「川越探検」1:川越駅で降り立ち小江戸を目指す! | 今日は何をレポートしようかな?

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何でもレポートします。

 4月の終盤 七郎委員長は小江戸・川越に行っ

てきました。

TVでは川越が頻繁に取り上げられていたので、

いつかは!と思っていたのですが・・・ついに決断

しました。

 

 

 

 

 東武東上線・川越駅に到着しました。

実は横浜から乗り換えなしで行けるんですよね!

それなのになかなか行かなかったなんて・・・

逆に着く頃にはお尻が痛くなってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 川越駅前に出ました。

遠くにアーチ型の鉄橋が見えます。

ペデストリアンデッキを下ると石垣の残骸みたい

な物があります。

これ何でしょうね!?説明がありません。

川越駅前から突如小江戸が始まるのかな?と

思っていたのですが・・・違っていました。

先ずは川越の歴史を紐解いてみましょう。

川越市の歴史 近世

川越藩と歴代藩主

 天正18年(1590)、徳川家康は駿府から江戸城

に移り、関東地方は、徳川氏による支配が始まり

ました。

川越城は家康の重臣酒井重忠が1万石で配置

され、ここに川越藩の基礎が成立しました。

重忠以後の藩主は、松平信綱や柳沢吉保を始め

8家21人にのぼり、いずれも親藩・譜代大名で占

められていました。

また彼らの多くは、大老や老中・側用人等、幕政

を担う重臣でした。

川越城と城下町の整備

 城と城下町は、寛永15年(1638)の大火後に

藩主となった松平信綱によって本格的な整備

が行われました。

西側に曲輪を拡張し、富士見櫓等3つの櫓や

13の門を備え、本丸、二ノ丸、三ノ丸、八幡曲

輪に田曲輪、西曲輪等を加え、約326,000平方

メートル余となる近世城郭にふさわしい姿とな

りました。

城下町は、「町割」と呼ばれる都市計画によっ

て整備されました。

それは、武家地、町人地、寺社地と、身分に

よって居住する区域を定めるものでした。

武家地は城の南北と、川越街道沿いを中心に

配置されました。

町人地は、「札の辻」を中心とするメインストリ

ートを中心に展開し、商人地の上五ヶ町と

職人地の下五ヶ町の十ヶ町、及び四つの門前

町から構成されました。

寺社地の多くは、城下の西側に配置されました。

こうした城と城下町は承応年間(1652~55)頃ま

でには完成し、幕末まで踏襲されました。

中略

明治期の川越

現在の川越市域は、明治4年(1871)川越藩

から川越県、その後入間県、同6年に熊谷県を

経て、同9年には埼玉県に編入されました。

同22年(1889)に成立した川越町は、同26年

3月17日に発生した大火により、中心街のほと

んどが焼失しました。

その後、火事に強い建築として、現存するような

蔵造りの商家が建てられました。

川越市の誕生・発展

江戸期から始まる新河岸川舟運や、明治28年

(1895)開業の川越鉄道(現在の西武鉄道)、大正

3年(1914)開業の東上鉄道(現在の東武鉄道)

などの流通網の拡大は、さらに川越の発展を促し

ました。

そして、大正11年(1922)、県内初の市制が施行

され、人口31,000人の川越市が誕生しました。

その後、昭和14年(1939)に田面沢村を編入、

昭和30年(1955)に隣接する芳野村・古谷村・

南古谷村・高階村・福原村・山田村・名細村・

霞ケ関村・大東村を合併し、現在の市域となりま

した。

〔参考:「川越市 HP」より抜粋〕

 

 

 

 

 

 

 川越駅前の繁華街を歩くと、ようやく「小江戸

川越」の文字に出会えました。

繁華街を抜けて交通量の多い通りを北上します。