2022年のアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』(監督・脚本;濱口竜介 2021)。
Amazon Prime Videoの見放題に出ていたので観ようと思い、まずは原作を取り寄せた。
村上春樹の短編集『女のいない男たち』。
『ドライブマイカー』はその冒頭の一編で、わずか50ページほどしかない。
そんな小品を原作にして、3時間近い映画ができている。
映画は原作を下敷きにしつつ、想像を広げて独自に構築した物語なのだろう。
そう思いながら、映画を観始めた。
出演は、西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生……。
舞台俳優で演出家の家福(西島秀俊)は、脚本家の妻(霧島れいか)と二人きりの睦まじい生活を送っているが、妻はベッドの中でときおり、頭に浮かんだ不思議な物語を話す。
二人には娘がいたが、幼くして亡くなった。
その悲しみを乗り越えて、今の二人の暮らしがある。
あるとき家福は、妻が若手の俳優と自宅でベッドをともにしている光景を目撃してしまう。
だが、家福は妻を問い詰めることはせず、今まで通りの生活を続ける。
しかしその妻は、くも膜下出血で突然、逝ってしまう――。
何か予感があって、そこで一度、映画を中断し、小説を数ページだけ読んでみた。
すると、やはり妻が死んだことは既定の過去で、そこから物語が始まっている。
このまま小説を読んでしまうと、きっとネタバレになって映画の興を削ぐぞと思い、本を閉じて、映画を最後まで観ることに決めた。
映画を再開してまもなく、家福が真っ赤な愛車のサーブ(SAAB スウェーデン車)を長距離運転し、市内へ入ったところで、音楽とともにキャスト、スタッフのテロップが流れる。
案の定、ここからが本編の始まりだった。
妻を亡くして2年後。
家福は演劇祭の参加作品、チェーホフ作『ワーニャおじさん』の監督を引き受ける。
広島に2ヶ月滞在して、俳優のオーディションから稽古、本番まで取り仕切る仕事だ。
家福は毎日気持ちをリセットするために、劇場から離れた海岸のホテルをとり、愛車で往復する予定だった。
しかし、演劇祭を主催するプロモーターの規定で、万一の事故のリスクに備えて本人の運転は禁止され、ドライバーを雇わなければならないとわかる。
紹介された女性ドライバー渡利みさき(三浦透子)は、無口で愛想はないが、運転は抜群にうまい。彼女の運転ぶりを見て、家福は愛車を任せることにする。
オーディションに応募してきた若手俳優高槻(岡田将生)は、実は妻がかつて夫に隠れて肉体関係を持っていた男の一人である。それを知ったうえで、家福は彼を主役のワーニャに起用する。
舞台のキャストは日本人だけでなく、稽古は中国語、韓国語、さらに韓国語手話と、多彩な言語で展開する。(もうひとつ欧州系の外国語が出てくるが、確認できず)。
その稽古の毎日、行き帰りの車の中で、家福は妻が吹き込んだ『ワーニャおじさん』のセリフのテープを相手に、自分がかつて演じたワーニャのセリフを暗唱する。
それが舞台センスを維持するための習慣だった。
渡利みさきは分をわきまえ、雇われドライバーに徹して何も言わないが、家福は問わず語りに少しずつ妻の話をする。
そして、妻の不倫相手だった高槻とも酒を飲みながら妻の思い出話をするようになるが、秘密を隠し持った同士の本音の探り合いにも見える。
舞台の準備とともに進行していく物語は、淡々としているようだが、退屈することがない。
やがて、寡黙な渡利みさきも少しずつ自分の過去を語り、家福との間には癒えない痛みを抱える同士の静かな共感が流れるようになる――。
物語の終盤、クライマックスとなる舞台の場面。
無言の中、手話で語られるセリフが、深く心に沁みる。
「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう」――と。
観終えて、いくつかの場面が映像的にも心情的にも強く印象に残っている。
いい映画を観たと、素直に言える作品だった。
さて、映画を観終えてあらためて村上春樹の原作を手に取った。
映画のまま、西島秀俊、三浦透子のイメージですんなりと作品世界に入っていける。
設定の小さな違いはあるが、軸となる家福と渡利みさきの距離感は基本的に同じである。
演出家の家福は、死んだ妻の不倫の事実について知らないふりを続けたことに、深い後悔を抱いている。
毎日のドライブの中で無口で運転に徹するみさきが、鏡のように家福の心を写しだしていくのだ。
それだけのシンプルな物語である。
渡利みさきの生い立ちにも何かが予感されるが、語られることはない。
その分、想像の余地が大きい。
この思わせぶりな短編に、濱口竜介監督は想像を掻き立てられたのだろう。
ちょうど小さな貝殻の欠片が核となって美しい真珠ができていくように、想像の世界が膨らみ、やがて結晶化する。
そして濱口監督は脚本を書き、スタッフ、俳優たちを集めて、この映画を創造した。
小説家村上春樹と、映画監督濱口竜介。
優れた表現者たちの幸運な出会い、深い響き合いによって、この映画は生まれたのだと思う。
この作品、私のように「観てから読む」のがおススメだが、このブログを読んだ後なら、「読んでから観る」のも悪くない。
監督の想像の翼が豊かに広がっていく様を、実感できるかもしれない。