「沖縄探検2日目」7:玉陵碑へ! | 今日は何をレポートしようかな?

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 これら施設の入口から玉陵に向かう道

の辺りに西の御番所があったようです。

説明板です。

西の御番所(いりのうばんじゅ)

 王府時代の歴史をつづった球陽(きゅ

うよう)によれば、1748年(乾隆13年)、

初めて玉陵門外の左右に御番所を建て、

2人の御番役を任命したことが記されて

います。

 また1901年(明治34年)の記録による

と、琉球最後の国王であった尚泰の葬儀

の折、東西の御番所が近親の親族や

僧侶の控所となったことが記されていま

す。

 ここ西の御番所は、法事の際には、主

に女性方の控所として使われていたよう

です。

西の御番所には、太平洋戦争前まで、

格式のある家柄から選ばれた御番役が

住み込み、御掃除人たちを使って日常の

管理を行っていました。こちらに暮らした

ことのある方が、記憶をもとに作成した

見取り図もありますが、発掘調査の結果、

西の御番所の遺構は発見できませんで

した。

〔説明板より〕

この前を通ると右に玉陵の石積み、正面

番所らしき木造の建物があります。

これが東の御番所ですね。

東の御番所(あがりのうばんじゅ)

東の御番所は、法事の折には国王の控

所として使用されました。

ところが、太平洋戦争直前には、2間(約

360cm)四方ほどの大きさしかなく、国王

の葬儀に使用する龕(がん)(遺骸などを

運ぶ御輿のようなもの)や、その他の道具

類を保管する倉庫として使用されていた

ようです。

 2000(平成12)年に発掘調査を行ったと

ころ、東西約18m、南北約12mにわたり、

柱を支えた礎石や建物の周囲に巡らされ

た石敷、便所跡などの遺構が発見されま

した。

さらに、瓦や釘、中国製の青磁や染付、

壺屋焼の陶器などの破片も出土しました。

 驚いたことに、西の御番所の部屋割を

描いた図を反転させると、ほぼ柱の位置

が一致することがわかりました。

そこで、遺構や写真などを元に分析し、

東の御番所を復元しました。復元にあた

っては、砂などで遺構を保護し、もとの面

より約45cm上げて整備を行っています。

〔説明板より〕

 

 

 

 

 玉陵外郭の門をくぐりました。

かなり広い中庭です。

さらに玉陵内郭の門をくぐります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 すると白い珊瑚の砂が敷き詰めれれて

おり、その前に立派な石造りの墓陵が並

んでいます。

陵墓は向かって左から東室、中室、西室

の三つに分かれていて、葬儀の後まず

遺体が安置されるのが中室。

月日が経過し、骨だけになるまで置いて

おかれます。

 その後洗骨といわれる骨を綺麗に洗い

清める作業がなされ、骨壷に収められ

て 国王とその妃は東室、他は西室に納

められました。

 一番最近の被葬者は1931年尚家20

代目尚典の妃である野嵩按司加那志が

埋葬され、それが最後になっています。

〔参考:サイト「沖縄の世界遺産」より〕

中世ヨーロッパの城郭のようです。

片隅に碑があります。

玉陵碑(たまうどぅんひ)
 この碑文は1501年(弘治14年)に建

てられたもので、玉陵に葬られるべき

人々を規定したものです。

尚真王他8人の名が記され、この書き

付けに背くならば、天に仰ぎ、地に伏し

て崇るべし、と結んでいます。

碑文には長男、次男の名が見えず、王

室内に勢力の対立があり、廃されたと

見られています。

玉陵碑に刻まれた文は玉陵の碑文とも

よばれており、

沖縄に現存する石碑では二番目に古い、
仮名書きで記されていることで知られて

います。

〔参考:サイト「沖縄の風景」より〕

静かな内郭の石塀では修復作業を続け

ている方がいました。

玉陵を後にします。