「川越探検」2:川越八幡宮で旅の安全を祈願! | 今日は何をレポートしようかな?

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 川越八幡宮が見えてきました。

鳥居をくぐり境内に進みます。

川越八幡宮について

川越八幡宮の創建

 当社・川越八幡宮は、第68代・後一条天皇の

時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって

創祀されたと伝えられています。

長元元年(1028)、下総国(千葉)の城主前上総介

平忠常は朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の

3カ国を従わせ、大軍を起こして武蔵国に攻め入

りました。

この乱は長元の乱と言われ、3年に渡り鎮圧でき

ませんでした。

有力武士だった冷泉院判官代甲斐守源頼信が

長元3年に平忠常追討の倫旨を賜りました。

太田道灌公と歴代川越城主の崇敬

 当時このあたりは、豪族河越氏の所領で鎌倉

時代、神社後方に河越氏の館がありました。

応永32年(1425)には、関東管領足利持氏河越

兵庫助の館跡地の半分を当神社に日供料とし

て寄進したといわれています。

長禄元年(1457)、川越城が完成しました。

築城の名手だった太田道灌は当神社を篤く崇敬

し、分霊を川越城内の守護神として奉斎しました。

爾来、川越の歴代城主、城代の崇敬が深く、特

に天正18年(1590)以来の城主・酒井氏一族の

崇敬はすこぶる篤く、社殿の造営、神田、神宝

の寄進が相次ぎました。

酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、

修繕費等を奉納しました。

文化9年7月1日(1812)、姫路城主・酒井雅楽

頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(文字は

向鳩形)の額と掛物一幅を奉納しました。

寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参

の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、

その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。

明治維新そして現代へ

 明治維新の際には、別当万蔵寺を廃しました

が、川越城主の地の人々は当社を川越の守護神

として崇敬しています。

昭和51年秋に、当社は埼玉県にて一社、神社

本庁第一次神社振興対策モデル神社に指定さ

れました。

創建から約1000年、今も変わらず当社は篤い

崇敬を受け、関東一円より多くの皆様からご参拝

をいただいております。

〔参考:「川越八幡宮 HP」より〕

 


 

 

 

 手水舎で清め、狛犬さんにご挨拶し社殿でお詣

りしました。

 

 

 

 

 社殿のすぐ手前にもう一対、古い狛犬さんが

鎮座していました。

ご祭神

誉田別命(第15代応神天皇)

 全国には約8万社の神社があると言われてい

ます。

人々の生活の中に、一年の四季の移ろいの中に、

神様を大事にする文化が日本にはあるのです。

八幡神社は全国でもっとも多い神社で、分霊は約

1万5000社もあります。

九州の宇佐八幡宮、京都の石清水八幡宮、鎌倉

の鶴岡八幡宮が有名ですが、当社は総本社の

宇佐から勧請されたと伝えれられます。

御祭神は第十五代天皇の応神天皇です。

応神天皇は母親である神功皇后と共に大陸文化

を日本に取り入れて、日本文化の興隆をはから

れました。

また神功皇后が自分の御子神(応神天皇)を自

分の替りとしてこの世に下されたものと言われ、

八幡様の信仰は母が子を抱きかかえた慈愛で

子を育てる大愛です。

母の愛情に勝るものはありません。

この大愛こそが八幡信仰のもとと言えます。

広く日本人に信仰された八幡様。

大愛の御神徳を感じながら日々の暮らしを過ご

してみませんか。

ぜひ四季のお祭りや観光などに当社にお立ち

寄りください。

きっと「心のオアシス」を体感できるはずです。

〔参考:「川越八幡宮 HP」より〕

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