第64皿目 泡がほどく、一日の結び目― 泡(労働の解放、喉越しのリズム) | 頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―
暖簾が揺れた。
夕暮れの風と一緒に、ひとりの客が入ってくる。
「いらっしゃい」
ロクが顔を上げる。
客は小さくうなずいて、いつもの席に腰を下ろした。
しばらく、何も言わない。
クゥーが水を置く。
「きょうは、なににする?」
客は窓の外を見て、それから笑った。
「瓶ビールを一本だけ」
ロクが冷蔵庫を開ける。
よく冷えた瓶を取り出し、栓抜きをかけた。
シュッ。
その音は短く、けれど店の空気をゆるめるには十分だった。
グラスに黄金色が流れ込む。
白い泡が静かに立ち上り、縁まで届くころには、揚げたてのハムカツも皿に並んでいた。
衣はきつね色。
包丁が入るたび、さくり、と軽い音がする。
湯気と一緒に、揚げ油の香ばしさがふわりと広がった。
客はグラスを持ち上げる。
ごくり。
一口飲んで、何も言わない。
ただ、肩の高さだけが少し変わった。
続いてハムカツをかじる。
さくっ。
その音を聞いて、クゥーが目を丸くした。
「いい音」
客は口元だけで笑った。
少し考えてから、静かに続けた。
「この一口で、今日が終わった気がする」
ロクは布巾をたたみながら答える。
「終わりがあるから、また始められる」
店の中には、ラジオも流れていない。
聞こえるのは、箸の触れる音と、グラスの小さな音だけ。
外を歩く人たちは、家路を急いでいた。
オンボロ食堂だけは、その速さを追いかけない。
疲れた人が歩幅を戻すまで、静かに灯りをともしている。
客が帰るころには、グラスは空になっていた。
ロクがそれを下げる。
「明日も、冷やしとく」
客は照れくさそうに笑って、
「その時は、また寄るよ」
と言った。
暖簾が揺れる。
閉まった戸の向こうへ、夜がゆっくり広がっていく。
店には、泡の消えたグラスだけが残っていた。
今日という一日は、静かにほどけていた。
明日の一杯を待つように。
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【注意書き】
・最初の一口は、慌てずゆっくりどうぞ。
・泡は消えても、一日の頑張りは消えません。
・「おつかれさま」は、お帰りの際に心の中でご自由にお受け取りください。

