今村夏子の小説『こちらあみ子』(2011 筑摩書房)は、2022年に映画化された。
作者は2019年に芥川賞を受賞した作家で、『こちらあみ子』はそのデビュー作だ。
この作品では、太宰治賞、三島由紀夫賞を受賞している。
……が、そうとは知らずに本を用意して映画を観始めた。
監督・脚本;森井勇佑
出演;大沢一菜 井浦新 尾野真千子
観る前から、発達障害の少女の物語だと思っていた。
確かにそう言えなくもない。
小学5年生のあみ子(大沢一菜)は落ち着きがなく、授業をさぼったり、さまざまないたずらをしたりしている。
そのことは、母親(尾野真千子)があみ子を叱ることばからわかる。
母親は自宅で書道教室をしており、あみ子の同級生たちも習いに来ているが、あみ子は教室への参加を許されていない。
年子の兄も、あみ子がいたずらをしないよう、一緒に登下校させられている。
そんなある日、父(井浦新)があみ子の誕生日に使い捨てカメラとトランシーバーをプレゼントする。
あみ子は、弟が生まれたらスパイごっこをするのだと言い、「こちらあみ子、こちらあみ子、応答せよ」とトランシーバーに話しかける。
母は妊娠中なのだが、あみ子たちと生まれてくる子の年齢が離れているし、「あみ子さん」と娘を呼ぶので、父の再婚相手なのだと想像できる。
そして、いよいよ母が産気づき、父の車で病院へ向かう。
あみ子たちは、赤ん坊との対面を楽しみに待つ――。
……と、ほぼ30分観て、映画を中断した。
今村夏子『こちらあみ子』(2014 筑摩文庫)
読み始めると、小説の冒頭の部分を除いて、映画はほぼ原作通りに作られていることがわかる。
あみ子の家も、映画は実際の古い戸建てで撮ったようなのに、間取りやつくりが小説どおりなので驚く。
そうして読んでいくと、あみ子の無邪気な行動の結果、家族はどんどん変わっていく。
母は魂の抜け殻になり、兄は暴走族の仲間に入って不良として名を馳せていく。
中学生になったあみ子は、さっそく同級生たちに目をつけられるが、不良である兄の悪名のおかげで、いじめを免れる。
だが、あみ子はときおりベランダからする「霊の声」に悩まされるようになる――。
私は読んでいて、だんだんやりきれない気分になった。
しかし、読むのをやめられない。
最後まであみ子の行動から目が離せないまま、120ページほどの本編を読み終えた。
現実離れした小説ではないが、リアリズムとも違う。
何とも不思議なテイストの小説である。
そして映画に戻り、続きを観た。
小説を読んで体験した不思議な感覚を、映像を通して再び味わっている。
そう感じながら、最後まで観ることができた。
あくまでも原作を尊重し、下手な改変を加えることなく、その世界を忠実に映像化している。
ただ一か所、あみ子が歌う『おばけなんてないさ』に合わせて「おばけ」たちが登場する画づくりだけがオリジナルである。
それが結末のアレンジにもつながってくるが、このわずかな改変は、映画としてのオリジナリティを控えめに主張している。
原作を深く読み込み、その世界をビジュアル化することに徹した作品づくりの姿勢は、今まで観た映画の中で突出している。
その姿勢を貫いて作品を仕上げた監督とスタッフの姿勢に、私は拍手を送りたい。
芥川賞作家今村夏子のデビュー作であるこの小説は、「安易な解決は訪れない」という意味で、エンタテインメントとは対極に立ち、リアリティある世界を描いている。
そのために、この作家は出来事を生き生きと描写し、象徴的な表現は使わない。
だから、映像とは相性がよいのだろう。
このブログでは何度か、「小説という器でしか表現できない世界」(観ながら読んだ 凪良ゆう『流浪の月』)とか、「小説というジャンルのすごさ」(観ながら読んだ 辻村深月『ハケンアニメ!』)ということを書いてきた。
だが、この小説の場合、作家のオリジナル世界でありながら、「小説という器でしか表現できない」とは言い切れない。
そのことは皮肉にも、この小説をリスペクトし、それを映像化しようと努力を傾けた森井勇佑監督のおかげで証明された。
もちろん小説と映画は対立するものではなく、影響し合い、融合し、互いにその表現を高めていけばよいのだから、「映像化と相性のよい」純文学の登場は、歓迎すべきだと思う。
だからこの作品、読んでから観る、観てから読む、読むだけ、観るだけ、いずれも悪くない。
お好みの味わい方で、どうぞ。
ただ、文庫本には他に『ピクニック』、『チズさん』という短編も含まれているので、今村夏子の世界にもう少しハマりたい方にはおススメしたい。