おはようございます。
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【私(自我)】は居ない。
【私】は在るけれど、、、
↑こんなことを言わて、わかりたい!となって
懸命に思考の中から答えを探すが、分からない。
なぜなら、思考と言うのは過去のデーターの集まりであり、過去のデーターに無いものをいくら懸命に探したところで答えは出るわけがない。
だから、わかりたい!わかりたい!と強く望んだところで無理であり、無理なことをやればそれは苦しくなってくる。
例えるならば、イチゴ🍓を食べたことがないのに
イチゴ🍓の味はどうだったか?と頭の中を探すようなものだ。でも、イチゴ🍓は口に入れ、食べればすべてが分かる。
【私】は居ないが【私】は在る、も考えれば考えるほど、迷路にハマる。
結局、私は答えを探すのを止めた。
そして、想念観照を続けた。やったことはそれだけだ。やっていくうちに色々な氣づきがあった。
氣づきとは思い出すこと。想念観照をしていくと凄まじい数のぐるぐると反芻する思考達が自然にというか、勝手に静まっていったのだ。
思考が静まると、頭の中にスペースできて
氣づきも降りて来やすくなる、、、というのか
思考が凄まじ過ぎたから、分かれなかったとも言えるだろう。
どちらにしろ、私にとってはぐるぐる思考が湧かなくなり、無駄に考えることも減り、複雑に深刻にしていた人生がシンプルとなって
気楽さが増した、、、本当にありがたい。
そして、『分からない』と言う思考に氣付いているのが私が在る側。氣づきそのものが私。
合掌(´ー`).。*・゚゚
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