"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -7ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

10月12日、日曜日、仮庵の祭りの6日目になります。

 

レビ記23:39 あなたがたが、地の産物を集め終ったときは、

七月の十五日から七日のあいだ、主の祭を守らなければならない。すなわち、初めの日にも安息をし、八日目にも安息をしなければならない。

23:40 初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、

茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、

七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。

23:41 あなたがたは年に七日の間、主にこの祭を守らなければならない。これはあなたがたの代々ながく守るべき定めであって、七月にこれを守らなければならない。

 

第七の月、聖書の暦の15日。この日は必ず満月になる日です。

毎年、この日はグレゴリオ暦では変わります。大体9月終わりから10月です。来年は、9月26日、金曜日日没。
丁度、週一度のシャバットと重なる日が、仮庵の祭りの最初の
日になります。
חַ֣ג

ハグ=祭り、英語ではfeastと訳されていますが、ハグとは、

都上りの祭りのことです。全部収穫祭でもあります。

 

1)過越の祭り 2)シャヴオート 3)仮庵の祭り

これら3つは、1)過越 救い、購い 新しくされ神のものとなった。大麦、初穂に連なる〜新しくされた人が、生まれて
成長する道に入ったことを表しています。
2)シャヴオート 神に娶られた人は、神の家に住う婚姻契約=家訓を与えられる。小麦の初穂、収穫祭。
最上の小麦に今度はパン種が加えられ、神の前に捧げられる。
新しくされた人、神の性質を与えられた人を表しています。
神の家に娶られた人は、異教の神々の教えに生きて来た時とは違う、神が教える生き方、トラーを1から教えられる!
これが、神が与えた婚姻契約、文字で記されたトラーです。
エデンの園から、口頭で、神に選ばれた個人個人、
アダム、ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフ、
イスラエルの12兄弟、皆同じトラーを聞いて、そしてイエシュアを知っていたのです。

アヴラハムは、イエシュアを知っていた、イエシュアと個人的に出会っていたでしょう。
アヴラハムを通して、信仰義認は、最初から教えられているのです。
神の言われたことを、その通り認め、受け取り、信じて生きた。アヴラハムが神の言われたことを受け取った、これで
アヴラハムが義とされた!とあります。

エデンの園のアダムとハヴァも同じです。神の前に、罪を告白し、そして神の目からみる通りを一緒に見た!許されたのです。そして、義とされ、神が屠った動物の毛皮を着せた、
義の衣は最初から教えられているのです。
神の義に覆われる。子羊の血の代価は、永遠に屠られて用意してされているからです。

こう考えているでしょう。イエシュアが地上に来られるまで、救いもない、購いもない、助けもない。
聖霊も内側に住まわない。神との関係もない。
聖書を読めば、そこに書かれている残りの民は、神を深く知って、関係を持ち、神と対話し、聖霊が内側に住まわれている
事実がはっきり書いてあるではありませんか!
生贄を捧げてかろうじて、仮に許された、厳しい律法を生きて義とされていたなどなど。
でも、神殿、ミシュカン、神の祭壇にコルバンを捧げることが
できた人は、極々ごく少数であることを知ってください。
なぜなら、神の祭壇は神が決めた場所、ミシュカンの中、
固定的神殿では、エルサレム以外にないからです。
神の家を通して、全世界へ、神の家に住う人の生き方、イスラエルの神が誰かを教えているのです。

神の教えも、救い、購いも、許しも聖霊が住うことも、最初から同じである!と言うことに聖書から気がついてください。
イスラエルの神は、2000年前迄人を放置し、厳しい掟、
律法で人を縛り付けていた、怒りの神!時代ごとに変化する
気まぐれな神、古代の人を見捨てているケチ臭い神!
と言う
偽物イスラエルの神像を刷り込まれてしまって、そしてローマ皇帝の勅令で神のトラーを生きること、記念日を祝うことを
禁じられた!と言うことを、全く知らないまま、西洋教父、
オーガスチンやら、ルター、ダービー達が語る、聖書ではない聖書解説を聖書と教えられてしまっているから、聖書に記されている事実は目の前にあっても読み取れない、何が書いて
あるのか言語、当時の様々な情報に欠けて、西洋宗教の伝統の
教え記念日を空想して読み込みしているから、見えないだけなのです。

 

ヘブル 1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、

 1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、

また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

 

<文字で記されたトラーが与えられる迄は、神の教えはエデンの園から口頭で伝えられました。口頭で伝えると言う方法。

そして、文字で記されたトラー、そして、預言書、諸書を書いたのは、ユダヤ人の神が選んだ預言者です。預言者を通して

伝えられた神の教え。

そして、その中に書かれているメシアが、神が創造された神の

性質通り=イエシュアの性質通りの人はどう生きるのかと言うのを、イエシュアを通して語られ、イエシュアが生きた!と

書いてあるのです。>

 

これと同じように、ヨハネにも記されていますが、

クリスチャンが多大に誤解している聖書箇所でもあります。

ヨハネ1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。

先ず、律法とは不適切な誤訳です。本当の言葉はヘブライ語の

トラー=神の教え、インストラクションです。

神の教えは、モーセを通して神から与えられました。

神のトラー=婚姻契約は、人を義とするために与えらたもの

ではありません!神に義とされた、神の元に戻った、娶られた人に与えられた、神の家に生きる家訓を与えられたのです。

 

トラーに記された人の本来の生き方、神の戻った事実、救い、

購いの事実、実態、命は、イエシュアご自身を通して、永遠の中に屠られた子羊を通して来た、与えられた!とあるのです。

正しく読み取ってください。イエシュア、神以外、イエシュアを通して以外、誰も神の元に戻れない、誰も人に命を与えられない。肉体的な命も、霊的な命も、両方、人間由来では生まれてこないでしょう。

全て命の源は神、神の言葉から発生しているからです。

イエシュアの完了の業を通して以外、本来の自分を取り戻す術はどこにもない。人もできない。それは、何かを読んで、

何かを生きて、手に入れることではないからです。

 

これを、クリスチャンの世界ではこう解説します。

古い律法=人が生きられない律法は、キリストが来られる迄

与えられた代替え策であり、キリストが来たので、律法は廃れて、今度は神の言葉ではなく、聖霊により生きる時代になった?聖書にそんなこと、どこにも書いてもないのに、そう解説しているのです。

そして、キリストが来られたので、律法は廃れて、初めて聖霊が人の内側に与えられたので、聖霊時代になった。

神の教えは、その人の判断で捨てて、生きなくて良い。

自分のフィーリング、と迄は、言わないけれど、事実上同じ、人が判断の基準になり、神の言葉ではなく、聖霊に示された

と人が思う事を、その人が考えて生きる時代になった!と

言いますが、これ本当に危険な教えです。

 

神の言葉を捨てる、イコール、神の言葉=聖霊=神=イエシュアですから、聖霊が教えている教えを捨てて、自分の感覚、

自分の悟り、思いつきで、生きて良い?神の教えを捨てて良い何のこっちゃっ!て言う教えを、教えているのは、

その大元、原因は、神の仰せ、教えなどではなく、ローマ帝国皇帝達の、トラーを破棄せよ!生きるな!!!と言う勅令なのです。

イエシュアではない本体=ローマ帝国の教えに繋がり、神が

教えている通り、神の現実を正確に地上に映し出す影ではなく、勝手な動き、映像を映し出してしまっているのです。

 

人間が編み出した大嘘、神に対する冒涜、人を危険な目にさらす教え、境界線を破り、安全な囲いをぶち壊し、家の壁に穴を開けて、罪をどんどんどんどん家の中に取り入れているのです。

 

その果てが、牧師、教師、教皇が称賛する、LGBTQです。

世も末!神の前に死に匹敵するこのような罪を人に教えながら

イエシュアの名を口にして、聖書教師だと名乗る。

おぞましい行為!とも、気がついていない。

それ、聖書=神の言葉、教えでは、偽の教え、偽教師と判定されます。

善を悪、悪を善と言うとイザヤが言った通りのことを、

行うのは、全て、神の教えを捨てている代償だからです。

 

人間の基準で、神の教えを判定、捨てて、付け足し、差し引き

勝手にやって、神の教えや記念日を捨てて、ローマ帝国の

作った代替え、教え、コピーは、熱心にやっているのに、

全く気がついていない。

それが姦淫の罪、大淫婦、 バビロン、反キリスト、獣の刻印

様々な言葉で説明されていることなのに、 クリスチャンには

その意味は通じていないのです、。


3)仮庵の祭りは、婚約期間、花婿と直接住まわない場所に
花嫁としてのステータス、聖霊が内側に既に住まい、そして
花嫁も神の中に取り戻されている。その花嫁の所に、花婿が来て出迎え、そして婚姻の宴が盛大に開かれ、永遠に共に住う。
イエシュアがエルサレムの神の家から全世界を統治し、
神の義の御座=トラーが神の国の憲法、家訓、それを全ての人が生きる時代が到来する。
1年の全ての収穫が揃うと言うこの時期の意味、毒麦と本当の
麦、収穫とは、神に属する人全てが集められる!ということを
表しているものなのです。


神が創造された神のモアデイムは、人が作った記念日より、
遥かに優れていて、その中に、神の教えの全てが網羅されています。

神のアポイントメントの日、祭りで、全て預言的、福音、
イエシュアの業、人類の歴史、そして未来の全てを網羅する
ことを、表している神が創造された祭りなのです。

神は、神が創造された日、聖日に人と特別な出会いをしよう!
神の前に喜び楽しんで!と書いてあるのです。
他の日は普通の日。神と特別な会見が出来る日、神が呼び出している日などではありません!それが神が伝える事実。
いつでもなんでも良いと、神が言ったと誤解しているのです。
そんな事、神は言いません。人との会見でも、決まった日が
あるでしょう。いつでも誕生日、結婚記念日ではないでしょう。

創世記 1:14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって
昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
季節と訳されている言葉は、モアデイム=アポイントメントの日、神が設けた神が創造された、人と特別な聖なる会合、
祝いをする日を教える目的で創造されたと書かれています。

3つの祭りの他の日は、ハギム(複数)都上りの祭りではないですが、聖日です。そして、祭りを含めて全ての神が創造された聖なる会合の日を、モアデイムと言うのです。
神が創造された他のアポイントメントの日は、週一度、
第七日目のシャバット。新月、種無しパンの7日、過越から
3日目の初穂の日、そして、秋は、ヨムテルア、角笛を吹く日。第贖罪日です。

そして、シャバットが、モアデイムの全ての中心です。
神が創造主であること、人は神が言われた通りを聞いて生きること、人は、神が神であることを知り、認め、神を神として
崇めること、それが本来の関係だからです。

人間が神の上に立つ、部下が上司を仕切り、あれこれ上司に指示を出し、命令するなど、そんな事あり得ないでしょう。
創造主が居られて、創造された人、そして人の為に創造された世界の創造物が用意されているのです。
神が創造された世界を、神が人に伝えているのに、人間ローマが勝手に神の言葉を塗り替えたのです!
それらを、神が言われる通りに、生きて、治めるのに、人間が
神に対して、言いたい放題、やりたい放題、勝手、自由自在に物申し、神の教えを勝手に塗り替え続け、そんな冒涜をしながら、神を崇めているつもりでも、結局人間が主体!神の言う事など無視!
ローマ帝国、人造の教えに忠実でも、神の言うこと、教えなど退けているでしょう。
その証拠に、異邦人の世界では、神の教えは破棄された!と
言い続け、そして今再臨を準備して待つ、預言的祭りである
イエシュアが教えて、祝うようにイエシュアの口から言われているシャバット、祭りを、祝わない。
今も仮庵の祭りの7日間なのに、クリスチャンの間では、
そんなことなど全く認識されてもいない、語られるのは、
ローマ帝国皇帝が作った日曜礼拝、クリスマス礼拝、異教多産の女神イースターの祭り、レント、四旬節、万聖節など。
聖書にない記念日を、熱心に祝っているでしょう。
なんか変!と気がついた大勢の異邦人が、神の言葉に戻り
生きる、イエシュアが生きた通り、教えた通りを生きる!と
いう軌道修正を、全世界中でこぞってしているのです。
イエシュアが来られる日が、日々、毎日近づいているからです。