神の教え 生き方の中心は神の家 ベイト ミグダシュ神と共に住う人の生き方 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に記された事実を、知れば知るほど、どれ程異邦人が聖書から

逸脱した教えを編み出し続けたのか、ハッキリ見えます。

 

思想の土台自体が、聖書、神の言葉ではない異物なのです。

天国地獄概念、秘密の再臨で空中軽挙で皆が空に吸い上げられ消える

罪人の祈り、宗教団体がやる「不安をあおる座席」と言う前にある

座席に人を呼び、キリストを信じるか手を上げさせ、罪人の祈りをする、その他、聖書だと思っている内容が、実は、聖書とは関係のない

異邦人、西洋宗教が編み出したものが、無数にありますが

それが聖書と思っているのです。

 

信じたら、即座に隣の部屋に連れられて行き、その教会の会員登録をさせ、そこから、宗教活動中心の生活に移行する、これが普通だと

思います。

土台が、聖書ではない、ヘブライ思索ではない、ユダヤ人が見たら

完全に異物で何か分からない教えが、普通に西洋宗教では教えられています。

西洋宗教、西洋教父は、グレコローマ哲学思想に、思索が浸透された人達であり、その思想がどっぷり西洋宗教の教えの中に入り、占拠しているのです。

 

その1つが、「神の家、父の家、祈りの家」に対するユダヤ人の意識、

イエシュアの意識と、異邦人のそれとでは、完全にかけ離れ違うものであることです。

神殿と聞くと、イコール、要らない、廃れるべき場所、今は人が

神の神殿だ、そこは反キリストが立つ場所と、瞬時に連想しませんか?

どれ程、聖書とかけ離れた思想を植え込まれているのか、全く

気がついていないだけです。

 

それらの思想は、西洋教父達の思想から来たものであり、

神ではありません!!!

霊は崇高、気高く、きよいものであり、肉体、物理的なものは一時的

汚れている、悪いもの、廃れるべきものなどと考える思想です。

喜びは、悪く、苦しみは良いと思うでしょう。

それは、

ソクラテス: 紀元前469年頃 – 紀元前399年

プラトン: 紀元前427年頃 – 紀元前347年頃

アリストテレス: 紀元前384年 – 紀元前322年

それ以降は、ネオプラトン、ニーチェ、聖書とは異なる哲学思想を

通して、考える、語る西洋宗教の教えを、聞かされ続けて来たのです。

その結果、神の家は、朽ちるものであり、崩壊させられたのだと

クリスチャンは主張しますが、聖書を読んでいないのだと思います。

未来、天が地に降りて来て、エルサレムの神の家からイエシュアが

世界を、トラーを通して統治すると預言されているのです。

それらを、寓話としているのが、西洋教父達が作った聖書から完全

逸脱した、哲学思想を通して解説する聖書なのです。

だから、この地上の生き方、今を生きる!と言うことから、現実逃避思想を植え付け、天が大事、地上は借り物のなどと思うのです。

永遠の中の今に生きている。今見えない天の現実を生きていると言う

ことが、理解できないのです。

それ以前に、キリストが来られて生贄は必要なくなったのだなどと

考えている時点で、聖書を読むスタート地点から完全にずれた思想を

通して、考えていると気がついてください。

 

放蕩息子のたとえ話を読む時、神の家=父の家=エルサレムの神の

家、ベイトミグダシュと、ユダヤ人はそれを考えて聞いているのです。詰まり、全ての中心、父なる神が居られて、神は人の中に住うこと、それが神の家なのです。西洋宗教は神の教えが部分的にしか見えていない、しかしこれを聞いた人は、エルサレムの神の家を考えて聞いているのです。

生贄は、最初から罪の許しの為、その目的の為ではないからです。

それ故に、クリスチャン、キリスト教、カトリックその他、西洋宗教が語る、キリストが処刑、昇天されたから、それらコルバンは無効になりましたと言う教えは、トラーをイエシュアが教えられた通りに知らない人の解説なのです。

最初から、生贄、捧げ物と訳されるコルバンは、罪の許しのために

神がそのようにしたからではない!その事実が、聖書から理解できない人々が、勝手な聖書解説をしているのです。

未来、イエシュアが戻られたら、神の家で再びコルバンが捧げられるようになる預言を知らないのでしょうか。

それは、大いなる喜びであり、放蕩息子が戻って来た時、一番超えた

牛を屠り、祝宴した、そのことと直結しているのです。

コルバンは、神に引き寄せられる事実と、新しくされている事実

そして、神がされた購いの業、コルバンを通して、神に近づく

神と関係を持つ、対話する、関わる、交わることを教えているものだからです。

 

永遠の中に存在するイエシュア、購いの代価で神のものとされている事実を、実際神の家の中で、教えているのが、神の家の一番親しい

茶の間、祭壇を囲んで行われる修復、宴会なのです。

神の中に全てが造られている。人は神の中に住う。

神を、ユダヤ人は、「ハマコム」と呼びました。

それは、神ご自身が、人の住う場所、家だからです。

そして、その中心は、祝宴です。罪許され、関係が修復され、本来の

自分で神の前に出れる、皆でその祝宴を囲む幸い、喜びを教えているものだからです。それが、神の家なのです。

 

今は日本はお盆週で、帰省ラッシュでしょう。実家に帰り、家族

親戚皆で集まり、一緒に顔を見合わせて、ご馳走がたくさん乗せられた食卓を囲む。楽しい、幸いな事でしょう。

それが、家族、家なのです。

 

イエシュアが父の家をどれ程大事に考えているのか、書いてある意味が見ていないのです。異邦人には、感情的に感覚的、意識的にそれが

理解できないほど、神が伝える事実を理解しない頭脳になっているからです。

 

ルカ1ー2章を読めば分かりますが、イエシュアは、トラーの教え通り、両親を通して神殿で、割礼を授けられ、そして毎年、

神の祭りには、毎年エルサレムに上って祝ったのです。

 

ルカ2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ

上っていた。

 2:42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために

上京した。

2:43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに

居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。

 2:44 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、

 2:45 見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。

 2:46 そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

 2:47 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。

 2:48 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、

「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、

おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。

 2:49 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。

 2:50 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。

2:51 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、

彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。

 2:52 イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、

そして神と人から愛された。

 

そして、脳内空想のイエシュアとは違う、神の家を腐敗させたことに

直接憤りを見せたイエシュアが記されています。

これも、過越の祭りの時期に起きた出来事です。

それは、過越の祭り、都上りの祭りには、イスラエル、その他から

色々な人が上り、エルサレムの神殿は商売の巣になっていたからです。

高いレートでの両替、神殿指定のコルバンを高い値段で買わせるなど

ありとあらゆる方法で、人から金銭を搾取する人たち、もちろん

これにはローマ帝国が絡んでいたのです。

 

ヨハネ2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスは

エルサレムに上られた。

2:14 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、

 2:15 なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、

両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、

2:16 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。

2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。

 

神の家、それは世界の中心である神が選び出された場所、エルサレムにしか存在しません。

それが、神の家であり、世界の中心、神の民、子らが生きるモデル

になる場所、家なのです。

ここから、イエシュアの性質通りを生きる人が、世界に栄光を放射

する!それが、神の家なのです。

未来は、全世界がトラーを生きるようになる!エレミヤ31;31に

照らし合わせると、西洋宗教の教えは、聖書ではないことが分かるのです。西洋宗教は、古い教えは、キャンセルされたと言いますが

第四の獣の主張を勝手に復唱しているだけであり、神の言葉、預言の

事実から、遠く乖離し、逸脱した思想を世界へ拡散させているだけです。

 

神の家を語っているたとえ話があります。

これをクリスチャンが読んでも、エルサレムの神の家などと考えも

しないのですが、これを読んだユダヤ人は即座に神の家=エルサレム

神と親しい交わりをする家を考えているのです。

例え話に登場する場所、物、人物は、トラーの何かを表しているものなのです。

家=エルサレムの神の家、ベイトミグダシュです。

二人の息子、これは、異邦人とユダヤ人とも言えます。

又は、兄弟なのに、温度差がある、父に対しての思いが違う、

それでもあります。

そして、その兄弟間にも、亀裂があるのです。これは、全人類の

姿です。

使用人とは、神の子なのに使用人にして、住まわせてくださいと

頼んでいます。

しかも、どれ程落ちぶれたのか、人間が食べてはならない豚、その豚の餌を食べる程に、落ちブレたことが書いてあります。

屠る=神殿の祭壇での用語です。コルバンを屠る。牛!

一番大きい動物を、屠った!と言う意味です。

そして、その目的は、和解、修復。放蕩息子を許して、受け入れ

一番上等な服を着せた。服は実態です。神の子の性質を神が与えて下さった。

 

 

ルカ 15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。

 15:12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

15:13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。

 15:14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんが

あったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

15:15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。

 

 15:16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

15:17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。

 15:18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、

わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

 

 

<これは、イスラエルの歴史、捕囚の民となったイスラエルの心の叫びそのものでしょう。イスラエル、約束の地、乳と蜜の流れる美しい国に連れてこられたのに、神の契約を破り、聖別を汚し、この聖別された神の国を腐敗させる生き方に成り下がって、追放された。

放蕩息子息子は、自分で勝手に出て行きましたが、両者、父の家が

どれ程麗しく、慕わしい家、場所に気がついた、その点は共通しています。>

 

15:19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。

どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。

 15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

15:21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

15:22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。

 15:23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。

食べて楽しもうではないか。

 15:24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

15:25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、

音楽や踊りの音が聞えたので、

 15:26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』

と尋ねた。

 15:27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。

15:28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、

 15:29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、

友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。

15:30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。

 15:31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。

15:32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、

いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。