むかし、むかし。
山あいの村に、頬へふくらみを宿した二人の爺さまがおりました。
一人は、朝になると山の湿った匂いに足を止めました。
もう一人は、風が枝を鳴らす音に耳を澄ませました。
村人は二人を同じ「こぶ持ち」と呼びましたが、二人が感じている山は、少しずつ違っておりました。
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ある日の夕暮れ。
匂いをたどる爺さまは山へ入りました。
薪を拾っているうちに、空の色が変わります。
風が止まりました。
鳥の声が消えました。
けれど、完全な静けさではありません。
湿った土の匂いだけが、ゆっくりと奥へ続いていました。
爺さまは、その匂いをたどるように歩きます。
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山の奥には、大きな木のうろがありました。
身を寄せると、不思議な匂いがしました。
酒の匂い。
土の匂い。
古い木の匂い。
どれとも言えない匂いでした。
雨がやむころ、葉を打つ音は消えたのに、地の底から響くような拍子だけが続いていました。
冷たかった空気だけが、ゆるやかに温み始めます。
音をたどると、鬼たちが輪になって踊っておりました。
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鬼は爺さまを見て笑ったのではありません。
頬にあるふくらみを見つめ、
「その響きも預かろう。」
と申しました。
爺さまは何も答えません。
鬼たちの音が、
恐ろしいものなのか、
懐かしいものなのか、
まだ決まっていなかったからです。
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やがて爺さまは踊りました。
足裏は土を踏み、
風は袖を抜け、
頬の重みだけが拍子を刻みます。
鬼たちは笑いました。
その笑いが誰のものだったのか。
山のものだったのか。
風のものだったのか。
爺さまには分かりませんでした。
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夜が更けると、
鬼は爺さまの頬へ静かに触れました。
温もりは残りました。
けれど重さは消えていました。
鬼は何も言いません。
風だけが、一度、木々を渡っていきました。
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翌朝。
爺さまの頬から、こぶはなくなっていました。
村人は、
「治った。」
と言いました。
「山の神が取ってくれた。」
と言う者もいました。
爺さまは頬へ手を当てました。
軽くなったようにも、
何かが山へ帰ったようにも感じました。
けれど、その匂いだけは昨日と変わりませんでした。
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その話を聞いた、もう一人の爺さまは山へ向かいました。
同じ木。
同じ夜。
同じ鬼。
けれど聞こえた音は違い、
匂いも違い、
風の冷たさも違っていました。
酒の匂いは、
宝の匂いにも、
得をする匂いにも、
自分のものになる匂いにも感じられました。
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音をたどる爺さまは踊りました。
動きは昨日とよく似ていました。
音も同じでした。
それでも鬼たちは首を傾げました。
鬼の長は静かに申しました。
「お前は、音ではなく形を見ている。」
そう言って、
昨日預かったものを取り出しました。
それは、
もう一人の爺さまのこぶでした。
鬼はそれを、
隣の爺さまの頬へそっと戻しました。
返したのか。
移したのか。
重ねたのか。
その違いを語る者はおりませんでした。
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村へ戻ると、人々は、
「こぶが増えた。」
と申しました。
「欲張ったからだ。」
と言う者もいました。
「鬼のいたずらだ。」
と言う者もいました。
「山が返しただけだ。」
と言う者もいました。
けれど山へ入る者の中には、
「あの日から山の匂いが少し軽くなった。」
と言う者もおりました。
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それからというもの。
山へ入る者は、
それぞれ違うものを頼りに歩くようになったそうな。
匂いをたどる者。
音をたどる者。
風をたどる者。
誰一人、
同じ山を歩いているとは言いませんでした。
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そして今でも。
雨上がりの山では、
風が枝を鳴らすたび、
誰かがそっと頬へ手を添えるそうな。