最終回「桜新町→渋谷探検」4:松濤・円山町を歩いて一人打上げ♪ | 今日は何をレポートしようかな?

今日は何をレポートしようかな?

身の周りの物の掘り下げ、都会を訪ねて、歴史を訪ねて、小説・
映画・TVドラマの舞台を訪ねて、レトロを探して
何でもレポートします。

 

 

 

 

 

 東急田園都市線・桜新町駅から渋谷に移動

しました。

Bunkamuraオーチャードホールがあります。

今年も此処にダイアナ・クラールさんが来られ

るのでしょうか?

残念ながらチケット取れませんでした。

此処から高級住宅街・松濤に入りました。

松濤の歴史

江戸時代の初期、松濤を含む渋谷エリアは、

江戸の府内と府外の境目に当たるいわば村

はずれのような地域でした。

この地が活性化していくのは1657年(明暦3)

年の「明暦の大火」以降のことで、復興の波

に乗って街並みが整えられ発展していくこと

になります。

駒場の鷹狩場からほど近い松濤には、

徳川御三家の一つ、紀州徳川家の下屋敷が

置かれました。

その後1876(明治9)年、松濤の地は徳川家

から旧佐賀藩主の鍋島家に譲渡され、鍋島

家は失業武士を救済する目的で茶園「松濤

園」の経営を始めます。

ここで生産されたお茶は「松濤」と名付けら

れ、静岡茶が流通するまで東京の人々に

好んで飲まれていたといわれています。

「松濤」とは、茶の湯の釜のたぎる音を松風

と潮騒に例えた雅名で、これが現在の地名

の由来になっています。

大正時代末期頃には、松濤の大部分を占め

ていた鍋島家の農場の分譲が始まります。

これらの地に、華族や事業家、政府の高官

などの大きな邸宅が次々と誕生し、広大な

茶畑はお屋敷街へと姿を変えました。

こうして現在の高級住宅地「松濤」の基礎が

形成されていったのです。

〔参考:不動産サイト「nomu.com」より〕

途中、由緒など詳細不明の大山稲荷神社

ありました。

お天気も好く、閑静な住宅街でした。

 

 

 

 

 松濤を後にして、今度は真反対でディープな

円山町に入りました。

円山町の歴史

ラブホテル、ナイトクラブ、ライブハウス、隠れた

名店、とにかく色の濃ゆいお店が集まる円山町。

渋谷でも異彩を放つエリアであり、最近では

NHKドラマ「らんまん」の舞台としても注目を浴

びました。

今回、名前の由来について独自調査を行いま

したが、二つの非常に興味深い説に辿り着き

ました。

そもそも、この一帯は「荒木山」と呼ばれており

当時は本当に何もない場所だったそうです。

現在の「円山町」と名前が制定されたのは昭和

3年(1928年)。

名前の由来は史実としては残っていないよう

ですが「円山」「丸山」という地名は全国的に見

ても多数存在する地名で、ここ渋谷円山町も

「丸みを帯びた丘や円状の丘など当時の地形

から名付けられた」という説が濃厚だそうです。

事実、円山町はJR渋谷駅方面から向かうと、

どの方面からでも必ず坂を上らなければ辿り

着きません。

その坂の存在はかつてこの場所が山や丘陵で

あった事を強く感じさせます。

このように非常に単純な理由で名前が付けら

れたという説が一説。

もう一つは元々花街であった事に由来する、

という説です。

ずっと「荒木山」という名前で親しまれていた

訳で、それなら荒木山町というような名前が

付けられても良さそうですが、何故円山町に

なったのか?

それは…「華やかであるべき花街として

“荒木山”では粗野な感じがする。

京都祗園の芸者町にほど近い円山、もしくは

長崎の丸山遊廓を連想させる名の方が良い

だろう。」と住民の間で意見が上がったから、

という説があるのです。

この一帯が花街として栄えだしたのは明治20

年(1887年)頃。

名前が制定された昭和3年頃は花街として大

きな盛り上がりを見せていた時期でもあり、こ

のような意見が出る事もあり得るのではないか?

といった感覚を持ちました。

以下略

〔参考:サイト「シブテナ」より抜粋〕

夕方の円山町百軒店はまだ眠っていました。

 

 

 

 渋谷駅、まだ再開発中です。

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの酒場に入り一人打上げです。

今回、新しい酒粕を煎餅状にして軽く焼いた物

が珍味でした♪

これで桜新町から渋谷の松濤・円山町を歩いた

探検レポートを終わります。