ユダヤ寓話・格言シリーズ | umebociのブログ

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ユダヤ寓話

格言シリーズ

 

過去を記憶する

引き続き起る困難な出来事に悩んでいた

ユダヤの神秘家達は東の方に旅した

そして広い原野で火をおこし瞑想し深い知恵を得て

困難を克服する事が出来た

 

次の世代になった時、多くの困難に遭遇した

そこで先人と同じ場所に行き火を起こせなかったが

瞑想によって困難を克服した

 

そして次の世代も困難に再び遭遇して

先祖の行った場所に行こうとしたが

場所を見付けられず

火の起こし方も瞑想の祈りも出来なかったが

唯一できたのは祖先の行いを

話し合う事で困難から解放された

これはいかに過去を記憶する事が

重要を教える説話である。』

 

日本の場合、広島長崎の原爆投下が史上最大の

大量虐殺であった事実が

アメリカ側の視点にすり替えられ

戦争アレルギーから国防意識がすっぽり抜け落ち

 

台湾を取り囲むシナの軍事演習が

台湾と日本有事に

発展するかも知れないのに

能天気に核廃絶会議に

出かけてしまった岸田首相!

この本の著者は迫る対外危機に目を背け

観念論的な核廃絶を訴えても平和と安全は得られない

 

77年前の同じ過ち繰り返さない為に

唯一被爆国として日本は

核抑止力を保有する

資格があると訴えている

今一度日本の過去(歴史)が

正しく記憶されているか検証すべきである

 

奇跡のナボイ劇場

「1991年ソ連崩壊により独立したウズべきスタの

首都にあるナボイ劇場は

 

終戦時ソ連の捕虜となり【60~100万人】

シベリアに送られた日本人捕虜の内2万5000人が

インフラ整備の為にウズベキスタンに強制移送された

日本人捕虜によって建てられた

 

カリモフ大統領は日本人は恩人だから劇場に掲げる

プレートには決して捕虜と書くなと厳しく指示した

貨物列車で1ヶ月半かけてタシケントに連れて来られた

満州の陸軍航空部隊の「永田行夫」大尉【24歳)を

隊長とする457名の工兵達はソ連革命30周記念周

オペラハウスの建設を課せられた

然しマイナス30度の極寒の中で

食事も満足に与えられない強制労働は苛酷を極め

いつ日本に帰れるか分からない不安に

日本兵達の疲労はさらに重なった

そんな彼らにウズベキスタンの親方カリヤーキは

おい!日本人お前は何人殺した

戦争で中国人を殺しまくったらしいな

お前らはナチスと同じ鬼畜だ!」

と憎しみを投げつけた

 

日本兵はこの収容所に最低2年は暮らすのかと

皆がっかりした

その後 測量、鉄骨組み立て、レンガ積み電気工事など

各自の職歴を基に班分けして建設作業が始まった。』

 

和の団結心

『捕虜達の楽しみは食事だった

しかし黒パン150グラムと

薄いスープなど粗末なものばかりで

到底、食べ盛りの若者達には足りるものではなかった

ある日パンを奪い合う争いが起きた

長田隊長は若い兵士2人をなだめ自分のパンを分け与え

 

みんな聞いてくれ我々の仕事は

劇場を完成させる事だが

本当の使命は無事に帰国し

家族と再会することだ

 

我々は日本人だこんな時こそ

和の心を思い出し全員で協力し合い

気持ちを一つにして欲しい!」

 

永田隊長は食事の量が多いものが少ない者に

分け与え平等になる様にした

その数日後、収容所の所長がやって来て大声で怒鳴った

「ナガタ!食事を分け与えているらしいな

ソ連の社会主義では

働いた者が多く働かない者は

少ししかもらえない!分かっているのか!」

銃口を向けるソ連兵 

下手をすれば処刑される!

長田隊長は動揺せず

もちろん分かっています

閣下一つ質問してもよろしいでしょうか」

「ソ連の社会主義では働いた上で

もらった物は

個人の自由で処分できる

それは社会主義の良い所ですよね」

所長は笑いながら

君のいう事は筋が通っている」

永田「恐縮です

ついでに提案なのですが最初から

平等に配分していただければ

分ける手間が省けるのですが」

所長稲は頷き「考えておこう」

これに部下たちは「やった!さすが永田隊長!」

永田隊長についていけば

生きて帰えれる!

収容所に生きる希望の光がさした。』

 

日本の

誇りを取り戻す

『ソ連は劇場の建設を急がせる為に建築学科出の

「若松律衛」少尉を現場総監督に指名した

然し若松少尉は永田班は一生懸命やっている

姿をソ連に見せつけ自分達の帰国を

早め様としているのは許せないと断って来た

永田「我々はソ連に評価されたい為にやっている訳ではない

世界最高のオペラハウスを作りたいと思っている」

若松『バカバカしいそんな事をして何になるんですか」

 

永田「確かに後世の人々は我々の貢献など

知られる事などないだろうそれでもいい」

捕虜だからと手を抜く事など無く

日本の技術で世界一の劇場を作り

戦争で失った日本人の誇りを

取り戻したいと若松少尉を説得した。』

 

ウズベキスタン人

との和解

『若松少尉が総監督なって建設のスピードが格段に上がった

だが粗末な食事を分け合いながら耐えて来た日本人捕虜達の

疲労はピークに達しようとしていた時

ウズベキスタン人の親方カルヤーキが

おい!日本人これを食えさっさと食え

監視兵に見つかったら如何するんだ」

差し出すパンに長尾清はどうして?と言うと

俺の息子は兵隊にとられナチスに殺された

日本人もナチスと同じ鬼畜だと思っていたが間違いだった

お前達の働きぶりを見ていれば分かる

 

戦争に駆り出され今遠い国に

来ているお前達は俺の息子と同じだ」

そういってパンを日本人捕虜達に配った

 

がりがりに痩せて栄養失調になりながら作業する

日本人を心配する現地の人々が食糧を差し入れてくれた

すると数日後同じ場所に精巧に作られた

感謝のおもちゃが置かれていた

 

この日本人の行為が道徳的規範としの

ウズベキスタン人の間で語り継がれる様になった

世界一の劇場を作りたいという

日本人の思いがいつしか

ウズベキスタン人との

心の垣根が消えていった。』

 

世界一の劇場完成

「劇場完成まじかのある日

永田隊長の部下「長尾清」が高所作業中の落ちて即死した

強制労働の末に死亡させた事を表ざたに出来ない

ソ連は遺体を即座に撤収した

 

然し長尾の死を悼み花を

手向けるウズベキスタンの人々の姿がった

其の2か月後に3年はかかると言われた工期を

大幅に短縮してわずか2年で完成したナボイ劇場は

壮麗な装飾が施され世界一に相応しく

ウズベキスタン人と共に血と汗を流した魂の結晶だった

 

1996年直下型の

大地震がタシケント襲った

街の建物がほぼ全壊する中

ナボイ劇場はビクともせず避難所として

多くのウズベキスタン人の命を救った

人々は改めて日本人に畏敬念を持った

 

日本人捕虜達が帰国して数年後

ソ連は強制労働で死亡させた事実事実を隠蔽する為に

日本人墓地を2つにまとめ他は更地にする様命令を出した

これにウズベキスタンの人々は断固反対して墓を守った

 

今もウズベキスタンの人々は日本人墓地を管理し掃除が

行き届いた墓地には祖国の桜を見ずに亡くなった

日本人捕虜の為に日本から桜を取り寄せ

毎年桜は美しく咲き誇っている

 

初代カリモフ大統領は生前こう言っていた

子供のころ母親に作業現場に毎週連れられその度に

同じことを言われた

御覧 あの日本の兵隊さんを

ソ連兵が見ていなくても働く

お前も大きくなったら

人が見ていなくても働く人間になりなさい」

母の教えを守り大統領になれました。』

 

多くの者が命を落とした強制労働で作られた道路、学校、発電所

工場は今でもウズベキスタンの重要なインフラであり

ナボイ劇場は今やウズベキスタンの誇りとなっている

 

日本人捕虜の過酷な運命は

正にウズベキスタンの人々の

慰めと生きる力となっている

苛酷な運命に打ち勝つ日本精神を知ったウズベキスタン人は

日本を見習えを合言葉に新国家建設を進め日本に成ろうとしている

 

我々は祖先の苦難を

体験するは事は出来ない

然しユダヤ寓話の様に

先祖の生き方を知る事によって

 

失っていたアイデンテイーを蘇らせ

日本を復興させる事が出来る

その遺伝子を我々は受けついでいる!!