五感写生昔ばなし 第12話 『桃太郎』 | 頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―
むかし、むかし。
山あいの村を、
一本の川が流れておりました。
春の雨が降った翌朝。
川の水は、いつもより少し速く、
ごう、ごうと石の間を走っていました。
その流れに、
どんぶらこ。
どんぶらこ。
ひとつの大きな桃が、
上流から流れてきました。
水に押されて、
くるり。
岩に触れて、
ぷかり。
また、流れていきます。
川辺では、
婆さまが桶を抱えて、
水を汲んでおりました。
ふと、
水とは違うものが、
目の端を流れていきます。
「おや」
婆さまは桶を置きました。
桃でした。
水に濡れた桃を両手で抱えると、
ひやりとしました。
川の水よりも、
冷たく感じます。
婆さまは桃を胸に抱え、
家へ持ち帰りました。
囲炉裏の火のそばに置くと、
桃の皮についた水が、
ぽつ、ぽつ、と落ちました。
しばらくすると――
桃の中から、
かすかに、
こと。
と音がしました。
婆さまが顔を近づけます。
もう一度。
こと。
そして、
ぱきっ。
桃が割れました。
甘い匂いが、
ふわりと広がりました。
婆さまが目を丸くすると、
桃の中から、小さな男の子が現れました。
泣き声はありません。
ただ、
小さな手が桃の果肉に触れ、
ぬるり。
と動きました。
婆さまは、その子を抱き上げました。
火のそばにいると、
小さな身体が少しずつ温かくなっていきます。
その子は、
婆さまの指をぎゅっと握りました。
婆さまは、
その手をしばらく見ていました。
「桃から出てきた子じゃ」
それから、その子は桃太郎と呼ばれました。
月がいくつも巡りました。
小さかった手は、
鍬を握れるほどになりました。
足は山道を駆け、
腕には薪を抱えられるようになりました。
村では、
畑の黍が風に揺れていました。
夏になると青く、
秋になると穂が重くなります。
収穫した黍は、
日に干されました。
乾いた穂を手で揉むと、
さらさら。
小さな粒が、
掌にこぼれます。
ある日。
桃太郎は、婆さまのそばで、
その黍を見ていました。
婆さまは黍を水に浸し、
しばらく置きました。
やがて、
水を切ると、
臼の中へ。
杵を持ち上げます。
ぺたん。
ぺたん。
ぺたん。
黍がつぶれるたび、
乾いていた匂いが、
少しずつ変わっていきました。
婆さまの手が動きます。
ぺたん。
ぺたん。
温かくなった黍を手のひらに取り、
ころころと丸めていきます。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
丸い団子が、
婆さまの前に並びました。
桃太郎は、
その一つを手に取りました。
まだ、温かい。
指先に、
婆さまの手の温度が残っていました。
その日の夕方。
村の向こうの山から、
風が下りてきました。
木々がざわざわ鳴っています。
村人たちは、
近ごろ鬼ヶ島の話をしていました。
海の向こうから、
船が戻らなくなった。
倉の米が、
いつの間にか減っていた。
夜になると、
遠くの海から、
ごうん。
ごうん。
と、聞き慣れない音がする。
誰かが見た鬼の姿は、
大きかったとも、
赤かったとも、
角があったとも言いました。
けれど、
見た人によって話が違いました。
桃太郎は、
黙って聞いていました。
そして翌朝。
腰に袋を下げました。
中には、
婆さまが作ったきびだんご。
歩くたび、
こと。
こと。
と、腰のあたりで鳴りました。
村を出て、
山道へ入ります。
しばらくすると――
草むらから、
くん。
と音がしました。
犬が一匹、
鼻を地面に近づけています。
桃太郎が立ち止まると、
犬も止まりました。
風が吹く。
犬の鼻が、
ぴくりと動きました。
桃太郎は袋から、
きびだんごを一つ取り出しました。
犬は団子を見て、
それから桃太郎を見ました。
桃太郎が差し出すと、
犬は一度だけ鼻を近づけ――
ぱくり。
食べました。
犬は何も言いません。
ただ、
桃太郎の後ろを歩き始めました。
山道を進むと、
今度は木の上から、
ざっ。
葉が落ちてきました。
猿です。
枝に腰をかけ、
桃太郎の袋を見ています。
桃太郎が団子を一つ取り出すと、
猿は枝から降りました。
手を伸ばし、
団子をつまみます。
くるり。
ひっくり返します。
指先で押します。
それから、
口に入れました。
猿は桃太郎を見ました。
そして犬を見ると、
その後ろにつきました。
さらに進むと、
頭の上から、
ばさっ。
雉が飛び降りてきました。
地面に降りた雉は、
きびだんごのそばまで歩いてきます。
首をかしげました。
右から見る。
左から見る。
そして、
くちばしで、こつ。
団子に触れました。
桃太郎が手のひらに乗せると、
雉はそれをくわえました。
一度、空を見上げます。
それから、
ひと声。
雉は飛び立ちました。
と思ったら、
桃太郎の少し前に、
また降りてきました。
犬が歩く。
猿が歩く。
雉が飛ぶ。
桃太郎は、
そのまま山道を進みました。
やがて山を越えると、
海が見えてきました。
遠くに、
ひとつの島があります。
鬼ヶ島。
桃太郎は、
腰の袋に手を添えました。
中には、
あといくつかのきびだんごが残っています。
波が、
ざあん。
と岩にぶつかりました。
犬が顔を上げました。
猿が木から降りました。
雉が空を旋回しました。
桃太郎は、
海の向こうを見ました。
そして、
島へ向かいました。
海を渡ると、
鬼ヶ島の岩場に着きました。
波が岩にぶつかり、
どん。
どん。
と響いています。
島の奥には、
大きな門がありました。
桃太郎が近づくと、
ぎい……。
門が開きました。
中から、
何匹もの鬼が出てきました。
大きな身体。
太い腕。
手には棍棒。
犬が低く唸ります。
猿が木の枝に飛び上がります。
雉が空へ舞いました。
桃太郎は、
一歩前へ出ました。
鬼たちも、
一歩前へ出ます。
そのとき。
桃太郎の腰から、
こと。
小さな音がしました。
鬼の一人が、
ふと顔を向けました。
桃太郎は袋を開きました。
中から、
きびだんごを一つ取り出します。
丸い団子。
まだ、
婆さまの手の温度が残っています。
桃太郎が手のひらに乗せました。
犬が見ています。
猿も見ています。
雉は空から見ています。
鬼も――
見ました。
その瞬間。
鬼の声が、
消えました。
風だけが、
門の中を通り抜けます。
ひゅう。
鬼は団子から目を離しません。
桃太郎は、
動きませんでした。
鬼の手から、
棍棒が、
かたん。
と落ちました。
誰も拾いません。
鬼が一歩、
下がりました。
桃太郎は、
きびだんごを握りました。
そのとき――
島の奥から、
別の鬼の声が響きました。
「……それを、どこで手に入れた」
桃太郎は答えません。
ただ、
手の中の団子を見ました。
丸い団子。
黍の匂い。
温かい手の記憶。
そして――
鬼ヶ島の風。
その風が、
団子の匂いを島の奥へ運んでいきました。
鬼たちは、
誰も動きませんでした。
桃太郎は、
手のひらの団子を見ました。
それから、
鬼たちを見ました。
「……婆さまが、作った」
鬼の中から、
ひときわ大きな鬼が出てきました。
その鬼は、
団子を見たまま立っています。
やがて、
「……そうか」
低い声がしました。
鬼は棍棒を拾いませんでした。
桃太郎が一歩進むと、
犬も進みます。
猿も木から降ります。
雉が頭上を回ります。
鬼たちは、
少しずつ後ろへ下がっていきました。
島の奥から、
がらん。
と何かが倒れる音がしました。
続いて、
じゃら。
金属の音。
桃太郎たちは、
音のする方へ進みました。
そこには、
米俵や反物、金銀の入った箱が、
いくつも積まれていました。
その横に、
鬼たちが立っています。
桃太郎は、
ひとつの米俵に手を触れました。
ざらり。
乾いた藁の感触。
犬が鼻を近づけます。
猿は箱の上に乗ります。
雉は梁にとまりました。
鬼たちは、
誰も止めません。
桃太郎は、
村から来た船に荷物を積みました。
米。
布。
金銀。
村からなくなったものも、
そこにありました。
帰りの船が、
島を離れます。
鬼ヶ島は、
少しずつ遠くなっていきました。
波の音の向こうで、
ごうん。
と、島から音がしました。
桃太郎は振り返りました。
犬は海の匂いを嗅いでいます。
猿は積み荷を触っています。
雉は空を飛んでいます。
桃太郎は、
腰の袋を見ました。
きびだんごが、
ひとつ残っていました。
村へ戻る道すがら、
犬はときおり立ち止まり、
鼻先で袋の匂いを確かめました。
猿は袋の口を覗き込み、
丸い形を目で追います。
雉は空から、
三人の動きを見下ろしています。
桃太郎は、
袋を抱え直しました。
夕暮れが近づいていました。
やがて、
村の屋根が見えてきました。
「桃太郎が帰ってきたぞ」
声が広がり、
家々から人が出てきました。
桃太郎の後ろには、
米俵。
布。
金銀の入った箱。
鬼ヶ島から持ち帰ったものが、
次々と運ばれていきます。
婆さまも、
家の前に立っていました。
桃太郎が近づくと、
婆さまは袋を見ました。
「まだ、あるのかい」
桃太郎は頷き、
袋から一つ取り出しました。
きびだんご。
婆さまの手のひらに乗せると、
ころり。
丸い団子が、
手の中で転がりました。
婆さまは、
それを見つめました。
黍を水に浸したこと。
臼に入れたこと。
ぺたん、ぺたん、と
杵を下ろしたこと。
手のひらで丸めたこと。
その夜。
村には明かりが灯りました。
囲炉裏では火が鳴り、
炊いた米の匂いがしています。
持ち帰った米俵は、
一つずつ家へ運ばれました。
犬は囲炉裏のそばで眠り、
猿は梁の上に座り、
雉は戸口近くの枝にとまりました。
桃太郎は外へ出ました。
夜の風が、
頬を撫でます。
遠くから、
ざあ……。
と川の音が聞こえました。
桃太郎は、
きびだんごを一つ手に取りました。
月の光が、
白い団子の表面を照らしています。
指で触れると、
少しだけ柔らかい。
桃太郎は、
しばらく見つめていました。
川から流れてきた桃。
その桃から生まれた自分。
婆さまの手。
黍。
臼。
杵の音。
犬の鼻。
猿の指。
雉のくちばし。
そして――
鬼が団子を見たときの顔。
桃太郎は、
団子を口に入れませんでした。
ただ、
手のひらに乗せたまま立っていました。
月が少しずつ山の向こうへ傾きます。
やがて桃太郎は、
団子を袋へ戻しました。
家の中から、
ぺき。
と薪のはぜる音がしました。
桃太郎が振り返ります。
戸の隙間から、
婆さまのいる囲炉裏の明かりが見えました。
桃太郎は、
静かに家へ入りました。
袋の中には、
きびだんごが一つ。
月の光が、
その丸い形に落ちていました。
あなたには、この話がどんな話に感じましたか。

