又吉直樹の小説『劇場』(2017)は、芥川賞受賞『火花』に次ぐ第2作。
無名劇団の脚本・演出家として、恋人に経済的に依存して暮らす男永田。
彼の才能を「すごい」と無邪気に信じ、尽くす恋人紗希。
映画は、監督:行定勲、主演:山﨑賢人、松岡茉優で、2020年公開。
例によって映画の予告編を観てから読んだ。
恋人紗希は基本、松岡茉優のイメージで読める。
しかし、私の中で主人公永田は、山崎賢人のイメージにはならない。
乱れた長髪と無精ひげでやつしても、山崎賢人の品のよい美少年っぽさはごまかせない。
私小説と思ってはいないが、読みながら私の脳裏に浮かんでくるイメージは、作者又吉直樹に近い。
強烈な内面的個性を秘めて鋭い目で世界を眺めており、笑顔がいつも薄ら笑いにしか見えない。
永田の一人称語りなので、その内面の葛藤はさまざまに語られる。
自分自身へのいらだち、恋人への感謝と申し訳なさ。
演劇への一途な思い、あるいは他人の才能への嫉妬の炎。
紗希とふざけるやりとりや、照れ隠しのように独りでしゃべり続けることば、演劇仲間との激しい応酬など、会話のディテールに迫力がある。
ヒモと彼女、と言えば片づいてしまうシチュエーションだが、“ヒモ男”への偏見をひとまず脇に置いて、素直に物語を追っていく。
すると、永田のことばには心を揺さぶられるし、紗希との恋愛のゆくえはとても切ない。
同棲しているのに性愛的なシーンが全くない点にも、この物語への筆者の思いが伺える。
世間の価値観を超えたところにある、純粋な恋愛を描きたかったのだと思う。
読み終えて、永田と紗希のいくつものシーンが、美しく心に残った。
さて、これをどうやって映画にしたのだろうか。興味深く、AmazonPrimeVideoで観た。
文庫本200ページ余りの中編小説を映画にすると、ちょうど2時間半になるのか、と納得してしまうほど、原作を忠実に映像化した作品だと思った。
観ていると、「あ、この場面は観た」(読んだ、ではなく)と思ってしまうことが何度もあった。
例によって予告編を観てから小説を読んだせいでもあるし、これこそ “カットイメージの効果の証” とも言えるが、原作をいかに映像にするか、製作者たちが腐心した結果だと感じる。
その意味では、原作を読んでいて感じたつらさやもどかしさを、再び味わうことのできる時間だった。
そして、観ているうちに気づいたのが、配役の妙。
松岡美憂は小説を読み始めた段階で適役と思ったが、映画を観ても、まさに紗希そのものだった。
一方、当初、イメージが合わないと思っていた山崎賢人の配役の意味が、映画を観るうちに腑に落ちてきた。
紗希の前では子どものようになってしまう永田。
女を食い物にする、横暴なヒモ男ではなく、誰の中にもある、幼くて弱い、でも純粋な部分を失わずにいる男。
その傷つきやすい心をごまかすことができず、もて余す永田は、素の自分を紗希の前でさらけ出し、紗希の愛の中で幼児のように安心して眠る。
ヨレヨレのシャツを着た、ぼうぼう髪とひげの姿に似合わぬ、山崎賢人の童顔と曇りのない眼が、幼く、優しさに飢えた内面のおびえを、垣間見せる瞬間があるのだ。
小説の主要な部分を占めるドロドロした内面語りがない分、永田の内面は外から観た行動、セリフ、表情から読み取るしかない。
山崎賢人のもつピュアな存在感が、この恋愛物語の純粋さを際立たせている。
そして、エンディングには、小説にはない、というより映画にしかできない巧みな演出があった。
このエンディングを観るためにこそ、冗長とも言える2時間半はあった、と感じる。
小説と同じく、これもまた心に残る、切なく、美しいラストシーンである。