65皿目:琥珀に映る、ゆっくりの答え | 頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―

頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―

町はずれの少し古びたレトロカフェ食堂。木の温もりと柔らかい光に包まれ、落ち着いた大人向けの空間です。読書やひとり時間も楽しめ、厨房ではゆるい日常が流れています。

夜の店は、昼より少しだけ静かだ。

暖簾をくぐった客は、席に着くなり言った。

「今日は、ハイボールをください」
ロクはうなずく。
丸い氷をグラスへ落とす。
からん。
その音だけで、クゥーは振り向いた。
琥珀色がゆっくり注がれる。
細かな泡が立ちのぼり、氷の縁をすべって消えていく。
皿には燻製チーズ。
小さく切られた一片から、木の香りが静かに漂った。
客はグラスを持ち上げる。
ひと口。
冷たさの奥に、ほのかな甘みと苦み。
もうひと口。
今度は目を閉じた。
クゥーは何も聞かない。
ロクも包丁を置かない。
店には、氷がゆっくり溶ける音だけが残る。
からん。
客は燻製チーズを口に運ぶ。
噛むほどに広がる香りが、どこか遠い夜を連れてくる。
昔、仲間と仕事終わりに笑った帰り道。
まだ何者でもなかった頃、夢だけを語っていた時間。
初めて自分の給料で買った小さな酒の味。
思いどおりにならなかった季節。
忘れたつもりの景色が、香りの中で静かによみがえる。
どれも遠くなったはずなのに、
まるで昨日のことのようだった。
しばらくして、客が小さく笑う。
「遠回りも、悪くなかったみたいだ」
ロクは静かに答える。
「違う道にも、腹は減る」
その一言に、客は肩の力を抜いた。
大きな笑いではない。
胸の奥でほどけるような、小さな笑みだった。
グラスの氷が最後にひとつ鳴る。
からん。
店の時計は、急がず夜を刻んでいる。
外には街の明かり。
中には琥珀色の灯り。
どちらも今日を照らしていた。
クゥーが空になった皿を見て、ぽつりとつぶやく。
「ゆっくりでも、ちゃんと今日になるんだね」
ロクは照れくさそうにうなずく。
「ゆっくりで、ちょうどいい」

【注意書き】
・氷の音で、昔の自分に会う場合があります
・燻製の香りは、忘れた時間を連れてくることがあります
・答えが出ない夜ほど、ゆっくり飲むことをおすすめします