甘いのはチョコだけじゃない ―
朝から、厨房に甘い匂いが漂っていた。
嫌な予感は、だいたい当たる。
厨房に入った瞬間、確信した。
「今日、特注多いぞ」
そう言ったのは、**ロク**だった。
貼り紙にはこう書いてある。
期間限定
バレンタイン応援弁当
「聞いてない」
「昨日決めた」
「昨日休みだ」
「だから今日いる」
理屈が少し雑すぎる。
**クゥー**は箱を開けてチョコを確認しようとする。
「触るな」
「まだ触ってない」
「その目が触ってる」
仕込み表には、ハート型、副菜の色付け、メッセージ仕切り、甘味付きと書かれていた。
ロクは小さく首を振る。
「弁当に感情を詰めるな」
でも、イベント弁当には物語が少しだけ必要らしい。
型抜き、色付け、詰め替え、書き入れ。
手を止めると終わる仕事だった。
「誰だこの工程組んだの」
「お前だ」
「俺かよ」
横でロクはチョコの温度を見ている。
「チョコは温度管理が命だ」
「弁当だぞ」
「だから安定がいる」
「何度です?」
「28度に下げて、31度で戻す」
数字が妙に具体的だった。
忙しい日の記憶は、すぐに消える。
クゥーが何かを作っていた。
「何してる?」
「チョコ味噌」
「やめろ」
「可能性はある」
「今日はない」
入れて、焼いて、香りが少し迷子になる。
試食したクゥーが言った。
「二口目はない」
一口目はあったのか。
ピークが来る。
「合格!」「がんばれ!」「勝て!」
メッセージ弁当が次々と出ていく。
「応援されたいのはこっちだ」
「手を止めるな」「止めたら泣く」
受け取りに来た高校生が言った。
「これ、今日渡します」
ロクは包みながら呟く。
「温度は味方だ。冷ますな」
料理人の言葉は、少し重い。
すべて出し終えたあと、クゥーが聞いた。
「ロク、昔めちゃくちゃもらってたタイプだろ」
「否定はしない」
即答だった。
「お前は?」
「ゼロではない」
「何個だ」
「ゼロではない」
今日いちばん甘かったのは、たぶん空気だった。
片付けの前、クゥーが渦巻き状の仕込みを見せる。
「それ何だ?」
「明日の仕込み」
「見たことないな」
ロクは少しだけ笑った。
「昭和ロールだ」
「いじっていい?」
「ダメだ」
「絶対やるなよ」
たぶんやる。
厨房の火は、今日も静かに残っていた。
次回予告
第8話「昭和ロール」
——理屈で巻くか、勘で巻くか。