「湯河原・小田原探検」7:湯河原駅前のモニュメント数々! | 今日は何をレポートしようかな?

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 帰りの電車まで時間があるので湯河原駅前を探検。

崖下には温泉街、エレベーターでも下りれますね。

その手前にモニュメントや説明板がいくつかあります。

読んでみましょう。

一升石(いっしようせき)

文化十四年(一八一七年)、京都仙洞御所において、

光格上皇が院政を開かれた際、御所の庭に州浜を

作るため、京都所司代の要職にあった小田原藩主、

大久保忠真公が、本町吉浜(当時古濱村)の海岸

から、三寸から四寸の長楕円形の石を米一升与え

て集め、真綿に包んでニ千俵を海路京都まで運び、

献上されたと伝えられるところから、一升石の名が

ついたとされています。

〔四季彩のまち さがみの小京都ゆがわら〕

 

 

 

 

 隣には箱根の三次元地図「ジオパーク」の絵。

そして「吉浜海岸の砂」

湯河原の海水浴場でしょうか?

今度は海岸まで出てみたいですね。

もうひとつ説明板です。

四季彩のまち さがみの小京都 ゆがわら

私たちのまち湯河原は、海と山と川に恵まれた

自然環境や豊かな温泉、歴史文化の香り漂う

まち並みなど、多彩な表情を持つ美しいふるさと

です。

京都で生まれた日本画壇の大家竹内栖鳳は、

湯河原をこよなく愛し、この地で終焉を迎えました。

その作品を展示する、「湯河原ゆかりの美術館」

(現町立湯河原美術館)開設や、京都仙洞御所

の州浜に趣のある岸辺を造り上げている吉浜の

一升石(石一升を米一升と交換したと伝えられる)

などが契機となり、平成十一年六月、本町は、

全国京都会議において「小京都」に認定されま

した。

これを記念し、ここに、御所にちなんだ庭園を

整備いたしました。

千二百年の歴史を誇る風雅な伝統が息づく京都

に、いつの日か近づけるよう、これからも町民一同

町独自の文化の掘り起こしと新たな創造に努力し

てまいります。

平成11年10月吉日

〔湯河原町長 米岡幸男〕

 

 

 

 

 

 

 ロータリー中央に武将夫婦の銅像があります。

これは「土肥實平公並夫人像」ですね。

手前に由来が書かれています。

由来

土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将

である。

治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早く

これを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急

を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、

宿老として多くの功績を残した。

公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、

全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。

公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山

に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、

その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の

鏡として後世にまでたたえられている。

ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会

創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の

遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立

実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、

その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したもの

である。

〔説明板より〕

さらに「土肥氏館」の石碑があります。

乾坤一擲

源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)

八月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山

南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利

と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・

永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と

天運に依る石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山

隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・

小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎など

まさに千載画期の史跡である 

茲に挙兵七百八十年を記念して 土肥氏館阯に碑

を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。

昭和35年8月23日

〔神奈川県文化財専門委員 武相学園長 石野瑛〕

土肥氏、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

登場していましたね!?

そろそろ電車の時間です。