それを育み続け「育成」し続けようという気持ちのないものを、本にしてはいけない。 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

えんじんも編集者・エディターのはしくれとしてメシを食わせてもらっていますが、このEditorと言う言葉の大元の意味に、「助産婦」があります。「産婆さん」ですね。


書き手の産みの苦しみに伴走し、無事元気な赤ちゃんを生み落とすための手助けをする、といった意味です。


編集術というのは、産婆術でもあるわけで。


書き手にとっては「第1作」が重要な意味を持ちます。ですから、特に新人著者発掘と、その作品の編集における産婆さんの、苦しみと、喜びはひとしおだったりする。


稲垣足穂という作家は、生涯、第1作の注釈を続けた、それが書き継ぐということだといったことを、どこかに書くか言ったかしています。


第1作からは想像もつかないようなタイトルの本を書くことがあっても、キーノートは変化しない。


いわば「変奏曲」を奏で続けるわけです。


もちろん、生涯のテーマを確立するために、いろいろなトライアンドエラーを繰り返すことも、あります。


そういう意味では、エディターは作品の産出・成長を手助けするだけでなく、書き手自身の成長に付き合っていくということもあるわけです。


もちろん、編集者は職人として仕事を仕上げることもある。それでおまんまを食べているという事情もあるので。

今では、圧倒的にこちらのほうが多いのかもしれません。


しかし、「産婆さん」とまではいかなくても、その「増補改訂」版を出したい、そういう本を作りたいという気持ちは、心の片隅に持っているものです。


ところが、そう思っていても、著者のほうが、そんなことお呼びじゃない状態になることがある。


その場その場の、懐事情に応じて、「我が計らい」によって、印税では儲からない、もっと利益率の高い商売をと、河岸を変えていく御仁もいるからです。別にそれはそれでいいのかもしれません。


しかし書いたつもりの本を、その焼き畑農業的な宗旨変えのビジネスとも言えぬビジネスに利用する。


いわゆるフロントエンドとか言っちゃってたりするわけですが、本はそれ自体、バックエンド商品の価値を持つべきものです。


フロントエンド、バックエンドの商品設計手法に、罪があるわけではない。


あるテーマの、たとえば「関連グッズ」が、フロントの周りを衛星のように取り巻き、第1作とともに成長していく。それは本物のビジネスだと思うし、それを否定しているわけではない。


ただ、このフロント、バックエンドのご都合主義的でいい加減な使い方、言い方をしてる輩もいるということで。


フロントエンドからバックエンドへと成長する、という発想を持てれば、そこには明確な商品のラインナップが、読者やお客さんに示されるはずなんですが、それがないまま、おうおうにしてネットのシステム利便性にただ乗りして、たとえば「電子書籍」とリネームしただけのものを、焼き畑的に売っていこうとする。


昨日の記事に「アホか!」と書いたのは 、そういう焼き畑に知らず知らずのうちに加担していることもあるだろう自分に対する戒めでもあります。


(続く)



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