神の教え 言葉から引き剥がす偽の教え 人間が作った宗教の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ユダヤ人の中には、イエシュアの最初の到来、悩める僕、罪なき人が罪となる為に来られたことを知っていた人が居ました。

神の言葉そのものが、肉体となって地上で、人の間で生きることで、

人が目えない神、言葉で表されたその通りを生きる

イエシュアが真実だと証明されるために来られたのです。

 

メシアの第一の到来、屠られた子羊、弱い僕と、二番目の到来、

獅子として来られる。

王の王、主の主、大祭司、世界を統治するお方として再臨される

この2つの区別がないまま、最初の到来でローマ帝国の迫害、

圧力支配から、完全解放してくださる方と期待していたのです。

メシアが、イスラエルの王であるお方が、いとも簡単に、ローマ帝国に、裁判も通さないまま処刑されてしまい、こんな姿は、メシアではない!と判定した人達も多くいたのです。

 

一方、当時イエシュアをタナックに記された約束のメシアであると

はっきり認識した人の殆どがユダヤ人だったのです。

その事実を、頭から外さないで考えてください。

異邦人の中で、トラー、預言書に記されたメシアを待望していた人

はいないでしょう。なぜなら、トラーを知らない、イコール、

それが異教徒異邦人だからです。

ごく少数のトラーに親しんだ異邦人は、周りの誰かにそれを教えられた特殊な人達だけです。

今でさえ、異邦人は、イエシュアが教えられたトラーを知らないままなのですから。

黙示録の7つの群れも、クリスチャン異邦人の教会などではありません。

教会という言葉も、聖書にはありません

教会とは、聖書にない言葉であり、異邦人が作った造語であり、

元の言葉、カハール、エクレシア、神に呼びされた人々、群れを

正しく反映し、表す言葉ではない、不適切な訳です。

「教える会」なんて、聖書にはない言葉、概念です。

しかも、聖書には、第四の獣が4世紀に作った宗教を「教える会」

とも書かれていません。

ヘブライ語=カハール、その翻訳のギリシャ語=エクレシア、

群れです。

何度も書いている通り、翻訳者の思想、違反があるのです。

翻訳者が、聖書は神の言葉と信じていない、又は、神の言葉は

昇天以降廃れたという嘘を信じる人なら、そのような思想を

反映させて、訳しているからです。

クリスチャンの多くが、神の教えが変わったとされる箇所、

それらの箇所は、そのような思想を持つ人が、聖書にない言葉を

付け足したり、原典に無い文章、言葉を挿入させたり、

言葉自体を変えたり、又は、あたかも神の言葉が変わったような

ニュアンスに言い換えているのです。

間違った聖書解説、解釈が浸透しているだけなのです。

書かれている本当の意味を、正しく読み取れない教師に教わるからです。

しかし、それらの箇所、マルコ7、使徒10、使徒20、

ローマ14、コロサイ2、1コリント16、ヘブル8;13など

古い律法が廃れたなどと書いてあると、原典にない「契約」という

言葉が挿入されていますが、文脈を読めば分かりますが、

祭司システムのことが書かれているのです。

未来、イエシュアがメルキゼデクの位に属する大祭司として

世界を統治されれば、レビ族アロンの家系の大祭司は、エルサレムの

神の家では、本物が来られたから、本物を代表する役割は、本物に

入れ替わるのです。

神の教え、契約、トラーの中身が変わるという考えは、聖書ではない

異物の教えです。西洋人の産物であり、聖書ではない。

 

黙示録に登場する7つの群れは、現在の西トルコ周辺にあった7つの都市に住んでいたユダヤ人のカハール、群れなのです。

空想で聖書を、自分の考えを通して読む場合、キリスト教という

新しい教え、ユダヤ教から脱出した、新しい異邦人クリスチャンの

7つの教会と考えていませんか?

黙示録には、そんなことは1つも書かれていません。

聖書には、カトリック、プロテスタント、キリスト教の教えも書かれていません。

日曜礼拝も、クリスマスも、イースターもない。

そして、神の言葉=はじめの愛=トラーが廃れた!という第四の獣と、西洋教父の勝手な冒涜的主張、教えも書いてありません!

創世記の最初から、イエシュアは教えられているのです。

途中で神の言葉や教えが変化したいうのは、西洋人の思想であり

聖書ではありません!

 

最初から、第四の獣が作った宗教は紛い物で、作ってはならなかったもの、存在してはならないものなのです。

でも、クリスチャンは、カトリックがキリストが来られてから、

ペテロが初代教皇として作られた宗教だと信じていませんか?

いや、プロテスタントなら、カトリックの教えに同意できないでしょう。

 

とにかく、イエシュアは、カトリックや、プロテスタント、

キリスト教、人間が神の教えを否定、破棄し、終了したという思想を

土台とした、紛い物、混ぜ物宗教の教えなど、人に伝えていません!!!

それが第四の獣で預言されたローマがしでかした罪であること、

神のトラーと、神の創造されたモアデイムを尽く破壊し、捨て

別物の教えと、別物の記念日、日曜礼拝、クリスマス、イースターを

作った!ということに、全く気がついていないのです。

 

西洋宗教歴史を正しく学び、神の教えが廃れたという思想、主張こそが神に敵対する反キリストの主張、行為であることに、聖書を読んでも

気がつけないなら、どこまで行っても、白蟻の巣、ネズミの巣、

パン種、建物を破壊する問題には辿り着けません。

 

正しい聖書教育がなされないまま、エクスタシーを求める、

エクスタシーとは、体験主義、高揚感、体験それを今も求めて

偽物の教えが拡散させる場所に、行列を作って並ぶ人たちがいるのです。

主に出会う体験、イコール、エクスタシーを求める体験です。

特別な高揚感、不思議、奇跡、癒し、預言そのような目に見える

手に取れる体験を求めて、神が教える深い考えを知ろうとも、

正しく学ぶ機会も与えられていないのです。

乳飲み子状態で、信じた後、生まれた状態から、正常に成長して行くには、神の言葉を知る、学ぶ、それがなければ、何を生きたら良いのか分からないまま、人間が考えるそれ、宗教を生きてしまうのです。

 

それ以前に、2〜4世紀に異邦人により、神の言葉がキャンセルされ

曲げられ、変えられると言う大違反、罪が堂々と横行し、

その後4世紀にそれら、反ユダヤ、反トラー思想を土台としる宗教が

作られてしまったのです。

その宗教の思想に乗っている限り、神の純粋な言葉の理解はできないままになってしまうのです。

イエシュアが教えられたトラー=父の教え=はじめの愛とは程遠い、

人間が作った宗教の教えを、異邦人は聞かされて来たのです。

 

その空想話の前に、古代ユダヤ人の世界で知られる婚礼、そして

戦争勝利など、人々が出迎えに出ると言う慣しがありました。

 

聖書は古代中近東、その文化、言語で記されたものです。

当時の人達が誰でも理解していた一般的なことが、古代ヘブライ、

ユダヤ人、トラー、神の教え、神の国の文化に何の知識、理解、

馴染みもない現代の外国人日本人には、

 

婚姻プロセスでも、婚約したイコール、婚姻した事実と同じです。

しかし正式な結婚迄は、別々の場所に住んで、花婿が迎えに来る

その日まで、離れて暮らすのです。

10人の乙女のたとえ話は、黙示録の5つの群れ同様、

5=モーセの五書、婚姻契約、トラー=油を自分の内側に保ち、

神の教え、実態を生きて、イエシュア、花婿をまっていた人達の例えです。

他の5人は油=はじめの愛=契約=トラー=神の教えを生きていな

神の教えが分からない、イコール、眠った状態の人々、黙示録で

警告されている5=はじめの愛を捨てて生きた状態の人と同じです。

 

マタイ25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。

25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。

 25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。

25:5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。

25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。

 25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。

 

空中軽挙で、天に吸い上げられ、クリスチャンだけ消えるという

15才の少女が病の床で見た幻、空想話は、聖書ではありません。

古代の儀式、慣しを知る人なら、この意味が何か分かるからです。

 

古代のユダヤ(および古代近東・グレコローマン)世界において、人々が街の外や途中の道路まで「出迎えに出る(英語:go out to meet / ギリシャ語:ἀπάντησις - アパンテーシス)」

という行動は、主に「婚姻(婚礼)」と「王や権力者の訪問

(戴冠式や戦勝帰還含む)」の両方の文脈で極めて重要な意味を

持っていました。

 

結論から言うと、「婚姻」と「戴冠式(王の訪問)」の双方で

出迎えの文化が存在しますが、文脈や宗教的意味合いによって

少し役割が異なります。

 

1. 婚姻(婚礼のパレード)における「出迎え」

古代ユダヤの結婚式では、花婿が花嫁の家に彼女を引き取りに行き、自分の家(あるいは宴会会場)へ連れて行く夜のパレード

(練り歩き)が行われました。

 

どのような出迎えか: 

花婿が花嫁を連れて自分の家に近づいてくると、花婿の家で待って

いた大勢の友人や列席者、親戚、あるいは街の花嫁介添人の娘たちが、街をあげて、この日を祝うのです。しかも7日間。

ともし火(松明やランプ)を持って花婿を出迎えに出て、

一緒に宴会会場へと入っていきました。

 

戴冠式・王や公人の訪問における

「アパンテーシス(出迎え)」古代世界(ユダヤ社会やローマ帝国)には、「アパンテーシス(ἀπάντησις)」

という公式な出迎えの慣習(公的儀礼)がありました。

 

どのような出迎えか: 尊い人物(王、新しく戴冠した君主、将軍、

要人)が都市を訪問する際、都市の市民たちが街の門を出て、

途中まで出迎えに行きます。そして、その要人(王)を歓迎し、

自分たちの都市へとエスコートしながら一緒に戻ってくるという儀式です。

 

ダビデ王が反乱を鎮めて帰還する際、ユダの民や要人たちが

ヨルダン川まで王を出迎えに行きました。サムエル記下 19章

 

王の訪問(アパンテーシス)モデル: 市民が王を迎えるために

街の外へ出て(空中へ引き上げられ)、帰還する王(キリスト)を

地上(御国)へとエスコートして戻ってくるというイメージ

です。

婚礼モデル: 花婿(キリスト)が花嫁(教会)を迎えに来て、

天の父の家(宴会)へと連れて行くというイメージです。

天に消えるのではなく、皆がいる地上、天と地が1つになる。

婚姻: 花婿の到着を提灯やランプを持って出迎え、宴会へ入る。

 

戴冠・王の訪問: 王や勝利した将軍を街の外まで出迎えに行き、

街へと一緒にエスコートして戻る。

古代ユダヤの世界では、どちらも「喜びと最大の敬意を表す歓迎の

儀式」なのです。

 

このような儀式を実際にやっていたユダヤ人は、イエシュアが

秘密裏の再臨で来るという嘘、そして、クリスチャンだけが永遠に

天に消えるという嘘、アイルランド人の15才が見せられた幻

幻覚、これは、聖霊ではなく、別の霊、又は幻聴、幻覚を見て、

それが神から示されたという思い込みの勘違い。

他の偽預言者と同じように主張したに過ぎない紛い物なのです。

 

それを、ダービーが取り上げて自分教、教理を作って、アメリカ、

世界に浸透させてしまったのです。

パウロのようなヘブライのトラーを正しく学ばない、知らない人、

翻訳聖書を、第四の獣が作った人間が神の教えを否定するような

思想、宗教を信じる人が教えるような聖書解説、それはある一部分は

聖書でも、後はその人の思想、人間の宗教、教理で解説される

聖書解説であり、聖書から逸脱した教えが無数に出てくるのは

誰も止められませんが、それを拒絶し、偽物の教えと判定することは出来ます。嘘の教えに聞き入っている時間が無駄であり、嘘に

騙されること、それは光〜イエシュアの実態、トラーを生きることではなく、神の言葉ではない騙し=闇を生きることなのです。