「沖縄探検2日目」6:もうひとつの世界遺産・玉陵へ! | 今日は何をレポートしようかな?

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 首里城公園の外に出て首里城前交差

に出ます。

横には「甦る首里城の碑」があります。

行先は玉陵(タマウドゥン)です。

天界寺跡(テンカイジアト)の説明板があ

ります。

天界寺跡(テンカイジアト)

琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。

天界寺は、第一尚氏第六代国王尚泰久

(しょうたいきゅう)が、景泰(けいたい)年

間(1450~56年)に創建したとされる。

山号は妙高山(みょうこうざん)、開山は

渓隠安??(けいいんあんせん)禅師。

 創建当初の伽藍(がらん)は、寝室・

方丈(ほうじょう)・東房・西房などで、尚徳

(しょうとく)王(第一尚氏第七代国王)代の

1466年に大宝殿(だいほうでん)が建立

され、また、成化己丑(せいかきちゅう)

(1469年)鐘銘の梵鐘も掛けられた。

1576年、火災により焼失したが、順治

(じゅんち)から康煕(こうき)年間にかけて、

堂宇が建立され、再興された。天界寺

松尾(ティンケージマーチュー)と呼ばれ

た東隣の松林を含む寺域は約1,080坪

余であった。

 再興後は、尚泰久王・尚徳王の位牌の

ほか、第二尚氏の未婚の王子・王妃が

祀られ、円覚寺(えんかくじ)・天王寺(て

んのうじ)とともに尚家の菩提寺(三ヵ寺)

の一つとなった。

国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣

での慣わしがあった。

 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球

処分)後は、尚家の私寺となったが、後に

払い下げられた。

1913年(大正2)頃、跡地の北東隅に、

首里(シュイ)・儀保(ジーブ)・真壁(マカベ)

の3人の大阿母志良礼(ウフアンシタリ)

(王府の高級神女)の神殿を統合した

「三殿内(ミトゥンチ)」が置かれ、信仰を

集めた。

 天界寺松尾には、1886年(明治19)、

首里小学校(後の首里第一尋常高等小

学校)の校舎が建てられたが、1912年

(明治45)に、校舎狭隘のため首里城内

へ移転した。跡地は採石場となり、さら

に、1915年(大正4)には、大正天皇即

位祝賀を記念して、沖縄県師範学校の

記念運動場が開設された。

 1945年(昭和20)の沖縄戦により、三

殿内は消失し、天界寺の寺域跡は、住

宅地となったが、1992年(平成4)の首里

城復元に伴い整備され、道路及び首里

城公園の一部(レストセンター・管理棟)

となった。

 なお、1697年に掘られたという天界寺

の井戸(那覇市指定文化財)が、現在も

残されている。

〔参考:「那覇市歴史博物館 HP」より〕

 

 

 

 

 

 

 

 玉陵の管理事務所に行きます。

此処に世界遺産のレリーフ。

玉陵(タマウドゥン)

第二尚氏王統の大型の墓地で、1501

年に尚真王が、父である尚円王を祀る

ために造らせました。

 当時の宮殿の形を模して作られた石

造りで、沖縄県でも最大の破風墓です。

 第二次世界大戦で大きな被害をうけ

ましたが、1974年から3年以上の歳月

をかけた修復がなされ、現在はほぼ往

時の姿を見る事ができます。

管理事務所で入館券を購入して地下の

展示室に下ります。

もちろん撮影禁止です。

この建物には玉陵に関する昔の写真な

ど多くのものが展示されているので、

まずはここの見学をお勧め。

お墓の 内部のミニチュア模型、納骨の

壺、以前の写真など結構見ごたえがあ

ります。

1920年に亡くなり、1934年に洗骨さ

れた尚典候の葬儀の様子などは写真

も多くい残されていて、興味深いもので

す。

 ここを見学していくと行かないとでは、

玉陵を見たときの感じ方に違いが出る

と思いますよ。

〔参考:サイト「沖縄の世界遺産」より〕

 

 

 

 

 

 

撮影許可のあるものを撮影しました。

外に出るとガジュマルの樹がありました。