「自由が丘探検」:再開発進む自由ヶ丘1丁目29番地区! | 今日は何をレポートしようかな?

今日は何をレポートしようかな?

身の周りの物の掘り下げ、都会を訪ねて、歴史を訪ねて、小説・
映画・TVドラマの舞台を訪ねて、レトロを探して
何でもレポートします。

 

 

 

 

 6月下旬 買い物があって自由が丘に立ち寄って

みました。

駅前広場に出ると、女神像の前に以前から在ったで

あろう説明板を見つけました。

自由が丘駅前広場の生い立ち

 昭和の初め、この地には田畑がのどかに広がって

いました。

昭和2年、当時の西部耕地整理組合長の栗山久次郎

氏が街の発展のためにと五島慶太 氏と交渉を重ね、

この地に駅を誘致することに成功しました。

 当時は「九品仏」という駅でしたが、昭和4年には

大井町線も通り、駅の名称も「自由ヶ丘」と改名し場所

も現在の位置に移されました。

その後、 自由が丘の街は商店街 住宅地とも発展を遂

げ、駅前には建物が建ち並んでいましたが、戦争が激

しくなるとともに建物は強制疎開で取り壊しとなり、残存

していた建物も昭和20年の空襲で焼失し、自由が丘

の街は焼け野原になってしまいました。

戦後、駅前の復興について話し合いが行われましたが、

元のような商店街を望む人と駅前広場をつくったほう

が良いという人との間で大論争があったといいます。

 結果として駅前広場をつくることに決まりましたが、当

時から先進的な考えを持っていた自由が丘の人々の

気質が垣間見られます。

昭和22年に駅前広場が誕生しましたが、しばらくの間

はわずかな植え込みにロータリーがあるだけで、決し

て立派なものではありませんでした。

 やがて駅前も商店街としての街並みが整うにつれて、

街のシンボルとして外国の広場のように彫像を設けた

らどうかという話になり、当時の商店街連合組合の事業

として実施することになりました。

彫像の制作は彫刻家の澤田政廣氏に依頼し、完成した

のが自由の女神像 「あきそら」です。

 昭和36年のことでした。

 以来、自由の女神像は街のシンボルとして、自由が丘

の街を見守り続けています。

このたびの自由が丘駅前広場整備は、自由が丘住民

代表と目黒区が2年余にわたる検討を経て完成したもの

です。

 これまでの車優先のロータリーから安心して歩けるよ

うに歩道を拡幅し 女神広場も設けました。

 進取の気性に富んだ先人の努力に感謝しつつ、人に

優しい自由が丘駅前広場をいつまでも美しく保ち、楽し

く活用したいものです。平成23年4月〔自由が丘駅〕

そんな経緯があったのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 ロータリーの向こう側に視線を移すと・・・おや?

自由ヶ丘1丁目29番地区のビルが無くなってフェンス

で覆われています。

噂に聞いてはいましたが、再開発が此処でも始まって

いたんですね!?

自由が丘一丁目29番地区第一種市街地再開発事業

 自由が丘駅周辺地区は、目黒区の都市計画マスター

プラン(平成16年3月)において広域生活拠点に位置

付けられており、文化性やファッション性の高い店舗

など、落ち着きがあり回遊性のある商業地として発展

してきました。

一方、道路が狭く歩行者と自動車の交錯や路上荷さば

き車両による混雑、駅周辺の建物の老朽化などが喫緊

の課題となっています。

本地区では、再開発事業の施行により、土地の合理的

かつ健全な高度利用による建築物の不燃化・共同化

を図ることで、地域の安全性・防災性の向上に寄与す

る地区施設を整備するとともに、商業・業務・住宅機能

を導入し、魅力ある駅前市街地を形成します。

〔参考:「目黒区 HP」より〕

詳細を知りたい方は、この目黒区のホームページを読

んでいただきたいと思いますが、今後は北地区・西地区

の再開発が順次進められるのではないでしょうか?

確かにバスにとっては過酷な程に狭い道でしたから。

 でも気になっていた、戦後の闇市の名残を残す自由が

丘デパート東急線のガードをくぐった先の飲食店街は

残りそうでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自由が丘から東急大井町線経由で白金高輪のいつも

の酒場に移動し一人打上げ。

季節の恵みのお野菜とお肉をいただきました。

かんぱーい♪

これで「自由ヶ丘探検」レポートを終わります。