夜の帳が降りる頃。
オンボロ食堂の厨房で、ロクは静かにフライパンの前に立っていた。
パチパチ。
油が跳ねる小さな音。
表の暖簾はすでに仕舞ってある。
今夜の客は、世界でたった一人だけだった。
蓋の下では、いつもより少し贅沢な厚みを持たせたハンバーグが、じっくりと蒸し焼きにされている。
カウンターの端では、一人の少年がパイプ椅子に深く腰掛けていた。
少し大きめの学ランは椅子の背に掛けられている。
白いカッターシャツの襟元を緩め、スマホの画面をぼんやりと眺めていた。
「別に、なんでもいい。」
最近少し低くなった声が店の中に落ちる。
ロクは返事をしなかった。
ただ、火加減を見ていた。
やがて蓋が開く。
ふわりと白い湯気が立ち上った。
「待たせたな」
差し出された皿を見て、少年はスマホを伏せた。
そこにあったのは、大きなハンバーグだった。
山のようにふっくらと盛り上がり、焼き目は香ばしく色づいている。
表面には透明な肉汁が滲み、夜の街灯に濡れた路面のように静かに光っていた。
見た目には分からない。
けれど中には、細かく刻まれたしめじや舞茸がたっぷりと練り込まれている。
「美味そう。」
少年はそう呟き、箸を取った。
真ん中へ箸先を入れる。
すっと切れると思った。
けれど。
「あ、結構手応えある」
少し笑いながら、さらに力を込める。
柔らかな表面の奥で、肉とキノコがしっかりと箸を押し返していた。
やがて。
ぱかり。
断面が開く。
閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、皿の上に黄金色の輪を描いた。
その瞬間だった。
香りが弾ける。
焼けた肉の香ばしさ。
熱で濃くなったキノコの深い香り。
店の空気が、一瞬でその匂いに染まった。
少年は黙ったまま断面を見つめていた。
そして大きくひとくち。
「……うん。」
もうひとくち。
「やっぱりこれだわ。」
そこから先は早かった。
肉汁が落ちる。
ご飯を頬張る。
またハンバーグを切る。
夢中になって箸を動かす。
店の中には、食べる音だけが続いていた。
ロクは何も言わない。
ただ、向かい側からその様子を見ていた。
外では雨が静かに降っている。
気づけば皿は空になっていた。
残っているのは肉汁の跡だけだった。
「ごちそうさま。」
少年は立ち上がる。
鞄を肩に掛け、入口へ向かう。
靴を履きながら、ふと思い出したように振り返った。
「あとさ。」
「ん?」
「明日、修学旅行の同意書にサイン書いといて。」
「わかった。」
少年は少し考えてから続けた。
「あ、それと。」
「なんだ。」
「今年のケーキ、小さめでいいから。」
ロクは顔を上げた。
少年は照れくさそうに視線を逸らす。
「もう子供じゃないし。」
「そうか。」
それだけだった。
「じゃ、先帰る。」
カラン。
扉のベルが鳴った。
雨音が少しだけ店の中へ流れ込み、すぐに静けさが戻る。
ロクは空になった皿を手に取った。
皿の上には、何も残っていなかった。
ふと視線を上げる。
厨房の隅には、小さな包みがひとつ置かれていた。
包装紙の端が少しだけ折れている。
ロクはそれを見て、小さく息を吐いた。
「……よく食う。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
流し台の横では、刻み残しのキノコが少しだけ残っていた。
店の外では、まだ雨が降っている。
雨音は変わらない。
けれど厨房の灯りだけが、いつもより少し温かく見えた。