次男も原付を抑えながら着席可能、限られたスペースを極限まで有効活用している感じです。恐るべしNーBOX+(笑)。

バイクショップで見てもらったところ、まあまあの修理金額がかかるものの、問題なく修復可能とのことでひと安心、帰り際にちょっと寄り道をしたのでした。

いつもの喫茶店で、次男は「コーヒーゼリー」を注文、私は「アイスウインナー」にしたのですが、明らかに「コーヒーゼリー」の方が美味しそうで、少々後悔しました(笑)。

 

お茶をしながら次男と話した中で、高校から一緒だった大学の同級生の話題になりました。

大学自体の難易度を問わず、どの大学でも一定数の「落伍者」が発生するはずです。あえて「落伍者」という厳しい言葉を使ったのは、規律に縛られた高校生活から、基本的に個人の裁量が許される大学生活に移行するにあたり、あらゆる意味で「箍が外れて」しまうケースが散見されるからです。「自由」が与えられている以上、勉強するもしないも個人の「自由」、「最低限の義務」を果たすか果たさないかさえ「自由」であり、義務を果たさなければ「退場」させられてしまうのは社会の常識であり、それは誰かに強制されたのではなく、自ら「退場」を選択したことに他ならないのです。

 

例えば学生であり、かつ有能な役者でもある人が、学生生活と役者という仕事の両立が極めて難しく、自らの人生の目標や収入についてしっかりと考えた結果、「学生」であることを断念する決断をしたのであれば、それはそれでひとつの「前向きな決断」だと言えるのかもしれません。一方で、ただ単に「自由の風」に吹かれるのが心地よく、その心地よさだけを専ら追い続けるような怠惰な生活を続ける選択をすることは、単に「箍が外れてしまった人間」という誹りを免れることはできないでしょう。

 

いや、それでも考えようによっては、そんな「落伍者」を「選別」するために大学という組織が存在しているのかもしれません。「自由」を謳歌するには、必ず「義務」の裏付けがあるということを、次男にもしっかり理解してほしいと強く感じた土曜日の午後なのでした。

 

頑張りましょう!

昨今では学校においても「多様性の尊重」などと、大層立派なお題目を唱えているようですが、現実社会においてはいまだいわれのない差別や偏見が蔓延っているのが実情なのです。

 

当塾では学習上少しだけ問題を抱えている子、換言すれば「個性溢れる子」をこれまで何人もお預かりしてきましたが、そのような子たちに対する世間の目は、いまだ差別意識と偏見に満ちた、言わば人間の最も醜い有り様を投影したような扱いを受けることが多々あるのです。

私は常々、塾での指導は子供たちとの「戦い」だと言ってきました。その真意は、何も本当に「拳を交える」訳ではなく(当たり前ですが)、そんな子供たちにとっては極力厳しく対応することが、今後の彼らの人生にとっては重要であると考えているからです。

 

「戦い」なのですから、私は恨まれたってちっとも構わないのです(笑)。それよりも、この先の人生において、彼らに降りかかるであろう「心無い言葉や行動」に対して、決して屈することのない「生きる術」を身に着けてほしいと、強く望んでいるのです。

あくまで私自身の経験則ではありますが、ほんの少しだけ問題を抱えるお子様を持つ保護者様の多くは、我が子に対して少々過保護・過干渉の傾向が強いと感じています。私自身、同じ親としてそのお気持ちは痛いほど理解できますし、ある種の親としての「負い目」もあるのでしょう。どうしても我が子に対して厳しく接することができないケースが目立つのです。

 

一方で、子供はやがて成長して大人となり、親が死んだ後も生きていかなければなりません。誰だって一人で生きていくことはできませんが、それでも自分自身で人生を切り拓こうとする意志だけは、我が子に持たせてあげるのが「親の責務」だと、私は考えているのです。前述の通り、「個性溢れる子」に対する世間の風当たりは決して生易しいものではありません。だからこそ、せめて勉強面だけでも「厳しさ」が必要だと、私は考えているのです。

 

「多様性の尊重」の真意とはいったい何なのか?それはきっと学校で唱えている「お題目」とは異なるものではないかと、私は考えるのです。偏見と差別が蔓延する現実社会の中においても、堂々と「生き抜いていける」、そのための知恵と胆力を身に着けることこそが重要であり、その一助になれれば私にとってこれほど嬉しいことはないのです。

 

たとえ子供たちに「じゅくちょうはおっかない!」と警戒されたとしてもね(笑)。私の「仕事」はそういうことだと自覚している、金曜日の午後なのでした。

 

頑張りましょう!

少子高齢化が叫ばれて久しいのですが、我が街沼津においても学校の統廃合が毎年のように検討されているようです。

 

先日、近隣の小学校3校が1校に統合されるという話を聞きました。これまで2校が1校に統合されたことはあったのですが、3校をまとめて1校にする例は聞いたことがありませんでした。

このような「子供がいない」状況では、遠からず「学習塾」という業界も淘汰されていくでしょう。それはちょっと困ると言えば困るのですが、その頃には私自身が確実に生きている保証などある訳がないので、特に切実に考えてはいないのです(いや、考えないようにしている、と言った方が正しいのかもしれません(笑))。

 

「子供が少ない」という現状は、単純に人口構成の問題であると同時に、この国で「子供を育てたい」と考える若者が極端に少なくなっているということなのかもしれません。とりわけ、現在のような「富の偏在」が極端に進んでしまった状況においては、2人目、3人目と子供を設けること自体が経済的に厳しいという実情があるのかもしれません。いずれにしろ、若い人たちがこの国で結婚し、子供を設けて家庭を築くという、ひと昔前では「当たり前のこと」に対して価値観を感じることができず、また現実的にも難しいということなのでしょう。

このような現状に対して、何ら有効な手立てを講じることなく、文字通り「座して死を待つ」姿勢を堅持するのであれば、我が国はあらゆる面で加速度的に「収縮」してしまい、遠からず「終末」を迎えることとなります。かつては子供で溢れ返っていた「学校」が、今や幽霊屋敷のような「空き教室だらけ」になっている現状を見るにつけ、何だか末恐ろしく感じてしまうのは、きっと私だけではないと思います。

 

歪な人口構成を変えていくためには多くの時間が必要です。今まさに行おうとしている少子化対策が「効き始める」のは、早くて10年、20年後になるでしょう。手っ取り早く「成果」が現れない施策については、政治家たちも「及び腰」になりがちですが、それでもこの国の中長期的な未来を考えれば、今こそ有効な手立てを講じなければならないと、少なからず焦りを感じている私なのです。

 

当塾のような吹けば飛ぶような零細塾など、どうなっても一向に構わないのですが(笑)、やがて生涯の伴侶と出会い、「普通の家庭」を築いていこうとするであろう倅たちが、何の不安もなく「子育て」ができる社会を構築するために、私たち自身がこの問題に真剣に向き合わなければいけないと、強く感じた水曜日の朝なのでした。

 

これ以上、この国を「収縮」させないために。

 

頑張りましょう!

連日、様々な問題を引き起こしている「要介護度1」の母なのですが(笑)、先日、「一線を越える」ような出来事がありました。

 

母はいまだに「車の運転」に異常な執着があり、家中の鍵という鍵を「家探し」してまで集めては、自分の車の鍵穴に突っ込んで、どうにかして「車を運転してどこかに出かけよう」と考えているようです。ご近所さんから見れば、その姿が実に「異様」に見えるようで、先週は同じ日に両隣のAさんとMさんのおばあさんに声を掛けられ、心配されてしまいました。いつもご近所さんが「監視の目」を向けてくださっているというのは、家族にとっては非常にありがたく、今後も母を外で見かけたら声をかけてあげてほしい旨を丁寧にお願いしておきました。

 

もちろん我が家では、車の鍵は既に「母の目が届かないところ」に隠してあります。普段は長男が運転することが多いので、長男が管理しているのですが、先週はすんでのところで「大事故」につながりかねない「事件」があったのです。

 

「どうしても車を運転したい」母は、どうやら車の鍵が長男の部屋にありそうだということを「嗅ぎ付けた」ようです。我が家は二世帯住宅で、1階に住む母はほとんど2階に上がっては来ないのですが、私と次男がいない時間を見計らって、二階の長男の部屋に忍び込み、文字通り「家探し」をして車の鍵を見つけ出し、まさに出かけようとしていたようです。

その瞬間を次男が発見し、

 

「まだ車は修理中だから乗れないよ!」

 

と半ば強引に母から鍵を取り上げ、「事なきを得た」とのことでした。まさに次男の「ファインプレー」に救われた思いがしました。

 

「私の車に私が乗るんだから、ふざけるな!」

 

母(祖母)を思っての行動をとった次男に、母は心無い言葉を浴びせたそうです。

 

「何だか疲れたよ・・・」

 

親の私が言うのも何なのですが(笑)、次男は実に「心優しい男」なのです。この性分は私ではなく、きっと妻に似たのでしょう。声を荒げることなどほとんどない、温和な男なのです。母だってそんなことは百も承知のはずですが、認知症の影響とはいえ、次男に対する心無い言葉は、次男のみならず、私自身も悲しくなってしまいました。

 

「まあ、しょうがねえ、治る病気じゃないし。とりあえず食べようや。」

 

お詫びに「もつ太郎」で次男が好きな「もつ炒め定食」を奢りながら、必死に次男を慰めた私だったのですが(笑)、私たち家族はともかく、他人様にご迷惑をお掛けすることだけは絶対に避けなければいけないと、強く感じた月曜日の朝なのでした。

 

今日の「盛りそば」は、何だかちょっとだけほろ苦く感じたのは気のせいだったでしょうか?

 

頑張りましょう!

当塾はこれまで多くの中学受験生のお世話をさせて頂きましたが、誠に恐縮ながら、中にはちょっと困った保護者様がいたこともあったのです。

 

常にお子様の学習状況に関心を持ち、あれこれと「口うるさく(失礼!)」指摘して下さる保護者様は、私たちにとってはむしろ「ウェルカム」なのです。問題は、「独自の理論」を勝手に強制したり、根拠のない「噂話」を信じて疑わない方々なのです。

常に「これでよいのか?」という気持ちを持って頂くことは非常に有用です。一方で、「思い込み」や「偏見」で大切なお子様の受験勉強の機会を妨げてしまうのは、取り返しのつかない失策を招くことになりかねません。

 

中学受験においては、受験前に「志望理由書」を提出させたり、受験時に「作文」を課したりするケースが多いのですが、当然のことながらそのための指導も塾において徹底して行います。塾においては過去の例を十分に考慮し、「確かな根拠」がある指導を徹底していますが、時折そのような指導を根底から覆そうとする保護者様が散見されるのです。

前出の「志望理由書」や「作文」の例では、塾での指導をまるっきり無視して、そのほとんどを母親が「手直し」したものを提出してしまった例が実際にあり、大変申し訳なかったのですが、その塾生にはその時点で指導を中止させて頂きました。塾に打診した上での「手直し」ならまだしも、親が独断で大幅に内容を変更してしまうことは、ご家庭と塾との信頼関係さえも根底から覆されてしまうことであり、最後まで責任を持つことはできないと判断しました。

 

「もっときちんとした、「大人のような文章」を書かせたかった。」

 

とのことでしたが、「志望理由書」や「作文」はあくまで子供自身が書くものであり、大人が使う言い回しを多用すれば、

 

「いったい誰が書いた文章なの?」

 

と疑問を持たれても仕方がないことなのです。(ちなみに、この子は残念ながら不合格になってしまったと聞いています。)

 

受験生を抱える親御さんのご不安はいかばかりのものかとお察し申し上げます。そんな不安の中においては、耳ざわりの良い「噂話」を信じてしまう気持ちも決して理解できないわけではありません。

一方で、「餅は餅屋」という言葉もあるように、その道の「プロ」に任せる方が「うまくいく」ことが多いことも、また確かなのです。貴重な受験勉強の時間を、真偽不明な手法や噂話によって浪費することがないよう、ただただ祈るばかりなのです。

 

受験において、その「真偽」について迷ったら、まずは「塾の先生」に尋ねてみることを強くお勧めいたします。「思い込み」だけで突っ走るほど、「危険」なことはないのですから。

 

頑張りましょう!

以前当塾に在籍していたとある塾生は、非常に「勉強ができる子」でした。

 

5教科250点満点の定期テストでは、常に240点前後を取る子で、一度「学年2位」になってしまった時には私がびっくりするほど悔しがってしまうような、ちょっと面白い子でもありました(笑)。

そんな彼との「授業」は、「授業」というよりも、むしろ私との「勝負」と言った方が適切な感じがしたものです。

さすがにここまで「勉強ができる」と、各教科に対して私から具体的に教える論点などありません。あとはテストにおいてどれだけ「ケアレスミスを減らせるか」ということだけが課題となります。そのためには細心の注意を払うことは勿論のこと、スピード感をもって解答していくことも重要です。つまりは彼にとっては「テスト本番に則した、「本番さながらの練習」」が必要不可欠であった訳です。

 

私と彼が事前に相談していた訳ではないのですが、その授業内容はいつしか私と彼の「勝負」になっていきました(笑)。毎回の授業において定期テストや入試問題の等の過去問や、入試予想問題などを彼と私の二人分準備し、「よーい、ドン!」で二人して解き始めるのです。指示されている試験時間よりも10分ほど短めに制限時間を設定し、とにかく二人して「必死に」問題を解いていたのでした。今から考えれば、周囲で授業をしている先生や塾生からは、「何だ、こいつら?」というような目で見られていたと思います(笑)。

終了後、二人で「答え合わせ」と「解説」を実施、特に解説では問題の正誤(といっても、ほとんど正解なのですが)よりも、いかに効率よく、正確に解くべきか、という論点についてとことん話し合ったものでした。私が記憶している限り、私が彼に「負けた」ことは一度もなかったと思いますが、その度彼が歯軋りするほど悔しがった記憶だけは今も私の心の中にしっかりと残っております。私だって「教えている」立場上、そうそう塾生に「負けてはいられない」のです(笑)。

 

「塾のおっさんなんかに負けてたまるか!」

 

こんな気概が、彼の中に確かにあったのでしょう。まあちょっと失礼な奴ではありますが(笑)、その心意気は「大いに結構!」なのです。私のような「うらぶれた小さな塾のおっさん」なんか、君たちの人生の「踏み台」にして頂いて一向にかまわないのです。好きなように「利用」してほしいと、心から願っているのです。

現在は某有名大学で学生生活を謳歌している彼が、実は中学時代は私に「歯が立たなかった」という「事実」を決して忘れてほしくないということ(笑)、そして更なる飛躍を遂げてほしいと強く願った、「踏み台」たる私なのでした(笑)。

 

私はよい「踏み台」になれたのかな?

 

頑張りましょう!

以前、どこかの塾の先生が面白い試算をされていました。

 

その先生の子さんが重要な「進路選択」をする際、どの道に進めば「経済的効率」がよいのか、極めて真剣に試算されたようでした。私などからすれば、そもそも「経済的効率」だけで「人生の価値」を推し量ること自体が「アホか!」という感じなのですが(笑)、一方で多くの人たちが盲信している「一般的な(と思しき)価値観」なるものが本当に正しいのか、率直に疑問を呈する姿勢自体には大きな価値があると思います。

 

その先生のお子さんは「医学部」に進んで医者になるべきか、はたまた文系に進んで弁護士や公認会計士等の大型資格を取得して生きるべきか、どちらの方が「経済的効率」が良いのか、大真面目に試算されたようです。

その結果、

 

「国立大医学部に進学できるのであれば話は別だが、私立大の医学部の場合は途方もない学費がかかり、仮に研修が終了して「一端の医者」となって年収1500万円ほど稼ぎだしたとしても、「投資が回収」できるのは60歳前後、一方で文系に進んで首尾よく大型資格を取得した場合は、数年で収支はプラスに転じる。」

 

との分析結果だったそうです。そしてそのお子さんはその通りに人生を歩み始めることにしたそうです。

 

もちろん医者であろうが弁護士であろうが、あるいはそんな資格など全く持たない人であろうと稼げる人は稼げるだろうし、ダメな人はダメであるのは当然のことです。そもそも人生の価値を専ら金銭的なものだけに求めること自体が、実にさもしい人生観であることは「言わずもがな」なのです。それでも、一般的な価値観を盲信することなく、常に健全な猜疑心を持ち続けることが、おぼろげながらも「真実」の一端を垣間見ることができる唯一の手段であることは、疑いの余地がありません。

 

受験において、「良好な受験環境」を求めて首都圏の難関校を目指す小中学生が数多く存在します。多額の月謝や交通費の負担は避けられませんが、それでも「それだけの価値」がある選択なのだろうと思います。一方で、「田舎の進学校」からでも少数ながら必ず東大・京大・国立医学部などの超難関校に進学する生徒は必ず存在しますし、当然のことながらそのような生徒たちにかかる「学費」は、それこそ「一般的な金額」で収まるはずなのです。

学習環境の良否は確かに存在しますが、それでも「勉強」は万人にとって比較的公平性が高いものであると私は思うのです。

 

「一等が何本も当たっているから!」と、わざわざ「西銀座チャンスセンター」に並んで宝くじを買えば、当たる確率が飛躍的に上昇するというような「妄想」は、勉強の世界でもやっぱり「通用するわけない!」のだと、私は考えているのです(笑)。受験において、「どっちが損か得か?」などという損得勘定ばかりするのは決して「お上品」とは言えないのかもしれませんが(笑)、良い意味での「費用対効果」を考慮した上での「進路選択」も、また重要な論点ではないかと考えた、木曜日の朝なのでした。

 

頑張りましょう!