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小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

「ガード下学会」「横丁・小径学会」活動の報告および、予定などをお知らせします。

事務局から休講のお知らせがこないな~、と思ってホームページを見たら、 現在はすべて休講中なんですが、今年度最後のボクの公開講座が予定されている第3週は対象から外れていた~。

引退したら山形まで観に行こうと思っていたんですが、山形まで行かなくても見られる! って楽しみにしていた東京での「吉野石膏コレクション展」、もう行かなきゃと思って調べたら終わっちゃってた~!
吉田鉄郎展(国立近現代建築資料館)は2月11日までなので、どうにか事務所を抜け出していくぞ~!

 

Facebookを開くと、

突然、「男はつらいよ(寅さん)にトップファンに認定されました」との表示が目に飛び込んできました。以降、自分の名前の横にFacebookでトップファンを表すバッジを表示できるようになるそうです。

大変光栄です。でもね~、寅さんが始まった頃、家族はよく撮影現場に遭遇したようですが、ボクは高校、大学生。「オレは都会に出るんだ」と、都心から外れた柴又なんかにゃ何の興味もありませんでした。戦時中強制疎開(建物疎開)で引っ越してきた祖母も「あたしゃこんな田舎で死ねない、本所に帰るんだ!」って言いながら亡くなっていきました。
そんな郊外の町ですが、寅さん以前の昭和三十年代の門前町としての柴又は賑わっていました。バッジは不要ですが、人で溢れた柴又の賑わいが戻ることを願っています!

 

元旦と二日は、わが家で仕事。三日から事務所に出て働くつもりだったのに、娘夫婦がノロでダウン。元々娘の子どもが嘔吐下痢症だったんですが、ノロが蔓延した部屋に置いておくわけにはいかず、わが家で引き取ったものの、カミさんはあたし一人じゃ面倒見切れないってことで、結局事務所に出られず。
わが家はカミさん一人が子育てしてたけど、夫婦二人で子育てしてると一緒に感染しちゃったりするんですね~。

 

娘の上司が今年叙勲を受け、祝のお礼が届いて……、という話を娘がしていて、そういえば、従姉妹ももう叙勲の歳だ! いくらなんでも、一言もなかった、ってのはまずい! と必死に問い合わせたら、あら? 基準となるボク自身の歳が間違っていて、さらに一つしか違わない従姉妹も二つ上にしてしまって、いや~、今年じゃなかったんですって。叙勲は再来年。自分の歳も周囲の歳も判らなくなっちゃいました。

 

今朝のNHKラジオでの話。
子どもが夜中に起き、枕元にあったクリスマスプレゼントを開けると「これじゃない! こんなんじゃない!」と泣き叫びました。子どもが欲しがっていたのは3万円もするゲーム。そんな高価なものを子どもに買い与える気もないし、第一、ゲーム機を与えるつもりもありません。ということで、このクリスマスの時期、本当に憂鬱になります、という投書でした。ちなみに、お子さんは現在、小学5年生だそうです。
うちのカミサンの職場(保育園)での話。
「サンタさんがね、お手紙くれて、○○ちゃんがいい子にしていなかったからプレゼントはありません」ッて。それでね、お菓子だけくれたの。(やっぱり、いい子にしていなきゃダメなんですね)
うちの娘の家。
「サンタさんにショベルカーもらっちゃった!」(娘の子どもの好きなものは、路上の石ころと、ネジと建設重機。女の子なんですけどね~)

 

今年は若い頃仕事でお会いしたデザイナーの勝井三雄さんが八月に亡くなり、翌月にはインタビュー記事を書かせていただいたことがあるオペラ歌手の佐藤しのぶさんが亡くなりました。もう三〇年も前になるかと思いますが、初めて勝井さんの事務所を訪ねると、広いマンションの一室だったと思いますが、昼間というのに室内は真っ暗。そこをわずかばかりのダウンライトが照らす。〈この状態でレイアウトができるの?〉という疑問と同時に、こうした演出代も料金に乗るのだろうな~と感じながらお話していたことがありました。とはいえ、ボクのレイアウト代と勝井さんのデザイン代の違いは演出の違いだけではないんでしょうが、デザイン事務所、あるいは編集プロダクションとしての見せ方、なんてのも必要なんだ、ということを学びました。まあ、実行はできませんでしたが。
佐藤さんからは、オペラの世界のことを学ばしていただきました。まあ、記事にできることよりも雑談で伺うお話の方がとっても充実していましたが。
本業では、障がい児教育の歴史をまとめた1,200ページを超える書籍を編集させていただいたことが最大のトピックス。編集業40年(?)でもこれほどの大部を制作したことはありませんでした。
手掛けた書籍は、障がい、子どもの人権、教育、社会学、地域学、国際政治――など。もちろん、建築・土木、歴史書も制作しています。常時一〇本ほどの書籍を同時進行で抱えている、という状態で、なんでこのジイサンがこんなに追われながら働かなきゃならないんだ! とずっと訴えていましたが、最後には目先の処理に追われ、自らの不遇を訴えることもなくなってしまいました。
本業以外では、1月の日経新聞のインタビュー記事にはじまり、テレビ、ラジオの出演を経て、最後は12月の新聞社系の週刊誌まで。あちこち出ていましたが、FMラジオの出演依頼を受けた後、てっきり1階だか2階だかのスタジオだとばかり決めていたら、そちらではなく、何十階だかのスタジオの方に上ってきてくれ、ということで、なんども、そりゃ上がれないので、事前の収録にしてしまうか、下のスタジオでお話しするよう手配してくれないか、と必死に交渉したことを覚えています。思い返しただけで命が縮みます!
七年間寝込んだ母親が亡くなり、ちょっと張りがなくなってしまった年末です。

某週刊誌で、ガート下に焦点をあてた小林の記事(好きな街ランキング)が掲載されました。

 

 

昨日は、休みをいただいて母親の納骨式。本堂でお坊さん(小・中学校の同級生の兄)がお経を読んでいるときも、墓でお経を読んでいるときも、背後から京成電車がゆっくりと通り抜ける音が聞こえてきました。まるで、映画のワンシーン。おッ母さんは、これからずっと、この京成電車の音と過ごしていくことになりました。

 

母親が逝って1週間。この間、なんやかやと毎日事務所に通って仕事を処理していましたが、葬儀も無事終了。今日から社会復帰し、仕事モードに切り替わりました。ところが、まだまだやらなきゃならないことがあり、仕事に集中できません。気持ちが、浮き足立ってるな~。