"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -8ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

これから神が創造された秋の祭り、一年の最後を締めくくる祭り

そして、新しい命のサイクルが始まる、農業も新しい新年度を

迎える時がやって来ます。

 

異邦人クリスチャンの中で、信じた最初から聖書通りの教え、

イエシュアが教え、生きて、祝った通りのものを教えられたと

いう人はいないと思います。

これを先ず、不思議、本当に疑問に思わないとならないのです。

イエシュアが来て、古い教えを破棄したと言う、人類最大の

大嘘中の大嘘こそ、追放、破棄されないとならない偽情報だからです。

もしそのような異邦人が居たとしたら、それはキリスト教、

カトリックなどではなく、ユダヤ人の背景がある生まれで

ユダヤ人イエシュア信者である人達の中に、生まれたか、

親がユダヤ人でそのような生き方をしているか、それ以外

異邦人でそのようなことを教えられた人はいないと思います。

神は、異邦人とユダヤ人とで、別の福音、別の教えをしましたか?していません!

 

異邦人の世界では、信じた最初から、聖書を読みながら、実は

その聖書解説や実践は、ローマ帝国が作った人造宗教の教え

聖書にない教えが教えられてしまったものを聞かされ、

やらされて来たのです。

 

だから、聖書に記されていること、預言者や、イエシュア

使徒、パウロや1世紀の人達が生きていた神の教えや、その実践、生き方、

記念日とは異なる、違うのです。

聖書に書いてもない事を、異邦人の間では語られ、聖書ない

人が作った別の記念日を、神の記念日だと主張して祝っているのです。

詰まり、聖書に書いてないことを、信じて、実践しているのに

それが聖書だと思う、裸の王様の服、空気椅子を信じているのです。

聖書を読んでいるから、純粋な神の言葉の解説を聞いていると

思っていましたが、実はそうではなく、人間が作ってしまった

存在してはならなかった宗教の思想を土台とした聖書解説、

実践、儀式、記念日をしていたことにはっきりと気がつくのは、神の教えに戻り、書かれている意味を正しく、注意深く学ぶことを教えられる教師がいる人です。

 

そして、ローマ教で語られるメシア、イエシュアは聖書に記されたヘブライのユダ族出身のメシア、イエシュアとは異なります。

同じ神、1つの神しかいないけれど、聖書=神が伝える教えや

メシアと、ローマ帝国教、人間が作った宗教が主張する教えは

違う、真実ではない教えが土台で、最初から歪んでいるのです。

 

そして、神はクリスチャンの世界で教えられているような、

今はいつでも安息日、いつでも聖日、人が自由に選んで礼拝する。

礼拝の意味も、クリスチャンの間では正しく教えられず、

礼拝イコール日曜礼拝、クリスマス礼拝、イースター礼拝などと

空想して考えているのです。

 

それらの人間が勝手に作り替えたものに対して、それらは

その人が聖別を汚し、同時に神を汚す行為だ!と厳重警告されていること、神の教えを捨て去る人には理解できないのです。

 

神の言葉を捨てる人は、神の教えを勝手に作り替えてそれが

今の時代の教え!と信じています。

神の言葉を捨てる人には、神が何が罪、ズレであると教えているのかも、気がつけません。

神の言葉を捨てる人には、罪の定義も捨てて、何が神の前に罪なのかも理解していません。

もし罪が何なのか、神の教えを正しく理解しているならば、神が禁じる罪を日々生きることはやめるでしょう。

神が伝える神の子らの生き方、印、聖別の定義、神ご自身が神の子ら全員を呼び出している特別に会見するアポイントメントの日、モアデイムが書いてあるに、それらが何でいつなのかも、

イエシュアを信じているののに、分からない状態のままです。

変でしょう。イエシュアを信じていると言いながら、イエシュアが設けている特別なアポイントメントの日を知らないのです。

その理由は、簡単!聖書ではなく、人間の作った混ぜ物宗教の

教えが聖書と勘違いしている教えを、ローマ帝国時代からずっと

異邦人の間で教えられ続けているからです。

イエシュアが過越の祭りの晩餐で伝えた遺言さえ、意味が響いていないのです。

過越の祭りを皆で祝うたびに〜と言っているのに、意味が通じていないのです。

 

神のシャバット、新月、春の過越の祭り、秋の仮庵の祭り、

私自身も、それらが何なのかも、18年前迄全く知りませんでした。本当に不思議です。イエシュアを信じながら、実は別の主人

偽物の主人、人間が作ったローマ化けした別のメシア象、

人間の作った教えや、記念日を実践して、それが神が認めて

人に教え、提示している記念日だと信じて疑いませんでした。

 

聖書に書いてあるのにも関わらず、それらがイエシュアが教えられた教え、記念日であるのにも関わらず、それらが何かも分からないまま、意味不明な聖書の読み方をしていました。

聖書に書いてあるのに、神が呼び出している記念日、聖日、祭りがいつなのか、何なのか、どう祝うのか、いや永遠に祝われるわたしの記念日と書いてあるのに、それを字面だけ読んで、

それらが日曜、クリスマス、イースターと変換して読んでいる

めちゃくちゃな思考回路でいました。

 

イエシュアが処刑された時が過越の祭りであるのに、このように弟子達と最後に過ごしたのが神の祭り過越の祭りの晩餐なのに、それらが単に聖餐式にしか見えないでしょう。

おかしな現象なのです。イエシュア、聖書が教えている永遠に

祝われる神の記念日を、ローマ帝国が帝国市民全てに捨てるよう強制命令させた結果、異邦人クリスチャンは、神が創造され神の子らを招いて永遠に祝われる「わたしの記念日」と神が紹介しているのに、その意味さえ読み取れない、教師からも教えられないまま、ローマ教、ローマ帝国皇帝、よその旦那が作り替えた

よその主人の日、日曜礼拝、クリスマス、イースターを、

神の記念日を捨てて、代わりに皆祝わせられている。

 

人間が作った記念日が、今の時代の新しい、キリストを知る人の最新式の記念日だ!などと、ローマ帝国創造のコピー品が聖書、神の仰せであると疑いもなく信じているのです。

神はそれで良い!と言っているとまで、教えられているでしょう。聖書の警告を、全然読み取っていない状態なのです。

 

そして神は今は、いつでもシャバット、なんでも良いと

言っているのだと、パウロが言ってもいないことを言った言ったと言い続けて誤解して、そう信じ思っている。

本物が分かると、偽物を本物というのがバカバカしいというか、

神の前に罪である!と神が言っている意味がはっきり理解できるようになります。それらを、姦淫の罪!高き所の礼拝と、神が

警告し、しかも、イスラエルが追放された原因は、神の婚姻契約を捨て神のシャバット、祭りを汚し、異教の神々の礼拝と交わり合い、イスラエルの神を礼拝したからと書いてあること、聖書から読み取っているでしょうか?

それが何?ですよね。知識の木から食べただけ。それが何?

でも死と罪が入り込んだ、その原因は、神が禁じたことを人が

踏み越えてはいけない領域、簡単に踏み越えられること、

それをしたからです。

 

神の教えを捨て、神の創造された記念日を捨てること、

それが神に対して冒涜、反逆であること、聖別を汚す行為で

神に対してひどい行為であることを、聖書から正しく理解するなら、どうするのか?

神が言われることが、永遠不変の真実で、その意味をそのまま

受け取り理解しようとしない、神の言うことを取らないから

神が言われることが、いつまで経っても、神の言葉を捨て去っている人には、通じないままになっているだけなのです。

 

神の教えや記念日を捨てることが良いこと、隣の主人が作った

別の記念日に招かれ参加し祝うことが最新式の教えだ!ずれた

ことをし続けている、それは神の声、仰せせではない事が聖書の記述から分かれば、驚愕します。

しかも神は神の記念日を汚す事、厳重に警告呼びかけています。

 

イスラエルが通ったズレた道。神の契約=トラーに外れた生き方をしたことが書かれていますが、これは異邦人に対しても

全く同じ警告なのです。

それが見えないのは、イエシュアが来られた後に別の教えをしている!異邦人には関係ない教えだ!と言う、空想、架空、人間の

教えを信じ、神の言葉を捨てて信じているから、神の教えに外れた

生き方をしていることへの警告が全く通じていないのです。

もし、異邦人には関係ない教えと言うならば、それは神が提示した婚姻契約の生き方から外れる、イエシュアが言われた無法で

あり、あなたとわたしは関係ない!婚姻契約に基づき関係を結んでいる間柄ではありません!と言われていることに気がついていないのです。

勝手すぎるでしょう。人間が神の教えを、神になり代わり平気で塗り替え、自由に選択して生きる。これは、実際に人に取り、

害毒で、危険な生き方と警告されているものなのです。

だから、何十万という宗派があるのです。

神の教えは1つなのに、神の教えを変えて良いと考える人は

次から次へ聖書とは関係ない教えを編み出し続けて、果ては

罪そのもの、神のデザイン、命の根幹を否定する、塗り替えるLGBTを賛同する教師、牧師、もう無法地帯で耐えられない。

そんな教えをするという意味は、イエシュアの顔に泥を塗る行為そのものです。

神の教えを捨て去る行為も、実は同等に重たい罪なのです。

神の教えを捨てる人は、考えがゆるい。ゆるいとは、神の言葉が

絶対という真実から離れて考え、危険状態なのです。

詰まり、最初の契約は廃れて破棄され、イエシュアが来られたら

別の楽な教えを与えられていると言う聖書とは違うことを

教えられているので、それが聖書に書いてもない教えと分かっていないのです。聖書には最初から最後まで同じ教え!

同じ警告、同じ1つの大家族、兄=イスラエルも弟=異邦にも

同じ教えが語られていると言うことが、全く見えていないまま

昔の出来事、他人事のように聖書を読んでいるのです。

イスラエルが通った道、過ち、全て異邦人も同じように今辿っているのです。

どの時代にも神の教え=トラーからズレて、偽物の教えに混じる

姦淫の罪を犯しながらイスラエルの神に近づく、礼拝することに対しての警告は全く同じです。

 

人ごとのように聞こえる、神の教え。実は自分自身に今言われていることであること、気がつかないまま素通りして読んでいる、

遠い昔の厳しい律法を与えられたイスラエルへの警告だ!

くらいに読んでいるのです。

今、一人一人に同じように神は同じことを神の永遠不変の言葉を通して教えて、注意喚起をしているのです。

油がない〜=トラーを捨てて生きていない。眠っている花嫁とは神の言われることに注意を払わない状態。頭脳が神の教えに対して無感覚、眠った状態である!と10の乙女のたとえ話を通して

イエシュアが教えている意味が通じていないのです。

 

エゼキエル 20:5 かつ彼らに言え。主なる神はこう言われる、

わたしがイスラエルを選び、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地でわたし自身を彼らに知らせ彼らに誓って、わたしはあなたがたの神、主であると言った日、

 

<異邦人でも、エジプト=偽の主人の奴隷状態から贖い出された

ことを、イスラエルの辿った歴史に重ねて、同じことを教えているのです。だから、イスラエルの神が、私の神、あなたの神と

イスラエルと同じようになって下さったのです。>

 

20:6 その日にわたしは彼らに誓って、エジプトの地から彼らを

導き出し、わたしが彼らのために探り求めた乳と蜜との流れる地、全地の中で最もすばらしい所へ行かせると言った。

 

エジプト住んでいない、イスラエル、ユダヤ人でもないと

読むなら、神に何を教えられているのか全く見えなくなります。

イスラエル=大家族の長男、そしてイエシュアが筆頭、そのお方に繋がる人は、全て同じ体験をしているのです。

場所は違う、時代は違う、でも全て奴隷、エデンの園から出て

奴隷で、エデン=喜び=神の中の外側に飛び出て閉じ込められ

神から切り離されて生きてきた。

約束の地は、神の中に住うこと、未来エルサレムにイエシュアが

戻られること、全て網羅しています。

私達も、今目に見えない神の国に住う迄、約束の地を目指して

荒野で神と共に生きている!その旅路の途中であることが

聖書に記されているのです。同じです!>

 

20:7 わたしは彼らに言った、あなたがたは、おのおのその目を楽しませる憎むべきものを捨てよ。エジプトの偶像をもって、

その身を汚すな。わたしはあなたがたの神、主であると。

 

偶像とは、形、目で見えるものです。自分の中にある考え、

思索、意識、自分よがりの思想が神像が形になったものが偶像です。

既に自分の中に、偶像という思索が最初に存在しているのです。これ、偽物の教え、人間が作り出した教えへの警告なのです。

神の教えではない、人が作り替えた聖書ではない教え、これこそが形、目で見えないけれど、その教えを行うこと、別の記念日を祝うことで現れ出るでしょう。行動として。

それが偶像なのです。

そして、神の言葉を捨てるという行動を通して、神の教をないがしろにしている実態が、周りの人に見えるのです。

本体と切り離されて、影が勝手に地上で動き、生きて、偽物を

映し出している、それが、神の教えを捨てて、人間が作った

偽物の教え、偽物のメシア像を語る宗教の教えを生きることです。

神の教えを知らない人には見えないけれど、神が禁じたことを

する、罪を犯す、汚れた動物を異教徒と同じように食して

偶像の神を拝むが如く、神の聖別された記念日を汚す。

聖書にはないローマ教のミトラ神の教えを通して、イスラエルの神を拝む。

これ、イスラエルがやった高き所の礼拝と同じです!

彼らは、何も異教の神々を拝んだのではないのです。

出エジプト後のシャヴオートでも同じでしょう。婚姻契約を受け

取りに山の上=天の中に入ったモーセが、携帯も、ネットもないから、今どこで何しているの!?と連絡も出来ず、通信途絶えて四十日。しびれを切らせて、自分たちが培ったエジプトの

太陽神、ラーこれ太陽は全ての異教の神々の大元なのです。

その太陽神の礼拝で習った、子牛を通して、イスラエルの神を

崇め、イスラエルの神の祭りをやった!と書いてある意味を

正しく理解すれば、見えて来ます。

これこそが、姦淫の罪、混ぜ物の異物、生ぬるい、バビロン

大淫婦、666、反キリスト、獣の刻印と色々な名前で呼ばれる

混ぜ物の宗教、異教の神々の要素を取り入れて、イスラエルの

神を礼拝する!と警告しているのに、ローマ帝国教はそれを

そのまま地でやって来たのです。

偶像は、形で作る前に、人の思索にある。それが偽物宗教の思想

なのです。それこそが、神が警告する偶像そのものなのです。