ヘブライ ユダヤのイエシュアがギリシャローマに乗っ取られ変装させられた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

カトリック、キリスト教、異邦人クリスチャンの間で一般的に語られる教え、聖書解説は実は聖書に基づいた事実ではない解説が無数にあります。

それは、繰り返し書いている通り、預言書、黙示録に預言された通り

人、ローマ帝国が神の教え、トラーと神のモアデイムを変える!

その預言通りのことが、4世紀にされてしまったからです。

 

神の言葉、イエシュアがハイジャックされてしまった。

ヘブライの世界、ヘブライ思索、ヘブライのトラーが、グレコローマ哲学思想、ソクラテス 、アリストテレス 、プラトン、グノーシス

主義、禁欲主義、神の創造を歪める思想、異教の神々、女神神話、

物理的な物は、霊的なものに劣ると言う思想をどっぷり刷り込まれたのです。

神が神の言葉で、この世界を物理的に造られたのに、それら神が創造された世界を、霊的なものより劣るものと考えているのです。

それらが、物理的、肉体は劣る、悪い、汚れている。

物理的な神殿は悪い、廃れる。

そのような拭っても、拭えない、白い布に黒い染料を浸透させたように、消えないものなのです。

 

神の言葉は廃れる、霊に導かれることが大事だ。

はてな?の解説です。神=言葉ということを、理解していない人が

語る思想であり、それこそが西洋教父達が傾倒したグレコローマ哲学思想のそのものです。

聖霊により、神の言葉が記されたのです。言葉で、全てのものが創造された、その意味を考えてもいない、知らない、いや、考えてもピンとこない、しっくりこない、神の語る世界、教えの実態から遠く離れているのは、違う思想を刷り込まれた異教徒異邦人育ちだからです。

 

なぜ、ヘブライ、ユダヤ人のメシアであるイエシュアが、

聖書に記されてもない、別物、ギリシャ、ローマのジーザスに変身

変化、進化する神のように、公然と堂々とクリスチャンにより

語られているのか?

聖書を塗り替える思想に、ローマ帝国により乗っ取られたからです。

 

人口構成の変化(デモグラフィック・シフト)

イエシュアが来られた当時、初期の数十年に於いては、エルサレムを中心とする、ユダヤ人の群れであり、イエシュアが教えられたトラー=父の教え=契約を生きているユダヤ人であり、イエシュアを信じた人達でした。異邦人は、ごく少数。しかも、異邦人など、生まれた時から、神の教え=トラーを知らないで生きてきた人々です。

異教の神々、女神、グレコローマ哲学思想に染まった思考。

70年にローマが神の家、神殿を破壊する迄、ユダヤ人の信仰の中心は、神の家=神殿が中心に行われていたのです。

昇天以降も、変わらずに、朝に夕にオラーのコルバン、全焼のコルバンが祭壇に捧げられ、芳しい香りは24/7、一年中変わらずに絶える

ことはありませんでした。

シャバット、新月、過越、シャヴオート、仮庵も、全てエルサレムの

神の家中心、祭りには、全国、海外から、大勢の人々がエルサレムに上って神の祭りを祝い続けていたのです。

クリスチャンの間では、使徒行伝を読んでも、それらが記されていることが読み取れないどころか、そんなことが、聖書に書かれているとも、考えにも浮かばないのが普通だと思います。

ヘブライ語、その翻訳のギリシャ語、その又翻訳の日本語の翻訳聖書を読みながら、実は、オリジナル聖書に書かれている意味の半分も

読み取ってはいない状態なのです。

元の意味が分からないからです。何が書かれているのか、分からない。

その代わりに、神の教えを、歪め、曲げ、変えた聖書解説、

西洋教父達の哲学思想を通して、伝統の聖書解説=聖書ではない聖書解説、ヘブライ思索とは違う、聖書とは違う聖書解説を施されて、

それが聖書と思い込んで来たからです。

聖書を読んでも、そこには、変化した神の言葉、神が神の教えを

キャンセルしたことなど書いてもないのに、神の言葉がキャンセル

され、新しい教えが、書かれ、昇天以降は、皆が日曜礼拝、

クリスマスイースターを祝ったことが、書かれていると、本当にそう考えて読んでいますか?そんな記録は、一体聖書のどこに書いてありますか?無いでしょう。ある訳などないからです。聖書に書いても

ないことを、信じていることが、変だと気がついていなだけです。

それらは実は、第四の獣、ローマ帝国の創作物であり、4世紀以降に

人間が決めてやり始めた、人造、偽物だから、聖書に書いてもないのです。

しかも、神の教えをキャンセルし、なし崩しにし、神の創造された

モアデイムを全部捨て、作り替えたものなのです。

それを、神が禁じているのに、神の教えはキャンセルされたと言う

大嘘、第四の獣の大嘘を刷り込まれた頭脳には、神の言葉、真実

真理が入る余地が全くなってしまっているのです。

聖書に書いてあることを信じないで、聖書に書いてもない、人間が

作った偽物の教えを、聖書と信じる、これ、物凄い騙し、闇なのです。

しかし、パウロや初期の宣教師たちが、ギリシャ、ローマの西洋宗教

世界全域で神の教え、トラーを教えることをするにつれ、

異邦人(非ユダヤ人)の信者が、ユダヤ人信者の数を急速に上回り、異邦人の群れの文化はヘブライ的要素からギリシア・ラテン的要素へと移行しました。

ヘブライ、ユダヤのイエシュアが、ギリシャローマのジーザスに

変身させられてしまったのです。聖書、神の教えの中身を、人間の

思想の解説で、曲げられ、歪められ、作り替えられてしまった。

異邦人イエシュア信者の特徴は何ですか?

先祖代々、使徒やパウロやその他、テモテのようにトラーを幼い頃から教えられ、シャバットや、新月、祭りを祝ったことがない

詰まり、神の教えの「いろは」を知らない人達でした。

 

今のように、個人個人の手元に聖書があっても、聖書を正しく理解していないことが一般的ですが、それを上回り、異邦人は、トラーを

ユダヤ人に教えられなければ、トラー、神の教えが何で、何を生きるように教えられているのか、全く知らない、それが普通だったのです。使徒1五章に、書いてあるでしょう。

イエシュアを信じても、異邦人は神の教えを全く知らないから、神が禁じた生き方を丸で知らない!異教徒と交わり、汚れた動物を平気で食する。これは、今も同じですが、レビ記11章に記された聖別された人の生き方も知らない。

そうなると、一緒に親しい間柄になり、食卓を囲み、シャバットや

祭りなど一緒には祝えないようなことをする異邦人は、先ず、仲間に加える条件として、最低限神が禁じている汚れた行為はやめてください!

そして、シャバットごとに、会堂でトラーを読み上げ、ユダヤ人に

その意味を教えてもらうことをしていったら、徐々に神の教えを理解できるようになるから忍耐しよう!寛容に受け入れよう!としたのが、エルサレム会議の中心なのです。

この箇所さえ、クリスチャンは、異邦人は4つのことだけ守れば

後の神の教えは生きなくて良いという意味不明なことを言っていますが、その中には、レビ記11章にある食規定があることを、知らないのでしょうか?

きよくない動物を食することは、悪食そのものであり、異教徒と同じ聖別を汚す生き方、神の前に罪、神の宮である人、聖別を汚す行為であることを、全く理解しないのが、現代のキリスト教なのです。

イエシュアが教えた教えとは違うことを教える、それは第四の獣の

神の教えの方を廃れたとローマの嘘を信じて、神の教えを勝手に

キャンセルしているローマの教えを信じているからです。

それは、神の教えが廃れた!という大嘘を刷り込まれ、神の前に

何がおぞましい、聖別を汚す行為、罪であるのか、全く理解がないからです。

神が禁じたこと、ダメと言われたら、素直に受け取る、その態度を

挫くのは、神の教えを人間が勝手に判定して良いと教える

大嘘です。分かりませんか?

子供が親に言われたこと、その時は理解できなくても素直に聞く。

この態度さえ学んでいないから、次から次へと勝手な思想、偽物を

編み出し続けて、聖書から逸脱した解説、生き方を平気でして

地上に異教徒と同じ影を映し出し、イエシュアが見えなくなって

しまっているのです。

境界線がない、それは、神の言葉を捨てているから。簡単な理由。

みんな偽物に混ざっている、でもキリストという名を利用しているから、分かりにくい、いや、聖書に書いてもないことをすること

イコール、偽物の生き方なのです。

 

解釈学的再解釈

西洋教父たちはヘブライ語聖書(旧約聖書)をトラーの教えを

その通り、文字通り・ハラーハー(トラー の規定)に従って、

ガードして生きることするスタイルから、キリストを「律法の成就」と意味不明な解説を加え、捉える比喩的・キリスト論的な解釈へと

シフトしました。西洋教父、ローマが神の教えを変えたのです!

彼らの特徴は、西洋哲学思想の世界なのです。

ヘブライ、聖書の世界は、思想の世界ではありません。

神の教え、イコール、全て生きることに繋がる、生きること!

生きることはキリストという意味は、イエシュア=トラーを生きること!と書いてあるのに、その意味を正しく読み取っていません。

西洋教父の教えは、哲学思想を考えるに留まり、神の教えを実際に

生きると言う実践には、繋がらない「画餅」に留まったのです。

ヤコブで警告されている通り、信仰があると言いながら、実際に

神の言葉を、生きない、眺めている、又は別のことをやっている

それを教えたのが、ローマ創作の宗教なのです。

だから、西洋宗教は、神の教えや預言を寓話とし、実際に未来

イエシュアが世界統治をこの地上の神の国、エルサレムの神の家から行うとは信じていません。

神の家は、悪い廃れた要らないもの!と言う、とんでもなく神の教え

言葉、イエシュアの意識、教えともズレた思想をクリスチャンは

持っているのです。

なぜなら、神の家、イコール、生贄、仮の許しはもう消えた!

と言う聖書ではない思想が、頭の中に入っているから、神の教えが

人の思想という固い鉄のガードを通り抜けられず、通じないままになっているのです。

イエシュアが言われたでしょう。未来、神の教え、トラー=はじめの愛を愛し、神のモアデイム、その中心であるシャバットを愛する

異邦人は、エルサレムの神の家、祈りの家、父の家の一番親しい場所に招かれ、コルバンの動物を捧げ、共に親しい宴会をする。

これが、放蕩息子のたとえ話にあった肥えた牛を屠り、食べて楽しもう!宴会、神の家の中の宴会に招かれると書いてある、その意味が

通じないのです。イザヤ56章 全部寓話、実際ではないと信じているのです。

言語と翻訳

初期の西洋教父たちは、ヘブライ語の原典ではなく、主に七十人訳聖書(ヘブライ語聖書のギリシア語訳)を使用しました。

この変化は、地中海沿岸全域において重要な神学用語がどのように

教えられ、理解されるかに大きな影響を与えました。

 

ギリシャ語は、当時の言語でしたが、その中には、ギリシャ哲学思想

ヘブライ思索とは違う思想が混じったものでした。

ギリシャ語訳がされる迄、ヘブライ聖書には登場しない言葉が作り

出され、それが翻訳に使われてしまったのです。

人を指して語る言葉を、霊、魂、心、など分断した言葉がそれです。

人は、そのような分断した存在ではないからです。

ヘブライ語では、ネフィッシュ、生きるものと言う言葉が、

分断された言葉で表されているのです。

 

ヘブライ語の本質とはそぐわない訳、翻訳がされてしまう、

それが翻訳の難点なのです。しかも、翻訳は、翻訳者の思想を投入、反映しているから、問題なのです。

初期の西洋教父達と同じようにその後、異邦人の手に神の言葉が

渡された後、オリジナルの神の教え、考え方とは全くずれた解釈が

雪だるま式に編み出されて行きました。

プロテスタントは、カトリックの編み出した教えが、聖書ではないと、それらのある部分を認識しているでしょう。

だから、カトリックとは決別したのです。

しかし、同じように、所詮、元が4世紀、第四の獣、ローマ帝国が

神の言葉に対して、人間が否定し、ユダヤ的なこと、一切排除!と

言うそのような違反行為から、作った宗教そのものが、問題だったと言うことに、全く気がついていないのです。

ダニエル書に記された警告通り、第四の獣が創作した宗教は、

最初から、人間、ローマ帝国が作ってはならないものだったからです。

キリストが2000年前に来られて、ユダヤ教と言う古い、仮の教えがキャンセルされ、生贄も廃止され、キリスト教、いやカトリック教と言う新しい教えが伝えられた!

このような、聖書とは全然関係のない、第四の獣の思想を捨てない

限り、聖書に記された事実が、全部偽情報で覆われ、人の空想で編み出された偽物の聖書解説で、神の教えがどんどんどんどん曲げられたまま、真相が見えないままになってしまいます。

このような考えをするのは、聖書を正しく教えられていないからです。これが、本当の問題なのです。聖書に登場する人は、

今のクリスチャンが聞かされているような聖書解説や、教えなどは、

全く異物、別の宗教の教えにしか聞こえなのです。

考えたら分かると思います。イエシュアが昇天された後、七週後に

シャヴオートの祭りがあったでしょう。

その祭りは、シナイ山で婚姻契約、ヨハナンがはじめの愛と暗号で

書いた、トラーを正式法的文書として与えた祭りなのです。

その祭りをエルサレムの神の家、神殿で祝ったのです。シャヴオートは、3つの都上りの祭りのうちの1つで、春の最後の祭りだからです。

イコール、日々、シャバットも、新月も、祭りの時も、変わりなく

コルバンが、神の家の一番親しい場所、お茶の間の祭壇で、捧げられたことが書いてあるのです。

パウロが、使徒21章で、ナジル人の請願を神殿で行ったと言う記事の意味など、正しく理解、捉えていないのです。

神殿に出向く、しかもこの請願は何日もかかり、大金がかかる請願なのです。大金、コルバンを祭壇で捧げるからです。

これ、変だと思いませんか?生贄はもう終了!だとしたら、どうして

パウロは、そんな請願を神殿でやっていたのか?

 

これは、西洋教父やキリスト教の教え、聖書ではない教えを通して

考えるから、真実が見えないだけなのです。

だから、聖書ではない聖書解説を捨てないとならないのです。

神との親しい関係は神の神殿の中で教えられているものであり

祭壇とは、食卓です。家の中のリビング、茶の間のテーブル。

みんなが食卓を囲む場所。詰まり、食事を共にするとは、親しい親密な関係以外の人とはしない行為だからです。

和解、交わり、修復、関係を育む、会話する、それは食事を共にする中で、行われるものだからです。

コルバンを生贄と訳していますが、「引き寄せる」「近づく」

と言うヘブライ語です。神に近づく、神が引き寄せる、それは神が

差し出したコルバン、イエシュアの購いの代価を通して、新しくされている、その事実からだけ、神と関係を持つ、近づく、対話する

祈る、関係を築く、それをコルバンを通して教え続けているのです。

 

未来、エルサレムに新しい神の家が天から降りてきます。

そして、その中にいる王、大祭司はイエシュアです。

未来預言を寓話と西洋教父の受け売りを信じる人は、神が伝える事実を知ることなど出来なくなります。