むかし、むかし。
江戸の町に、
ひとりの町人がおりました。
ある日の夕方、
町人は仲間と連れ立って、
堀へ釣りに出かけました。
「今日は釣れるぞ」
ひとりが言いました。
「昨日も、そう言ってたな」
「昨日は昨日だ」
「今日は?」
「今日は今日だ」
「同じじゃないか」
みんなで笑いました。
堀の水は、
夕暮れの空を細く映していました。
竿を並べ、
糸を垂らす。
ぽちゃん。
浮きが水に落ちました。
しばらくすると、
ぴく。
浮きが動きました。
「おっ」
竿を上げると、
魚が一匹。
「釣れた!」
「おお」
それからは、
よく釣れました。
一匹。
また一匹。
籠の中で、
魚が跳ねます。
ばしゃ。
ばしゃっ。
「こりゃあ、大したもんだ」
「帰るころには、
籠いっぱいだな」
「いっぱいになったら、
誰が持つ?」
「釣ったやつだ」
「じゃあ、お前だ」
「なんで俺なんだ」
また笑いました。
日が傾き、
堀の向こうの家々が
だんだん暗くなっていきました。
さっきまで聞こえていた
町の音も、
少しずつ遠くなっていきます。
魚の跳ねる音。
水の音。
竿の軋む音。
「そろそろ帰るか」
「そうだな」
竿を上げ、
籠を持ち上げました。
ずしり。
「重いな」
「釣りすぎたんだ」
「お前が釣れ釣れ言うからだ」
「俺のせいか」
そのときでした。
堀のほうから、
「……置いてけ」
声がしました。
みんな、
黙りました。
「今、何か言ったか?」
「言った」
「誰が?」
「知らん」
風が吹きました。
さわ……
水草が揺れました。
「聞き間違いじゃないか?」
「そうだろ」
「そうだよな」
そう言いながら、
誰も動きません。
すると、
「……置いてけ」
今度は、
はっきり聞こえました。
籠の中で、
ばしゃ。
魚が一匹、
跳ねました。
「魚を、置いてけってことか?」
「魚しか持ってないからな」
「じゃあ、置いてくか?」
「お前、置いていけ」
「なんで俺なんだ」
いつものように、
ひとりが言いました。
けれど、
誰も笑いませんでした。
「……帰ろう」
誰かが言いました。
「そうだ」
「帰ろう」
みんな、
一斉に歩き出しました。
足音が重なります。
たっ。
たっ。
たっ。
後ろから、
ちゃぽん。
水の音がしました。
誰も振り返りません。
たっ。
たっ。
たっ。
「置いてけ」
今度は、
近くで聞こえました。
「走れ!」
誰かが叫びました。
みんな走りました。
草履が鳴り、
息が乱れ、
着物の裾が足にまとわりつきます。
「待て!」
「待ってられるか!」
「籠!」
「置いてけ!」
その言葉に、
みんな一瞬だけ足を止めました。
けれど次の瞬間には、
また走り出しました。
町へ戻るころには、
すっかり夜になっていました。
息を切らして、
みんなで顔を見合わせます。
「……助かった」
「助かったな」
「魚は?」
町人が籠を見ました。
ふたを開けます。
中には――
何もありませんでした。
魚は、
一匹もいません。
「……あれ?」
籠を逆さにします。
からん。
何も落ちてきません。
「どこへ行った?」
「知らん」
「途中で落としたんじゃないか?」
「そんなはずはない」
みんな黙りました。
遠くで、
堀の水が鳴りました。
ちゃぽん。
その夜。
町人は家へ帰り、
戸を閉めました。
ことん。
布団に入っても、
なかなか眠れません。
耳を澄ますと、
遠くで、
ぽちゃん。
町人は目を閉じました。
しばらくして、
何も聞こえなくなりました。
朝になりました。
町には、
いつもの音が戻っていました。
人の声。
車の音。
鳥の声。
堀の水。
ちゃぽん。
町人は、
足を止めました。
水面に、
小さな輪がひとつ広がっていました。
町人の足元で、
草履が止まりました。
ちゃぽん。
ばしゃ。
歩き出します。
背中の向こうで、
ちゃぽん。
あなたには、この話がどんな話に感じましたか。