2世紀以降、地上から使徒達が全て去った後、「西洋教父達」により
ヘブライのトラー、預言書、諸書=聖書ではない、
異邦人、グレコローマ哲学思想、グノーシス思想、禁欲主義思想、
ありとあらゆる聖書とは異なる異物の思想、異邦人の世界に浸透した哲学思想を通して聖書を人の思想で解説されることが始まりました。
ユダヤ人抜き!異邦人だけの世界。誰も、オリジナル聖書の教え、
パウロのように正す人が周りにいない、聖書ではない聖書解説を
することが、既に始まっていたのです。
パウロが手紙を送った群れも、ヨハナンが黙示録で7つの群れに
書いた内容も、その宛先は、ユダヤ人が中心の群れなのです。
それらトラー、契約に根付いた生き方を捨ててはならない!
異教の神々、女神、異物の思想を生きてはならないと神から警告されていることを知っていたはずのユダヤ人でさえ、ローマ帝国の迫害の下、偽物、混ぜ物、異教の神々、女神の宗教と皇帝崇拝カルトに
屈してしまった人がいたから、厳重警告がされたのです。
そして、神の言葉、契約、トラーに戻れ!という警告は、今の異邦人には、話しても、聖書に書いてあっても、その意味は全く通じても
いません。黙示録は、はじめの愛=神の教えから離れるな!と言う
警告が中心の手紙であるとも、理解していません。
はじめの愛=トラー=モーセの五書に記された教えから、異邦人が
完全に離れて行ったのが、この2世紀以降であり、それが今に至る
迄、引き続きずっと続いているのです。
神が警告していることは、神の名を使い、利用して、イスラエルの神のものとは違う、別物、混ぜ物、人間が作った宗教の実践、生き方をやること!なのです。
それらが、トラー、預言書、そして、それが黙示録の最後に至る迄
記されているのです。
しかも、英語翻訳など見ると、過越の祭りが、「イースター」
などという、聖書にない祭り=異教の女神の名の祭りとして訳されている。このような、翻訳違反が普通に横行しているのです。
過越の祭りを、クリスチャンは知らない。イースターという女神の名が付いた復活祭は、イエシュアが教えて、聖書の中で祝われたものだと信じていませんか?
イスラエルの神、イエシュアを、モレク神などと呼ばないでしょう。
そんな違反を、しているのです。
2世紀の西洋教父達は、神が伝える言葉、シャバットや、祭りを
彼らが勝手に否定し、神のモアデイムを勝手に変更して、西洋人に
より、神の言葉がハイジャックされて、変えられてしまったもなのです。神の言葉、聖書が、人間に乗っ取られたのです。
神の言葉を人間が変えて良い、時代ごとにマッチした解釈に変えて
良いとする権威を、神から与えられたなどという神に対する冒涜的
空想話を、西洋宗教、教皇、司教、又はクリスチャン教師、牧師も
語ります。
今もプロテスタントも、カトリックもそう主張しています。
その果てが、罪を犯しても良い!罪が罪ではなくなったと言います。
そんなこと言ってもない?いや、神の言葉を終了、無効と人が言い換え、
今はいつでも聖日、主の日、安息日、記念日と言い換え、
神が人に伝える罪の定義、聖別の定義をごっそり捨て、
今はLGBTQ、神が禁じている関係、婚姻関係などと、永遠にならない最もおぞましい、命のデザインを破壊する罪を、平気でクリスチャンが支持している。これが、罪ではなくて、それを何と言うのですか?
そうです。神の教えを捨てる、イコール、神が伝える罪の定義
聖別の定義を根こそぎ捨てていることをしているから、何が神の教えで、何が人間が作った教えかの区別、識別が出来ないのです。
神の言葉を捨てる、イコール、神の言葉を基準としない思考回路、
態度、生き方であると、分からない程、真理から逸脱、離れて
しまったのです。はじめの愛=神の教えから離れれば、どのような
方向、度合い、罪にもずれることが出来るからです。
神の言葉、教えではなく、人間の思想を基準としている。
完全なる冒涜、罪であることを、堂々と無感覚に、神に対して人が
言えるのは、異邦人は、神の教えを、はじめの愛を捨てたからです。
神の言葉が消え去ったら、誰の教えを基準としているのですか?
人間の思想、宗教を、神の言葉の上に持って来て、それを絶対と
しているのです。それが西洋宗教の思想なのです。
そして、神が創造された時、聖別された日の意味、神が人に伝える
「神が聖別されたという言われる意味」を聖書から正しく理解しない人達が、今はいつが安息日である?「365日、どの日も聖なる日だ
と自分は信じています。」などど人に教えている牧師がいますが、
そのような事を発言する時点で、神の言葉、神が語る意味を理解していない、知らないということは、明らかです。
こんなことを、議論する人は、聖書には登場しません!
いや、違反をやった王、1列王記12章にある、ヤラベアムの罪
それを、西洋教父達が同じようにやったのです。
神のモアデイムを、人間が勝手に作り変える!!!
聖別したとは、「神が神の創造の目的通りに分かたれた」という
意味であり、日曜日は、神のアポイントメントの時として創造された日ではなく、労働の初日なのです。神は、その日を聖別していない
アポイントメントの日として、定めていない。特別な会見の目的の
為に、祝福、聖別してない、普段の日です。それは永遠に変わらない。人間が神の創造、時、モアデイムを変えられません。
ヘブライ語で記された聖別の意味を、知らないまま、勝手な想像で
解説しているからです。
自分が、どう考えるか、信じているかは、神が伝えることとは全く
関係がないのです。
神が伝えることを、人が聞いて、受け取り、生きる。
聞く、その通りにする。これが基本なのです。
それをする人、しない人。神の言葉を否定し、神の教えとは違うことをする、それは神に対する敵対する人、そのものがやる行動なのです。
考えても分かりませんか?子供が親の言うことに逆らい、親の言われた言葉を、子供が否定し、親がしてはならにと言うことをことごとくやり、しなさいと言われることをことごとく無視してしない。
それは反抗的な子供であり、親に対する、尊敬、敬愛、信頼がない
子供です。それを、やっているのに、気が付いていないのです。
なぜなら、ジーザスと言いながら、同時に神の教え、イエシュア
ご自身である言葉を否定しいる意味を、全く理解していない。
代わりに、人間が作った別物が本物と信じ込んでいるから
分からないのです。
それが、聖書の最初から、至る所に記されているのです。
エデンの園の神の言葉、エデンの園を出て直ぐに、アベルとカインが
捧げているコルバンでも教えているのです。
神が言われた通りをしたアベルと、神が言われた通りをしなかった
カインのことが書いてある意味を、読み取る。
そして、天の神の家、目に見えない神の家を地上でそっくりそのまま
作らせた時に、神が言われたのは、「神が見せた、示した、そっくり
その通りを作って!」この意味を理解していないのです。
モーセでさえ、1度目は、岩を叩いて水を出せと言われ、その通りにし、2度目はもう少し上のチャレンジ、「岩に命じて!」
これは神が言葉で創造された言葉で、無から有を生み出す、その役割を教えた、神の言葉通りにすると、それが実現することを、人の前で
示さなくてはならなかったのに、何をモーセはしましたか?
岩を2度も叩いた。そして、神が言われた通り、「岩に命じない」で、言われたことと違う
ことをしたのです。
この意味を深く考えないとならないのです。聖書に記されている全ての出来事は、神が厳選した出来事であり、私達に神の教えを伝える
ものなのです。
宗教の世界は、もう人間が主体。神の言葉、教え、生き方を破壊する世界です。
神の言葉を破壊して、自分たちが勝手に考えたことを、やめないと
ならない時が来ているのです。
小さいことから、大きな綻びが出てくる。戸口で、罪を制さないと
ならないのに、自分の中に簡単に招き入れている。
いや神の言葉を無視して、食べてはならないと言われたものを
食べる!これにより死が入り、罪が入り、神との隔たりが出来たということを、全く考えてもいないのは、イエシュアの処刑で、
全部チャラ、なんでも許される時代になったと、別の意識、軽い意識考えでいるからです。
最初から同じです。神の言葉に反することを生きる、刈り取る結末が
あることを、忘れている。そして、偽物を信じて生きることは、
自分に破壊、歪み、偽物のを生きる、知らない間に罪を生きて、
聖別を汚す、イエシュアの似姿とは、別物の宗教の教えをこの地上で映し出し、人に聖書ではない、聖書に書かれていもいないイエシュアや、偽物の聖書解説をして、人を誤りの道に誘ってしまう、
それが宗教の世界なのです。
それは、何も人を騙そうとか、人から搾取しようと思っている人ばかりではありません。中にはそういうことをしている人達は大勢いますし、人を虐待する、破壊する人もいます。
しかし、偽の教えをする、イコール、悪人ではないのです。
何が悪いのか? 偽物の教えと聖書が見分けられないことです。
そして、偽の教えを本当だと信じている、その偽の教え自体が
諸悪の根源であり、世界へ浸透してはならない毒物だからです。
神が言われたことを、人が拒否、捨て、終了、破棄し、無用と
言い続けている、それは、神を愛する人がすることではないという
ことが、分からない、理解していないのです。
そのような思想、行動は、神の教えなどではありません。
根拠にするのは、神が人に伝えた永遠不変の教えしかないのに、
それを人間が曲げて、歪めて変えているから、絶対的根拠がない!
問題の原因は、人間が神の教え、言葉を変えていること、それが
全く理解されていないのです。
パウロが、諸外国の群れ、それらの群れ、カハール、エクレシアは
ユダヤ人中心の群れでしたが、その群れの中に起きている問題に対しての、トラーからの対処、知恵を書いたものが、パウロの手紙です。
神の教えは、正しく理解して、その後、適用が出来ます。
ある事柄は、選択の余地がない。詰まり、罪は罪であることは
何の余地もないものなのです。
そして、ある事柄は、適用の仕方が違う点があるのです。
これは、別のトピックですから、今は書きませんが、
分かりやすいところで、神が第七日目、新月、春と秋の祭りを
聖別し、「永遠に祝われるわたしの記念日である」と宣言したら、
それは、絶対に人は変えられないものなのです。
神は、神の名を使い、別物をやることを、神が物凄い度合いで、
忌み嫌うとずっと人に伝えているのに、神の名を利用し、
別物をやり続けているのに、全く気が付いていないのです。
しかも、神の教え、モアデイムを捨て、異教の女神の名や、
異教の神々の祭りをパクるようなことを、西洋教父達は平気で
できたのは、神の言葉、教えが何か?という基本的理解が完全丸ごと欠如し罪が罪とも分からないからです。
LGBTQを称賛、賛同している人達と全く同じ思考回路なのです。
拡散、浸透、流通してしまった偽物の教え、「第四の獣」が4世紀に
作った宗教の教えや、その宗教から発生した、人間が考える聖書概念教理、神学、聖書から逸脱した全ての思想、実践、記念日、聖書解説はリコール出来ない、元に戻せません!
しかし、聖書とは違う聖書解説、聖書ではないイエシュア像、
イスラエルの神、様々な教えが聖書から逸脱したものであった事に
気が付いた人は、自分の中から、自分の頭脳、思索から、それら全てのゴミ、パン種偽物の教えを排除し、神の言葉に戻る事、
そしてそれを生きることに切り替える事ができるのです。
2世紀以降、異邦人の間では、どこを見渡しても、西洋教父が教える
西洋宗教だけ、その一択しかなく、イエシュアが教えられた
トラーは、教えられて来ませんでした。神の教え、言葉を異教徒上りの異邦人達に乗っ取られたのです。
皆が信じる作り話、空中軽挙も、この世の終わりの大惨事が書かれているのが、黙示録だと言うのも、聖書から逸脱した考えです。
黙示録は、この世の終わりの大惨事が書かれている〜と、疑いもなく信じて、ヨハナンの黙示録の警告、預言は、はじめの愛を捨てた人たちへ偽物の教えに同化、迎合、同調、シンクロしてはダメである!
はじめの愛=トラー=神の教え=契約=モーセの五書に記された
神が伝える生き方からずれず、しがみつき、そこから離れないで、
患難を乗り越えろ!と言うメッセージなのに、イエシュアの意図、
警告は全然伝わっていません。
アイルランド人ダービーが、ある15才の少女が見た幻に感銘を受けて、その幻から編み出した思想が、秘密裏の再臨、空中軽挙でクリスチャンが全員消えると言う、聖書にはない思想、聖書を正しく知らない人が作った空想ファンタジーストーリーなのです。
聖書ではありません。
1800年代、その時代まで見逃されていた真実、真理が19世紀に明かされた?と信じる牧師、教師がいるのです。
聖書記者、預言者、使徒、ユダヤ人にはそのような思想は、全く異物
フォーリンなものなのです。
人の思想で編み出す聖書から逸脱した聖書解釈、解説は、1世紀後半
以降、使徒達がこの世界を去った後、正しく聖書を理解しない西洋
教父達により、神の言葉が自由自在に曲げ続け、破壊し続け、
歪めた思想を編み出した、その延長線上でもあるのです。
神の言葉のハイジャック。ユダヤ人全て追放して、西洋風、フラダンス風に歌舞伎を変えるようなことを、やり続けて来たのです。
先ず、キリストが来られてキリスト教という新しい教えが初めて
伝えられ、ユダヤ教という教えが廃れた!と言う、誤解を解かないと見えません!
聖書は、モーセの五書、預言書、諸書だけなのです。
今のようなユダヤ教も、聖書にはない、もちろん、西洋人が4世紀に
作った、カトリックも、その後のキリスト教も聖書には書いてありません!
聖書記されているメシア、イエシュアを残りの民を、ユダヤ人は
皆待っていたのです。今も同じです。あのイエシュアが、タナックに
記されたメシアであると認識できないユダヤ人がいるのです。
しかも、キリスト教の世界で語られるイエシュアは、タナックに記されたメシアとは、別物を解説している、それも大きな問題なのです。