むかし、むかし。
雪の深い年の暮れのことでした。
村はずれの家で、
ひとりの男が正月の支度をしていました。
囲炉裏には火が入り、
ぱち。
ぱち。
と薪が鳴っています。
戸のすき間から入る風が、
足元を冷やしていました。
そのとき――
とん。
戸を叩く音がしました。
男の手が止まりました。
しばらくして、
とん。
もう一度、戸が鳴りました。
男は戸を見ました。
外では風が吹いています。
男は立ち上がりました。
戸に手をかけましたが、
すぐには開けませんでした。
もう一度、
とん。
戸が少し震えました。
男は息をのみ、
戸を開けました。
そこに、
山姥が立っていました。
戸口いっぱいの大きな身体。
髪には枯れ枝がからまり、
肩には雪が積もっています。
白い息が、
男の顔の前まで流れてきました。
男は一歩、
後ろへ下がりました。
山の土と、
濡れた木のような匂いがしました。
冷たい空気が、
囲炉裏の火のそばまで入り込んできます。
山姥は男を見下ろしました。
「今夜ひと晩、泊めてくれぬか」
男は答えませんでした。
大きな手が、
戸の縁に置かれています。
その手を見てから、
男は囲炉裏を見ました。
ぱち。
薪が鳴りました。
「……どうぞ」
山姥は家に入りました。
戸が閉まると、
外の風の音が遠くなりました。
山姥は囲炉裏のそばに座りました。
濡れた髪から、
ぽたり。
水が落ちます。
男は薪を一本、
火にくべました。
ぱちっ。
火の粉が跳ねました。
しばらくすると――
山姥の身体が、
強くこわばりました。
大きな手が、
腹を押さえます。
「……子が、出る」
男は立ち上がりました。
湯を沸かし、
布を出し、
火を強くしました。
外では雪が降り続いています。
家の中には、
山姥の荒い息。
薪のはぜる音。
湯の煮える音。
それらが重なりました。
やがて――
ふぇ……
小さな声がしました。
山姥の腕の中に、
小さな女の子がいました。
山姥はその子を胸に抱きました。
大きな手のひらが、
小さな背中を包んでいます。
「まゆ」
山姥が呼びました。
まゆは、
小さな指を動かしました。
そして、
山姥の指を一本、
つかみました。
山姥はじっと、
その指を見ていました。
囲炉裏の火が、
二人の影を壁に映しています。
大きな影と、
その腕の中の小さな影。
男は薪を一本、
火にくべました。
ぱち。
夜が明けました。
雪はやんでいました。
山姥はまゆを抱き上げると、
男に頭を下げました。
「世話になった」
それだけ言って、
二人は家を出ていきました。
男は戸口まで見送りました。
雪の上に、
大きな足跡がひとつ。
その横に、
小さな足跡がひとつ。
二つは並んで山へ向かい、
白い景色の中へ消えていきました。
それから、
何年も経ちました。
男はひとりで暮らしていました。
ある年の大晦日の夜。
囲炉裏の火を見ていると――
とん。
とん。
戸を叩く音がしました。
男は顔を上げました。
戸を開けると、
山姥が立っていました。
その隣に、
ひとりの娘がいます。
「お久しゅうございます」
男は、
その声を聞きました。
それから、
娘の手を見ました。
指が、
ほんの少し動きました。
そのとき、
あの夜の小さな指が、
ふっと手のひらに戻ってきました。
山姥は懐から、
一本の木槌を取り出しました。
飾りのない、
小さな木槌でした。
「これを」
男は受け取りました。
木の手触りが、
手のひらに残りました。
山姥は娘を連れて、
戸口へ向かいました。
娘が振り返りました。
男と目が合いました。
「では」
二人は雪の中へ帰っていきました。
男は二人の背中を見送りました。
大きな足跡。
その横に、
小さな足跡。
やがて、
それも雪に消えました。
男は木槌を、
神棚に置きました。
仕事が増えました。
人が訪れるようになりました。
米びつが空になることも、
少なくなりました。
春が来て、
夏が来て、
秋が来て、
また冬が来ました。
そして、
また春になりました。
雪が消えた山から、
土の匂いが流れてきます。
ある朝。
男が戸を開けると、
遠くの山から、
ざっ。
ざっ。
と音がしました。
男は山を見ました。
音は止まりました。
風が枝を揺らしています。
ざわざわ。
葉が鳴りました。
男は、
しばらく山を見ていました。
それから、
神棚の木槌に手を伸ばしました。
握ると、
木の手触りがありました。
男は、
しばらくそれを握っていました。
そして、
手を離しました。
戸口から、
風が入ってきました。
土の匂いがしました。
そのとき――
とん。
とん。
どこか遠くで、
何かを叩く音がしました。
男は振り向きました。
家の中には、
誰もいません。
外にも、
誰もいません。
ただ、
春の山へ続く道に、
大きな跡と、
小さな跡が、
並んで残っていました。
男は、
その跡を見ていました。
風が吹きました。
二つの跡の間を、
風が通り抜けました。
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