聖書に書いてない、事実ではない教えの全てを一掃しないとなりません。
神の教えには、クリスチャンの世界で語られるように2種類など
ないからです。1つだけ!そして、クリスチャンが教えられているように、神の言葉は分解できない。人が付け足し差し引きできる性質ではない。
全部丸ごと繋がって、神の教えであり、全てを通して、人がどう生きるのかの完全版である教え、神の考えを人に伝えているものだからです。
新しいパソコンの機能のマニュアルを全部知らなくても、その機能は
パソコンに搭載されています。それを知ろうとする人、しない人と
同じです。神が創造された人の生き方の、ほんの一部しか理解していないのは、神の教えを捨てているから、それが本当の問題なのです。
そして、永遠をかけて神の言葉を通して、神を知るのに、
その手がかりを捨てるように教える、イコール神との希薄な関係に
陥ることを、やらされているのです。おかしいでしょう。
神が寝ても、覚めても神のトラー=教えを考えて、思い巡らして
右へも左へも逸れるな!と教えているのに、教師が、神の言葉を捨てよ捨てよ!と言い続ける。誰の声?エデンの園のあの動物の声です。
イエシュアが教えられた父の教え=トラー=婚姻契約=モーセの五書に記された神の教えの完全版以外にない!
神の言葉に付け足し、差し引き、削除、終了、破棄した教えなどない!このような偽物の教えが横行し、20世紀近くも浸透したのは
ローマ帝国のなせる技なのです。
同じ契約〜シナイ山で与えられた契約は歴史の節目で再更新され続けています。
そして、イスラエル、異邦人、全てもれなく、神との関係に戻る
それは、永遠の中に既に屠られて完了している神が提供した子羊の贖いの代価を通してのみであり、父の元に戻った人は、肉的生まれが
ユダヤ人だけではなく、異邦人も同じ神の家の家訓〜婚姻契約に
根付いた生き方をする!とずっと教えているのに、通じていないだけです。
問題は、聖書読む読者の側の理解力です。理解力というより
聖書を、人間の思想で曲げて、歪めて、終了させて、好き勝手に神が
伝えていないことを根拠に考え続けている、それをやめないと
神が伝える真実は把握できないままになります。
これ当然でしょう。人の書いた手紙や書でも、著者が意図していない
ことを通して、読み替えたら、書いた人の考えはその通りには
読者に正しく伝わらない、それが起きているのです。
粗雑ないい加減な聖書の学び、聖書とは違う思想を通して語る聖書
解説のせいです。
教師は、注意深い、正しい学びをしないまま、勝手な思想、自分が
気に入り受け入れられる思想を語ってはならないのです。
聖書を書いた著者が意図する通りを、言語から、当時の読者が理解していた通りに学ばないならば、それは、どんな思想、解説でも
編み出せてしまいます。それが問題なのです。
モーセが最初に契約を受け取る時に既にイスラエルは契約を破り
その結果、直ぐに再更新されました。
1)第一の更新 ― 金の子牛(出エジプト記34章)
モーセは金の子牛崇拝(出エジプト記32章)により最初の石の板を
砕いた後、神は彼に二枚の新しい石の板を切り出すよう命じました。神はそこで契約を改めて確認し、「10の言葉」を書き直したのです。出エジプト記34:1-28
2)第二の更新は、―モアブの平原(申命記29~31章)
約束の地に入る直前、新しい世代が契約に、忠実に生きるよう
神から教えられました。
神の言葉、教えに根付く、イコール安全に守られる、鎧兜を脱ぎ捨てるな!という警告です。
付け足された教えは、約束の地に入った上での必要事項があるからです。神の教えは変わっていません。
3)ヨシュア24:1−28シェケムでの契約更新です。
このシェケムでは色々なことが起きています。
この点も又深掘りすると、見えることがたくさんあります。
この箇所では、ヨシュアが死を前に、イスラエルの民に偶像を取り
除き、神に仕えることを再決断させています。
ヨシュアはシケムにイスラエルの部族を呼び集め、
これまでの神の救いの歴史を語り、主(神)のみに仕えることを
民に誓わせ、約束の地で再び契約を更新しました。
4)列王記下23:1−3
ヨシア王の時代、トラーの書が見つかった後に民と神との契約が
再確認されています。
5)ネヘミヤ9−11バビロン捕囚から帰還した後、エズラとネヘミヤが民にトラーを読み聞かせ、契約に署名して更新しました。
6)過越の祭りの晩餐の儀式を通して、出エジプト6:6−7にある
意味をイエシュアがそれを地上で証明する時が来られたその時に
同じ契約を、弟子達に対して再更新されたのが最後の更新です。
これらの場面は、いずれも危機的状況や重要な転換期において、
イスラエルの民が神の民、聖別された民としてのアイデンティティ
生き方を、神の言葉に忠実戻り、取り戻すために行われました。
歴史の節目で行われた同じ契約の再更新ですが、神の契約、教えの
中身は変化していません。
同じシナイ山の契約=トラーなのです。それを、新しい、イコール、シナイ山とは別ものの神の教えなどと、聖書に書いてもない空想を
根拠として聖書解説をするズレ、歪みの方を修正しないとならないのです。
そして、異邦人は、永遠に契約を受け取る代表とはならないし、
異邦人にシナイ山とは別の違う教えや契約なども、神は与えていません!聖書に書いてないこと、根拠がないことを、語るのはやめてください。
1つの家族は、神が与えた同じ家訓を生きる!とずっと神が教えているのに、聖書の記述を正しく読み取らない間違えの方を正さなくてはならないのです。
読めば分かるでしょう。ユダの家とイスラエルの家に与えられる
再更新された契約!とあるのです。
異邦人に別の契約を与える!などと、書いてません!
同じシナイ山の契約が再更新されるからです。
エレミヤ31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家と
ユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
ここが重要であり、誤解した読み込みが続けられている聖書解説を
正さなくてはなりません!
クリスチャンは、神の教えは厳し過ぎて生きれない!という
神が言われることとは、真逆、全く違うことを主張し続けていますが、聖書に根拠のない教えの一切を削除してください。
神は、神の教えは、神が創造された人の性質そのものだから、
腹に記されたトラー、DNAだから、生きるのは難しくない!と
はっきり教えているでしょう。
その神の口から出た言葉を、西洋宗教を教える教師が否定している
だけなのです。申命記30:11−15
31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
これは、シナイ山の麓でモーセが山頂=天の中に入り直接イエシュアと会見し神の契約を受け取る時に、イスラエルと少数の異邦人が
契約を破り、金の子牛を神に仕立て上げ、それを通してイスラエルの
神を礼拝、祭りをして裏切ったことを言っているのです。
夫=イスラエルの神が言われることではないことをした!
この契約は〜 エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではないと読んで、シナイ山の契約とは違うと読み違えているでしょう。
神は、それらの契約を受け取った時の人々の状態を話しているのであって、神の契約の中身が変わるなどと一言も語っていません!
エレミヤの言葉を読んだ当時の人も、現代のクリスチャンが主張するように、シナイ山の契約破棄して違う契約などと、考える人は一人
もいません!聖書に書かれている内容の読み方が間違っていることに、気がついてください。
神は、契約を結んだ主は、契約を変えない!と言われている事実が、どうして聖書に書いてあるのに見えないのでしょうか?
人間が契約を破り続けるだけで、神は永遠に神の結んだ契約を変えない、破らないと言っているのです。
シナイ山で、契約を受け取った人たちは、どういう状態だっと説明
していますか?
夫である神の言うことを聞かず、人間の宗教の教えに聞いて、契約を破ったのです。
エジプトで培った異教神信仰の方法で、イスラエルの神を拝んだのです。
神の教え=考えを理解しない、頭脳に割礼がない状態のことを話しているのです。
この点、パウロが手紙の中で語る内容をぴったりマッチしているので
覚えて置いてください。
頭脳に割礼のない状態、生まれたての赤子で、神の教えを正しく
理解していない、悪い地=頭脳に神の教え=種が根付かない状態のことを話しています。でも、未来、再更新される契約を受け取る人たちの状態はどうなると書かれていますか?
エレミヤ31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしのトラーを彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となると主は言われる。
「それらの日の後」、この表現はヘブライ語でよく出てきます。
このように、神の教えを理解しない状態であった、その後に
イスラエルの家に立てる契約=同じ契約ですが、それらを受け取る人の側、内側が変わっていることが書かれているのです。
これパウロがずっと解説している内容でもあるのです。
クリスチャンが、多大の誤解した聖書解説をされている点でもあります。
文字は殺し、霊は生かすと聞いて、神の教えは人を殺し、霊は人を
生かすと意味不明な解説だけを、聞かされているでしょう。
一体何を言っていると思いますか?
命のない状態は死です。動きません。
枯れた骨、死んだ人を生かすのは、文字ではありません。
神の命=イエシュア=聖霊の実態そのものです。
文字を読んでも、人は生き返りません。
どう言うことかというと、もし、神の言葉を受け取り、その通りに
信じて、新しくされた人の実態を受け取り生きるなら、そのような
状態の人は、霊により生きることに移行したのです。
これクリスチャンも理解出来るでしょう。同じでしょう。
文字が人を救ったのではなく、文字で書かれた神の実態を、
文字を通して受け取る人が理解し、神の言葉が伝える事実を信じ、
受け取ったら、聖霊が内側に働き自分が変えられることが起きる。
これは、日々同じです。スタート地点は、生まれると言うことですが
日々、神の言葉を読んで、その通りの実態を信じて、受け取り生きる
励まされる、暗く沈んでいたのに希望を持つ、力を与えられる
これが、命=聖霊によりされるのです。文字そのものではない
それをされるのは、文字で表されて教えられている、神の実態=
聖霊そのものができるのです。分かりますか?
文字で記された実態を内側に受け取る、それを「霊」と言っているのです。言葉=霊だからです。
文字は、実態として受け取った時に稼働するのです。
フリーズドライの乾燥したものを、水につけたら食べられるものとなるのと同じです。水〜命を注入されることです。
文字で書かれた意味を、その人が受け取る。これイエシュアに出会う時も同じです。イエシュア〜神、道、真理、命と発見する!
それは、神が伝えた事実を、人が真実であると気が付く時に、
神に出会うことが起きるからです。
神が、神のトラー=教えを、人の腹の中、頭脳の中に書き記す!と
言われている意味は、字面ではなく、神が伝える通りを理解して
裏も表も知り尽くして、それがその人の思想、生き様そのものに
なることを話しているのです。