そうだよね | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

古典って、ほんとうに「うあーーーーーーー!これは俺だ」

とさけびそうになりますね。

 

本当に、魂の奥底の、

誰にも言えないような、それゆえに真実であるような呻きを告白し、

「目の前にのみんなに言えないけど、

時空を超えて、一部の同じ感受性を持つ人類の誰かさん、

私はこうでしたけれど、あなたもそうなんじゃないですか」

と同時に、

「それは、あなただけではないよ。」

と励ましてくれているような気もします。

 

だから、

そういう告白をしてくれる人は、

時代も国も違うけれど、

 

「おお!心の友よ!」

 

と言いたくなりますね。

 

 

仮に、

今の自分に、どんな言葉をかけてあげたいかというと、

 

かける言葉がない。

 

何も言葉なんかかけられたくない。

 

誰にも何もできないと思う。

 

「祈ってます」の無責任さを想いながら、

祈ってます以外にかける言葉がない。

 

 

聖名を呼べども、それは

ろうそくに水がかけられるように消えてゆく。

 

 

十字架。

 

無数の十字架の上での息遣いが聞こえ、

 

私はそれに支えられ、

 

そこで、

無数の、いや、すべての魂とつながって連帯しているという感覚。

 

 

 

だいたい、クリスマスから四旬節にかけては、鬱になります。

 

 

辛いことは何かといえば、

人がほめようが、けなそうが、

「神から見捨てられた」感

と、

「自分がキリストを十字架につけている」感

と、

全然喜べない感

と、

誰にもわかってもらえない感

と、

もうダメなんじゃないか、みたいな絶望感

と、

もっと、追い込まれる、もう嫌だ、感と・・・。

 

 

私の存在が神から特別に呼ばれ、選ばれた、

としても、

サタンがそそのかし、

いくら祈りに祈りを重ねても、

霊肉の闘いに負け、

信仰のふるいから零れ落ち、・・・

 

 

どこまで行っても神の御手、

というけれども、

それでもやっぱり、自分を義としたい。

 

 

 

自分の罪という病気を治してほしいのに、

いやだいやだと駄々をこねる。

 

 

 

聖書読んでいると、

弟子たちの、特にユダ、

律法学者に、ピラトに、群衆に、

そういう人たちの想いが分かりすぎて、くそ辛い。

 

あの愛していたイエスが、

いまや我々の理解の届かないパワハラ上司にしか思えない。

(それは、吾人がアガペーの深さを知りえぬからだ)

 

誰も知らない遠く遠くはるかなところに一人で行ってしまわれ、

誰もついていくことができない。

 

彼は、人間を激しくふるい落としにかかる。

 

心は燃えていても肉体は弱い。

 

信仰と思っていた偏愛など、あてにならない。

 

無力。

 

ショック。

 

絶望。

 

 

 

「いやいや、そんなに自分を責めないで」

「あなたの罪は贖われたのだから・・・」

「信仰で突破せよ」

 

正論や励ましは、

いよいよ、

そうあれない私を袋小路に敲きこみ、

身動きをさせなくさせる。

 

愛も思いやりも、

背負いきれぬ重圧になる。

 

 

内村鑑三の告白にいたく救われたような気がする。

 

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彼は、

キリスト教のすばらしい道徳に出会い、それを本気で実行しようと試みます。

 

そしたら、自分が泥沼の中にいることを悟り、

自分がいかに、嘘つきで、人の失敗を見て悦び、愛国心のために自分の野望を満たし、

善人を装いながら実のところ汚れ果てし者かを悟ります。

 

強い決心をして、新しく生まれ変わろうと決意し、周りからは大きく喝采されるも、

三か月で挫折します。

 

 

聖書は言います。

「およそ女を見て色情を起こすものは、心のうちにすでに姦淫したるなり」

と。

 

年頃の男子は、ほぼ全員が姦淫罪でアウトです。

 

他人の浮気や性犯罪は去勢しろだの、永遠に刑務所から出てくるななどと、いたく非難しますが、

誰も自分の中の自分の骨身にこびりついた姦淫病を知りません。

 

性犯罪もですが、

ダメだと分かっていても、落ちてしまう恋ってあるでしょう。

 

人は他人の病が重いのを見て、自分は病気がないと一生懸命に信じます。

 

自分が税金取りのような悪人でないことを神の前に誇るのです。

 

 

内村は、自分が偽善者であり、殺人者であり、姦淫者であり、盗人であることを悟り、

その光の輝きに耐えられず聖書が嘘であればいいのに願います。

 

ホント、ごまかしたくなるよね。

 

 

内村は罪を犯して嘆き、嘆いては恐れ、

恐れて失望し、失望してまた

再び罪を犯します。

 

こうして、

内村は全く人生に喜びを失い、食事もできず、不眠になり、全く無気力に陥ってしまいます。

 

 

三人の有名な宣教師に、勇気をもって恥を忍んで相談し打ち明けるも、

答えは全く同じで、

「私にそういう経験などない!」

と。

 

(絶対内心、「ギクリ」としがら、「私もそうです」と言ったら敬虔で清く正しい牧師のメンツ丸つぶれなので、

若造に言わなかっただけだとおもいます。)

 

「こんなこと打ち明けるんじゃなかった」

と落ち込んで家に帰ります。

 

天路歴程の作者の、ジョン・バンヤンも、同じような経験をして、

「自分の心の中に悪念が果てしなく湧き出てくるのは、

私が神に棄てられ、悪魔の奴隷となった兆候でしょうか」

と牧師に聴くと、

牧師はため息をつきながら、

「おそらくそうだ」

と言われ、

失望に失望を重ね、立つこともできないところまで落ち込んだという。

 

「牧師は神学には詳しいが、悪魔の経験が乏しい人」だと後に告白します。

 

 

そこで、内村は、リバイバル・・・つまり、ある教会で聖霊の体験があり、多くの信徒が罪のゆるしを得、歓喜満ち溢れて非常な感動があったということを知り、

はじめは半信半疑でしたが、

次第に、全身全霊で神に祈り、聖霊の体験を求めるようになりますが、

泣き叫んでもまったく体験はありません。

 

 

そのうち、さらに落ち込み、

当時の教勢たるリバイバルを受けないものは、クリスチャンではない、というような風潮になってきたので、

内村はその教会を避け、教会も内村を嫌うようになります。

 

 

百年前の内村の体験に、ただただ、共感するばかりです。

 

 

内村は、救われた体験をこう告白します。

 

私たちの中にひとりでも苦痛を感じるものがあれば、社会全体は彼と共に苦しみ、

私たちの快楽の幾分をそいで苦しんでいる人を救わないわけがない。

 

一人が苦しめば、全体が共に苦しむ。

 

 

信仰も神のたまもの。

 

信じて救われたのではなく、

信じせしめられて救われるものなのだ、と。

 

私は私の信仰をも神より求めるのです。

 

信仰は、

夜が暗くて泣く赤子、

光欲しさに泣く赤子、

泣くよりほかに言葉なし、

 

と。

 

 

 

 

もうね、

これでいいと思うんです。

 

ごまかさずに、

そのまんま、行けばいいと思った。

 

自分に嘘をついて明るく振る舞うよりも、

 

闇を切り捨てて、自分で救われようとするよりも、

 

神さまが、この自分ではどうしようもない罪も、利用して、

すべての人の救いのために

 

委ねたらいい。

 

使ってください、神様。

 

 

 

 

抑えつけなきゃ抑えつけなきゃ、

こんな自分は恥ずかしい、情けない

 

そう思うと、

もうどこに向かっていいか分からない。

 

 

そんななたでいい、

そんなあなたが好きだ、

 

恐れることはない

 

と主はずっと伝えておられる。

 

 

罪の増すところに恵みも増す。

 

サタンのトゲのついたままで、

恵みは十分。

 

私は弱い時にこそ強い。

 

 

この告白が、ひとりでも誰か兄弟姉妹の光になったら、すごくうれしいと思います。