これは自分のこと | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

太宰治の
『駆け込み訴え』
『トントカトン』

三浦綾子の
『氷点』

ハイデガーの
『存在と時間』

を読みながら、
喫茶店や電車の中で

うあーーーーーーーーーーー

と叫ぶところであった。

ともかく震えがとまらない。


いや、

一番、そう思うのが、
聖書の十字架の道行を読んでいる時である。

イエスに振るわれる暴力と人間の醜さの現実

というか、
「あ、これ、みんな俺のやってることだわ」

と突きつけられて、息が止まり絶望しそうになる。

愛する人を傷つけ、裏切り、絆を引き裂きつづけていること。

神なんかいるのか、と思う。

いや、神がいたら、いなかったことにしたいし逃れたい、
無視していたい、誤魔化したい、
そう思う。

人と分かち合えない。
相談できない。




学生時代、誰かが先生に人前で怒られているのを見ると、ニヤニヤするか、「俺じゃなくてよかった」と胸を撫で下ろす。
あるいは、憐れむ。

しかし、いざ自分が罪を責められる段になると、
もう世界から色がなくなる。
どう受け止めていいかわからない。

とにかく他人事にして誤魔化したくなる。

解離状態になる。



小説家は、小説を書いていなかったら、犯罪者かそれに類するものになっているはず。

しかし、
我々も全員が等しく、同じ可能性を秘めている。

全て、見透かされている!

これは、俺だ😱

いじめも
差別も
不倫も
パワハラも
セクハラも
裏切りも
拒絶も
虚しさも
憎しみも
決して癒やされぬ孤独も

要するに、
生涯仮面を被り通せたものと、
うっかり表に出てしまい、世的に断罪されたものがいるだけである。

誰もが、
自分は「いい奴だ」と思いたい、

そして、互いに
「あなたはそんなことないよ」
「いやいや、そんなことありませんよ」
「なんでそんなに自分を卑下するの?」
「気にしないで良くない?」
ゲームをしているだけなのだ。

一時的に、気が紛れ、ホッとするが、
「それ」は、何度もまたおそってくる。

清廉潔白を装い「我関せず」

うっすら、
自分が罪を犯す可能性などないかのように装いながら、
「まともな私たちと、異常なあの人」
を分けて、
安全地帯に自己保身をしているだけ。

うっすら知りながら、
人を裁く。

「倫理」とは、
良心や人間として当然のいいこと、
ではなくて、
つまり、「人目」「社会的に断罪されるか否か」
でしかない。

反吐が出そうになるが、
私もそんなゲームに参加しながら、
気が狂いそうになるのをつい理性で押さえ込んで加担している。

私の存在の根っこに横たわる
罪という病巣をはっきり見る。

認めたくない。
これを、見ないふりをする、
ごまかす社会的ゲームに私たちは慣れすぎてしまった。

というのも、
それを認め、表現することが、
「異常」であるから。

この社会で居場所を失い孤立することであるから、
押し込めるたけにすべてしまった。

しかし、
同時に、
そこに安心を感じる。

イエスを十字架に磔にしたのは、

逃れようのない、
私なのだ、

という戦慄。

そして、

そこにしか救いはなく、

「それでいい」

と思う。

自分の信仰など嘘だ。

それでいい。

病んでいていい。

孤独でいい。

闇や欲望を
正面から受容する。

そのまま、十字架の血潮につながればいい。

罪を自ら捨てようとするな。

そして、
何者かにそれを、
絶対に安全な他者にそれを告白しないと、
人は窒息してしまう。

カトリック教会には、
告解という、
いかなる罪を告白しても
絶対に安全なシステムがあるが、

現代でいえば、
カウンセラーがそうかもしれないし、
バーのマスターとか、
個室貸切の美容室、
匿名のSNSなんかもそうかもしれない。

多分、
人は安全に誰にも裁かれない形で、
自分の闇をぶちまけたい衝動、
分かち合い見せつけたい衝動があるのかもしれない。

小説そのものが、
自らの心のどうしようもない深淵を、
全人類に対して告解しようとする営みなのかもしれない。

「こんなクソ闇俺一人じゃないか」
という内容の小説に限って、
ロングセラーベストセラーになる。

そういうところに、すべての人にとっての真実がある。

駆け込み訴え。

イエスを一番愛していたのは、ユダ。
どこまでも真っ直ぐで純情な信仰と、自分でもよくわからない欲望の濁流。

太宰は、信仰のなんたるかを信じているフリをしているものよりも深く生きている。