雨は上がっていた。
昨夜の雨を含んだ空気だけが残り、オンボロ食堂の軒先からは時折ぽたりと雫が落ちている。
ロクはいつも通り暖簾を掛けた。
いつも通り鍋に火を入れた。
いつも通り仕込みを始めた。
昨日と違うことがあるとすれば、厨房の隅に置かれた小さな包みがなくなっていることくらいだった。
もっとも、ロク自身は何も変わらない顔をしていたが。
「ロクさん。」
「なんだ。」
「今日は特別な日ですね。」
クゥーが意味ありげに言う。
ロクは包丁を動かしたまま答えた。
「営業日だ。」
「そうじゃなくて。」
「営業日だ。」
話は終わりだった。
クゥーは頬を膨らませた。
夕方。
店にはいつものように常連たちが訪れた。
湯気が立つ。
皿が並ぶ。
笑い声が混じる。
特別な日は、案外いつも通りに過ぎていく。
それがオンボロ食堂だった。
閉店まであと少し。
暖簾を下ろそうかという頃だった。
カラン。
扉のベルが鳴る。
見慣れない客だった。
四十代くらいだろうか。
少し疲れた顔をしている。
「まだ大丈夫ですか。」
「大丈夫です。」
クゥーが席へ案内する。
客はカウンターの端に腰を下ろした。
どこか肩の力が抜けない様子だった。
ロクは静かに料理を作った。
今日のおすすめは煮込みハンバーグだった。
皿が置かれる。
客は小さく頭を下げた。
そしてゆっくり食べ始めた。
店の中には穏やかな時間が流れていた。
食事が半分ほど進んだ頃。
クゥーが何気なく尋ねた。
「今日はお仕事帰りですか?」
客は少し笑った。
「いや。」
一拍置く。
「誕生日なんです。」
クゥーが目を丸くした。
「えっ。」
「一人でケーキ買うのもなんだかなと思って。」
客は照れ臭そうに笑う。
「歩いてたら、ここが見えたんです。」
クゥーは何かに気付いた顔でロクを見る。
ロクは嫌な予感しかしなかった。
「クゥー。」
「はい。」
「言うな。」
「まだ何も言ってません。」
「顔が言ってる。」
客は不思議そうに二人を見る。
クゥーは数秒だけ我慢した。
そして失敗した。
「実はですね。」
「クゥー。」
「今日、ロクさんもなんです。」
沈黙。
客は一瞬きょとんとした。
それから吹き出した。
「本当ですか。」
ロクはため息をついた。
「まあ。」
「すごい偶然ですね。」
客は嬉しそうに笑った。
まるで自分のことのように。
しばらくして客は言った。
「歳を取るのは、正直あまり嬉しくないですね。」
「そうか。」
「若い頃みたいに何か変わるわけでもないし。」
ロクは皿を拭いていた。
客は続ける。
「でも。」
店の灯りが静かに揺れる。
「今年もちゃんとここまで来られました。」
ロクは手を止めた。
ほんの少しだけ。
そして言う。
「それで十分だ。」
客は静かに頷いた。
やがて食事は終わった。
皿の上には何も残っていない。
肉汁の跡だけが光っている。
昨夜見た空の皿と、どこかよく似ていた。
「ごちそうさまでした。」
客は席を立つ。
会計を済ませる。
扉へ向かう。
そして振り返った。
「お互い、いい一年になるといいですね。」
ロクは少しだけ笑った。
「そうですね。」
カラン。
扉が閉まる。
静かな夜が戻る。
クゥーが言った。
「ロクさん。」
「なんだ。」
「お誕生日、おめでとうございます。」
ロクは空になった皿を見た。
昨夜の空の皿。
今夜の空の皿。
どちらも誰かが満腹になった証だった。
「はい。」
クゥーが小さな箱を差し出す。
「なんだ、それ。」
「プレゼントです。」
「いらん。」
「駄目です。」
即答だった。
ロクは小さくため息を吐く。
観念したように箱を受け取った。
包装紙をほどく。
蓋を開く。
数秒。
店の中が静かになった。
ロクの眉が、ほんの少しだけ動く。
「……なんだ、これ。」
クゥーが満足そうに笑った。
「いいでしょう。」
「いいのか、それ。」
「私は気に入ってます。」
ロクはもう一度箱の中を見る。
何かを言いかけて、やめた。
そして静かに蓋を閉じる。
箱は捨てずに、棚の端へそっと置いた。
「まあ。」
ロクは空の皿を持ち上げる。
「今日も全部食べてもらえた。」
流しへ向かう。
湯気が立つ。
厨房の灯りが揺れる。
棚の端には、小さな箱がひとつ置かれていた。
「それで十分だ。」
外には雨上がりの夜空が広がっていた。
オンボロ食堂の灯りは、今夜も静かに街の片隅を照らしている。
「ゆっくりで、ちょうどいい。」