「保土ヶ谷探検」1:保土ヶ谷駅から北条政子ゆかりの地を目指す! | 今日は何をレポートしようかな?

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 昨年の暮れも押し迫った頃、七郎委員長は

近所に北条政子ゆかりの場所があることを知

り、早速行ってきました。

 

 

 

 

 JR保土ヶ谷駅で下車しました。

JR保土ヶ谷駅周辺は、旧東海道や今は無くな

った「ワイン酒場 ツルカメ」さんなどを探検す

る際に何度か探検しています。

しかしほとんどはJR保土ヶ谷駅西口

今回は初めて東口に出ました。

こちら側は幅の広い国道1号線があります。

現代の東海道ですね!?

 

 

 

 

 お!マンホールの蓋を見たら、箱根駅伝

様子が描かれています。

そうか!此処は箱根駅伝のコースだったんで

すね!?

そんな国道1号線沿いには看板建築の古い

建物が並んで、昭和が残っている感じ。

「歴史の道」の案内板がありました。

「保土ヶ谷」について調べてみました。

保土ヶ谷 名前の由来

保土ヶ谷という地名の由来には諸説がありま

す。

私は以前、平安時代は「榛谷」と書いて「はん

がや」という地名で、「はんがや」が少しずつ

変化して「ほどがや」になったという話を聞い

たことがあります。

この説は、奈良・平安期の地名は幡屋(は

たのや)、平安末期から鎌倉・室町期にかけ

てが榛谷(はんがや)、戦国期に入ると

保土ケ谷になった、というものです。

その他、アイヌ語で「谷」を意味する「ホト」が

起源となったという説、丘陵を語源とする

「保」と土地を語源とする「土」が起源となっ

たという説などがあるそうです。

東海道と保土ヶ谷

江戸と京都を結ぶ東海道。

街道の整備は、徳川家康の政策の一つでし

た。

1601年に東海道の宿駅の制度が定められ、

保土ヶ谷宿は品川、川崎、神奈川に続く江戸

から4番目の宿場として誕生しました。

保土ヶ谷宿の管轄は芝生村追分(現在の西区

と保土ヶ谷区の境)から境木地蔵までの約5

キロメートルで、そのうち「宿内」と呼ばれる範

囲は約2キロメートルでした。

宿内は宿場として街並みが整備されたエリア

で、宿泊施設や商店などが並び、経済、文化

の要所として多くの人でにぎわったと伝えられ

ています。

〔参考:メルマガ「横浜で暮らそう」より〕

今回の目的地は案内板にある「政子の井戸」

です。

 

 

 

 

 

 

 坂道を上ります。

崖の上に建つお宅が並んでいます。

この坂道は「いわな坂」と呼ぶようです。

【横浜の坂道】いわな坂(保土ケ谷区)

保土ケ谷駅東口にある福聚寺前から丘の上

の横浜清風高校へと至る「いわな坂」。

坂名の由来は不明とされ、漢字で書くと「石難

坂」、「石名坂」、「磐名坂」など諸説あるという。

坂は金沢道(かなさわかまくら道)の一部を成

していて、道沿いには史跡や古い地蔵があり

古道ならではの歴史を感じさせる坂道となっ

ている。

〔参考:サイト「THE YOKOHAMA

 STANDARD」より〕

坂の途中にその福聚寺がありました。

臨済宗建長寺派 無量山 福聚寺の歴史

福聚寺は臨済宗建長寺派の寺院で建武二年

(一三三五年)南北朝時代初期に建長寺第三

十八世古先印元和尚来って土地を拓き創建

されました。

当初は保土ヶ谷宿岩間町字路上(現在の西区

久保町)にありましたが、寛政年間に隠居寺

であった蓮求庵(現在の裏参道付近)に移転し、

第十七世月鑑和尚が山林を開いて境内を拡

大し、明治二十一年(一八八八年)新たに本堂、

庫裡、山門を建立しました。

以下略

〔参考:「福聚寺 HP」より〕

景色の良い高台のお寺です。