オンボロ食堂・特別編【前編】 「雨の夜と、空の皿」 | 頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―

頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―

町はずれの少し古びたレトロカフェ食堂。木の温もりと柔らかい光に包まれ、落ち着いた大人向けの空間です。読書やひとり時間も楽しめ、厨房ではゆるい日常が流れています。


夜の帳が降りる頃。

オンボロ食堂の厨房で、ロクは静かにフライパンの前に立っていた。

パチパチ。

油が跳ねる小さな音。

表の暖簾はすでに仕舞ってある。

今夜の客は、世界でたった一人だけだった。

蓋の下では、いつもより少し贅沢な厚みを持たせたハンバーグが、じっくりと蒸し焼きにされている。

カウンターの端では、一人の少年がパイプ椅子に深く腰掛けていた。

少し大きめの学ランは椅子の背に掛けられている。

白いカッターシャツの襟元を緩め、スマホの画面をぼんやりと眺めていた。

「別に、なんでもいい。」

最近少し低くなった声が店の中に落ちる。

ロクは返事をしなかった。

ただ、火加減を見ていた。

やがて蓋が開く。

ふわりと白い湯気が立ち上った。

「待たせたな」

差し出された皿を見て、少年はスマホを伏せた。

そこにあったのは、大きなハンバーグだった。

山のようにふっくらと盛り上がり、焼き目は香ばしく色づいている。

表面には透明な肉汁が滲み、夜の街灯に濡れた路面のように静かに光っていた。

見た目には分からない。

けれど中には、細かく刻まれたしめじや舞茸がたっぷりと練り込まれている。

「美味そう。」

少年はそう呟き、箸を取った。

真ん中へ箸先を入れる。

すっと切れると思った。

けれど。

「あ、結構手応えある」

少し笑いながら、さらに力を込める。

柔らかな表面の奥で、肉とキノコがしっかりと箸を押し返していた。

やがて。

ぱかり。

断面が開く。

閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、皿の上に黄金色の輪を描いた。

その瞬間だった。

香りが弾ける。

焼けた肉の香ばしさ。

熱で濃くなったキノコの深い香り。

店の空気が、一瞬でその匂いに染まった。

少年は黙ったまま断面を見つめていた。

そして大きくひとくち。

「……うん。」

もうひとくち。

「やっぱりこれだわ。」

そこから先は早かった。

肉汁が落ちる。

ご飯を頬張る。

またハンバーグを切る。

夢中になって箸を動かす。

店の中には、食べる音だけが続いていた。

ロクは何も言わない。

ただ、向かい側からその様子を見ていた。

外では雨が静かに降っている。

気づけば皿は空になっていた。

残っているのは肉汁の跡だけだった。

「ごちそうさま。」

少年は立ち上がる。

鞄を肩に掛け、入口へ向かう。

靴を履きながら、ふと思い出したように振り返った。

「あとさ。」

「ん?」

「明日、修学旅行の同意書にサイン書いといて。」

「わかった。」

少年は少し考えてから続けた。

「あ、それと。」

「なんだ。」

「今年のケーキ、小さめでいいから。」

ロクは顔を上げた。

少年は照れくさそうに視線を逸らす。

「もう子供じゃないし。」

「そうか。」

それだけだった。

「じゃ、先帰る。」

カラン。

扉のベルが鳴った。

雨音が少しだけ店の中へ流れ込み、すぐに静けさが戻る。

ロクは空になった皿を手に取った。

皿の上には、何も残っていなかった。

ふと視線を上げる。

厨房の隅には、小さな包みがひとつ置かれていた。

包装紙の端が少しだけ折れている。

ロクはそれを見て、小さく息を吐いた。

「……よく食う。」

誰に聞かせるでもなく呟く。

流し台の横では、刻み残しのキノコが少しだけ残っていた。

店の外では、まだ雨が降っている。

雨音は変わらない。

けれど厨房の灯りだけが、いつもより少し温かく見えた。