「鎌倉探検」7:瑞泉寺庭園 吉田松陰の碑! | 今日は何をレポートしようかな?

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 階段の途中に吉野秀雄の歌碑があります。

「死をいとひ 生をもおそれ 人間の ゆれ定まらぬ 

こころ知るのみ」

とあります。

吉野秀雄は昭和の歌人ですね。

 

 

 

 さらに山崎方代の歌碑です。

「手の平に 豆腐をのせて いそいそと いつもの

角を 曲がりて帰る」

とあります。

山崎方代(ほうだい)は男性、同じく昭和の歌人です。

 

 

 

 

 

「松蔭吉田先生留跡碑」と刻まれた碑があります。

 明治維新の指導者の一人吉田松陰は、1854年

(安政元年)、下田で密航を企てる直前に、瑞泉寺

の住職であった伯父の竹院和尚に会いにきたとい

われる。

企ては失敗。

松蔭は獄中で瑞泉寺を訪れた詩を詠じたいう。

「山の青々とした竹の光が窓から射し込んでくる。

方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かで

ある。

いま私は囚われの身となって獄中にあり、むなし

く苦しみを味わっている。

ある夜夢に瑞泉寺を訪ねた」

瑞泉寺山門の前の石碑は、1929年(昭和4年)に

建立されたもので、徳富蘇峰の筆によるもの。

〔参考:サイト「鎌倉手帳(寺社散策)」より〕

坂道を下りました。

 

 

 

 

 瑞泉寺庭園の入口傍に「夢想国師古道場」

と刻まれた石碑がありました。

鎌倉における夢窓疎石(国師)は、二階堂の地

に南芳庵を仮住まいとした。

そして幕府の武将二階堂道薀の援助のもとに、

瑞泉院(後の瑞泉寺)を創建した。

道薀は疎石の幼児を過ごした甲斐の牧庄の領主

であり、後年恵林寺を開いて疎石を招いたのも

彼であった。

1327年の「年譜」には「八月居を錦屏山(きんぴ

ょうさん)に移し、瑞泉蘭若を建つ」とある。

いわゆる修行の場を作り出したのである。

ここは庭園というよりは洞窟と池を彫り出したも

のである。

このことは「一覧亭記」によると疎石は「岩を穿ち

地を平らかに」して寺を創め、「前峰後洞」………

となっている。

疎石の詩には

「前もまたかさなる山のいほりにて  こずえにつづ

く庭の白雲」

重なる山並みにとりまれ、白雲を庭の風物取り入

れた庭のさまが頭に浮かぶ

〔参考:サイト「中田ギャラリー」より抜粋〕

瑞泉寺庭園を出ました。

今度は春に来ようと思いました。

 

 

 

 

 瑞泉寺の花壇を通って受付前から出ました。